『修了証の角』

小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品

📅 公開日: 2026/10/29 📚 シリーズ: 短編集 📝 3,678文字 🤖 AI創作支援作品 ✅ 全年齢

あらすじ

短編が気が向いた時に繁殖します

本文

職業訓練センターの三階教室は、修了式の日だけ妙に広く見えた。

いつもはぎゅうぎゅうに詰まっていた机が、半分ほど片づけられているせいだ。壁際に積まれたパイプ椅子、返却待ちの参考書、誰のものか分からないマグカップ。三か月前は知らない人しかいなかった場所なのに、今日はもう「終わる場所」の顔をしている。

秋庭遼は、椅子に座ったまま、膝の上の修了証書を見ていた。

厚紙の匂いがする。名前がちゃんと活字で入っている。

たぶん、こういうのをもらうために通っていたわけじゃない。

けれど、じゃあ何のためだったかと聞かれると、少し返事に困る。

三十二歳。

去年まで勤めていた印刷会社が工場統合で人員整理になって、半年ほど仕事を探し、それから市の再就職支援でこの訓練センターへ来た。

コース名は「建物設備保守実務科」。

電気、空調、給排水、簡単な修繕、点検記録の書き方。要するに、建物を動かし続ける側の仕事を学ぶ場所だった。

最初は正直、気が進まなかった。

もう三十を過ぎて、今さら教室で座学を受けるのも情けなかったし、知らない人間とグループを組むのも面倒だった。

なのに、終わるとなると、少しだけ息の置き場がなくなる。

「遼、顔こわいって」

前の列から振り返って言ったのは、同じ班だった三崎だった。

年は二十五。元々はアパレルの販売をしていて、店が畳まれてここへ来たらしい。口は悪いが、人の沈んだ空気だけはよく拾う。

「こわくない」

「修了証に恨みでもある顔してる」

「ない」

「じゃあ嬉しい?」

「それも違う」

「面倒だな」

「知ってる」

三崎は笑って前へ戻った。

その雑さがありがたかった。

この三か月、教室の連中はだいたいそんな感じだった。

妙に踏み込みすぎず、でも放っておきすぎもしない。

大人だからこそ、気の遣い方が少しだけ雑で、その雑さが救いになることもある。

このクラスには十五人いた。

前職も年齢もばらばらで、二十代前半から五十代までいる。

整備工、介護士、営業、事務、飲食、倉庫、接客。

最初のころは、互いにどこか警戒していた。

仕事を失って来た人間特有の、ちょっとした見栄と疲れが全員にあったからだ。

聞かれたくないことも多いし、自分から話したくないことも多い。

だから初日は、誰も必要以上に笑わなかった。

空気が少し変わったのは、二週目の脚立実習だった。

安全帯の使い方を習って、二人一組で器具交換の手順をやる日。

遼は五十代の矢部と組まされた。元トラック運転手で、腰を悪くして積み荷仕事を続けられなくなった人だ。

無口で、初日からずっと「勉強なんて柄じゃねえ」としか言っていなかった。

その矢部が、脚立の上で電球ソケットを外そうとして盛大に手順を間違え、下から見ていた全員に突っ込まれた。

「危なっ」

「矢部さん、それ逆!」

「落ちる落ちる!」

あのとき初めて、教室にちゃんとした笑い声が出た。

矢部も降りてきてから、「お前ら今のは見なかったことにしろ」と真顔で言い、さらに笑いが広がった。

たったそれだけのことで、ずいぶん息がしやすくなった。

人は、恥をかいたのが自分だけじゃないと分かると、少しだけ正直になれる。

修了式は簡素だった。

所長が前へ立ち、形式的な祝辞を読み、担当講師が一人ずつ名前を呼ぶ。

前へ出て証書を受け取る。戻る。

たったそれだけ。

それなのに、遼は自分の名前が呼ばれたとき、妙に喉の奥が乾いた。

「秋庭遼」

「はい」

受け取る。

頭を下げる。

席へ戻る。

その一連の動きだけで、三か月が急に本当のものになった気がした。

途中で辞めなかった。

朝寝坊しそうな日も、気分の悪い日も、求人票を見て勝手に落ち込んだ日も、なんとか来た。

それだけのことが、今の自分には案外大きい。

式が終わると、教室は一気に騒がしくなった。

証書を見せ合うやつ、講師へ挨拶に行くやつ、もう次の面接の話をしているやつ。

終わる日というのは、感傷だけでできていない。

むしろ、終わるからこそ次の現実がすぐに顔を出す。

「遼、午後どうする?」

三崎がまた来た。

片手に証書、もう片手にペットボトルの水。

「どうするって」

「駅前で昼くらい食う?」

「打ち上げ?」

「打ち上げってほどでもないけど」

三崎は少しだけ視線を泳がせた。

「矢部さんと片岡さんも誘おうって話してて」

片岡は四十代の元介護士で、記録書類が抜群にきれいな人だ。

この三人と三崎、遼で、いつのまにか班の空気ができていた。

「いいよ」

遼が答えると、三崎はあからさまにほっとした顔をした。

「よかった」

「何」

「遼、こういうとき一人で帰りそうだから」

「失礼だな」

「当たってるでしょ」

当たっていた。

こういう節目は、一人でやり過ごしたほうが楽なことも多い。

別れ際の気まずさとか、妙な湿っぽさとか、そういうのが苦手だからだ。

でも今日は、それを避けたくない気もしていた。

昼の定食屋は、予想通り少し騒がしかった。

駅前の古い店で、揚げ物の匂いが服に残るタイプのところだ。

五人でテーブルを囲み、日替わりの唐揚