『赤いランプの消えたあと』

小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品

📅 公開日: 2026/10/17 📚 シリーズ: 短編集 📝 4,331文字 🤖 AI創作支援作品 ✅ 全年齢

あらすじ

短編が気が向いた時に繁殖します

本文

地方FM局の第2スタジオは、深夜になると急に狭くなる。

昼間はただの箱に見えるのに、二十二時を過ぎて外の廊下が静かになると、ブースの中にあるものだけがやけに濃くなるのだ。ミキサー卓のランプ、壁の吸音材、原稿の紙のこすれる音、マグカップの縁に残ったコーヒーの輪。

それから、人の声。

白石梓は、その時間帯の声が好きだった。

嘘が減るからだ。

寝不足と疲れで少しだけ守りが薄くなって、人は夜のマイクの前だと昼より本音に近い声を出す。だからこの仕事を続けてきたと言ってもいい。

梓は三十歳。

地方FM局の制作部で、番組構成とディレクションをしている。

担当しているのは、毎週金曜夜の生放送「ナイト・クロス」。リスナーのメッセージを読みながら、少し古い邦楽と雑談でつなぐ二時間の番組だ。

派手ではないが、固定のファンが多い。

その番組でパーソナリティをしているのが、相沢駿だった。

駿は二十八歳。

元々は局の営業で入ったくせに、声が通るとか空気を明るくできるとか、そういう雑な理由で夜の番組へ回され、気づけば人気の顔になっていた。

受け答えがうまい。

相手の言葉を拾うのが速い。

話しやすい雰囲気を作るのが異様にうまい。

そしてその長所を、番組の外でもそのまま使う。

「梓さん、今日の一曲目これでいい?」

ブースの向こうから、駿が紙をひらひらさせた。

ヘッドホンを首に掛けたまま、前髪だけ少し湿っている。雨の中を走ってきたらしい。

梓は卓の前で頷く。

「いい。最初に重すぎないし」

「よかった。今日、ちょっとだけ空気軽くしたかったんだよね」

「何かあった?」

「ある」

駿はあっさり言った。

「でもオンエア前に言うと長くなる」

「じゃあ終わってから」

「それが助かる」

その返しが、いつもの調子すぎて、梓は少しだけ肩の奥が固くなるのを感じた。

終わってから。

その言葉は、この半年で何度も聞いた。

終わってから、相談乗ってください。

終わってから、ちょっといいですか。

終わってから、どう思います?

相手はたいてい同じ人の話だった。

同じ人というより、同じ名前だ。

美咲。

駿が最近付き合い始めたらしい、広告代理店の女性。

年は同じくらい。

明るくて、自分の意見をはっきり言う人で、でもたまに何を考えているか分からなくなるらしい。

それを梓は、もう四回聞いている。

最初は、本当にただの相談だった。

番組終わりのファミレスで、駿がメニューも見ずに言ったのだ。

「梓さんって、こういうの、どう思う?」

そのときの梓は、まだ平気だった。

駿の恋愛相談に自分が乗ることが、こんなに嫌な形へ育つとは思っていなかった。

だが二回目、三回目と続くうちに、少しずつ腹の底が冷えていった。

自分が一番話しやすい相手であることと、自分が好きな相手に選ばれていることは、全然違う。

そんな当たり前のことを、分かりたくないまま引き延ばしていた。

好きだった。

たぶん、けっこう前から。

いつからかは自分でも曖昧だ。

最初は仕事の相性だった。言葉のリズムが合う、沈黙が変に気まずくない、番組中に少し目を合わせるだけで次の展開が読める。

そういう積み重ねの先で、気づいたら駿の声が少し特別になっていた。

けれど仕事相手を好きになるのは厄介だ。

うまくいかなければ仕事も崩れる。

うまくいく未来だけを信じるほど、梓は若くもなかった。

だから黙っていた。

黙っていたら、その「話しやすさ」だけが相手の中で育ってしまった。

オンエアの赤いランプが点いた。

駿がいつもの声で入りの挨拶をする。

「こんばんは、ナイト・クロスです。六月最初の金曜、今夜も二時間ゆるく付き合ってください」

柔らかい。

少し眠そうで、それでいてちゃんと届く声。

この人のそういうところが仕事としては本当に好きで、だから余計に面倒だった。

番組は順調に進んだ。

雨の話。

湿気で機嫌が悪くなる髪の話。

リスナーから届いた「告白するか迷って結局何も言えなかった」というメッセージ。

そのメッセージを読んだあと、駿が少し笑って言った。

「タイミングって、待ってても来ないことありますよね。自分で作るしかないのかも」

梓は卓の前で、ほんの一瞬だけ指を止めた。

よくそんなことが言えるな、と思った。

もちろん、駿に悪気はない。番組の流れの中で、ただそれっぽく答えただけだ。

でもその軽さが、今日は妙に刺さった。

生放送が終わったのは、二十三時五分。

エンディング曲が下がり、ブースの空気が仕事から素へ戻る。

駿はヘッドホンを外して大きく伸びをした。

「はー、終わった」

「今日は噛まなかったね」

「褒め方が保護者」

「事実」

「でも、メールの恋愛相談のとこ、ちょっと刺さった」

「へえ」

梓は原稿をまとめながら、できるだけ平坦に返す。

駿はミネラルウォーターを一口飲んでから、やっぱりあっさり言った。

「でさ、終わってからの相談なんだけど」

梓はそこで手を止めた。

止めた自分に、もう誤魔化しは効かなかった。

「美咲さん?」

「うん」

「何」

声が少しだけ固かったかもしれない。

駿は気づいていない顔で、卓の端にもたれた。

「来週、向こうの誕生日なんだよね」

「そう」

「で、飯行く約束はしてるんだけど、プレゼントどうしようかなって」

梓は一瞬、笑いそうになった。

笑うような話ではない。

でもあまりに、あまりに何度目だ。

何で自分に聞くのだろう。

なぜ、平気で聞けるのだろう。

「それ、私に聞く?」

梓が言うと、駿は少しだけ眉を上げた。

「え」

「その相談、私にする?」

「いや……梓さん、そういうの、ちゃんと考えてくれそうだし」

「ちゃんと考えるよ」

梓は資料の束を揃えたまま言った。

「考えるから、余計に嫌なんだよ」

初めて、駿の顔から軽い色が消えた。

ブースの中が急に静かになる。

壁の向こうの廊下では、別部署の誰かがキャスター付きの箱を動かしている音がした。

その現実的な音の中で、自分の言葉だけが少し浮いた気がした。

「……ごめん」

駿が言う。

「何が嫌だった?」

そこを聞き返してくるところが、この人らしいとも思う。

逃げない。

でも、最初からそのくらい人の気持ちに鈍くないなら、もう少し手前で気づいてほしかったとも思う。

梓は息を吸った。

今さら、冗談だとか、ちょっと疲れてるだけとか、そういう逃げ方もできる。

でも今日は、それをしたらたぶん自分が一番嫌になる。

「私」

梓は言った。

「駿のこと、好きだから」

言った瞬間、思っていたより世界は壊れなかった。

雷が落ちるみたいな衝撃もない。

ただ、ブースの空気の温度だけが少し変わった。

駿は何も言わなかった。

驚いている顔だった。

驚いているということは、やっぱり分かっていなかったのだ。

その事実は少し悔しかったが、今さらそれを責める気力はなかった。

「だから、恋愛相談されるの、しんどい」

梓は続けた。

「話しやすいって言われるのはありがたい。仕事でもそうやって信頼してもらえてるのは分かる」

「……」

「でも、そこに甘えて、その話だけは別だよ」

駿はまだ言葉を探していた。

梓はその間に、机の上のマグカップを片づけた。

手を動かしていないと、膝が少し震えそうだった。

「梓さん、俺」

「うん」

「全然、気づいてなかった」

「うん」

「いや、それ言うのも違うかもしれないけど」

「違わなくはないよ。実際、そうなんでしょ」

駿は苦いものを飲み込むみたいに頷いた。

「そう」

「ならそれでいい」

「よくない」

駿が、思っていたより強く言った。

梓は少しだけ目を上げる。

「よくないっていうか……」

駿は言葉を探しながら髪をかき上げた。

「俺、自分が梓さんにどれだけ甘えてたか、今のでやっと分かった」

その言い方は、ずるいくらい正直だった。

だから余計に、こっちも簡単には怒れない。

「甘えてたよ」

梓は言う。

「分かってる」

「分かってないからやってたんでしょ」

「今は分かった」

「じゃあ遅い」

少しきつく言いすぎたと思ったが、取り消さなかった。

取り消したくなかった。

駿はしばらく黙ってから、ぽつりと言った。

「美咲とは、まだちゃんと始まってるわけじゃないんだ」

梓は思わず顔をしかめた。

「それ、今言う?」

「言い訳じゃなくて」

「余計だよ」

駿が閉じた口の形が、少しだけ子どもみたいで、梓は腹が立つのに少しだけ笑いそうになった。

こういうところが本当に面倒だ。

嫌いになれない部分が、よりによって嫌なタイミングで出てくる。

「私はさ」

梓は卓のフェーダーを順に落としながら言った。

「今日、付き合ってくださいって言いたいわけじゃない」

「……うん」

「そうじゃなくて、まず、この変な位置を終わらせたい」

話しやすい人。相談しやすい人。仕事の相棒。

そのどれも間違っていない。

でもその全部に、自分の気持ちだけが載っていない状態を、もう続けたくなかった。

「だから」

梓は言う。

「明日から、恋愛相談は禁止」

駿は一瞬だけ間の抜けた顔をしたあと、苦く笑った。

「はい」

「あと、私が嫌そうな顔してたら、“またまた”で済まさない」

「……はい」

「返事軽い」

「今のは本気」

「ならいい」

そこまで言って、梓はようやく少しだけ息を吐いた。

正直、もっと泣くかと思っていた。

言ったあとで自分が惨めになるかと思っていた。

でも実際は、少し疲れて、少し恥ずかしくて、その代わり妙に視界がすっきりしていた。

片づけが終わって、二人でスタジオを出る。

廊下は蛍光灯が半分落ちていて、夜勤の警備員のラジオだけが遠くで鳴っている。

エレベーター前で、駿が言った。

「梓さん」

「何」

「俺、ちょっと考える」

「うん」

「ちゃんと」

「うん」

それ以上のことは言わなかった。

言えなかった、のほうが近いかもしれない。

でも今夜はそれで十分だった。

何もかもをここで決める必要はない。

少なくとも、曖昧さの上にだけ立っていた関係は、さっき終わった。

局の外へ出ると、六月の夜気が少しだけ湿っていた。

駅までの道に、コンビニの看板だけが明るい。

梓は歩きながら、肩の力が少し抜けているのに気づいた。

報われたわけではない。

うまくいく保証もない。

明日から気まずくなる可能性だってある。

それでも、冗談みたいに扱われる位置からは、自分で降りたのだ。

ホームに上がる階段の途中で、スマホが震えた。

駿からだった。

【今日、言ってくれてありがとう】

【あと、今まで本当にごめん】

梓は立ち止まらず、そのまま階段を上がった。

すぐには返さない。

返したい言葉も、返したくない気持ちも、まだ両方ある。

それでいいと思った。

ジレンマなんて、きれいに片づくほうがたぶん少ない。

でも、自分の気持ちを自分で雑に扱わないことだけは、今夜ようやく始められた。

電車が滑り込んでくる。

白い光の中で、梓は一度だけスマホを見下ろし、それからポケットへしまった。

赤いランプの消えたあとに残るのは、たいてい少し疲れた本音だ。

けれど、その本音でやっと前に進む夜もある。

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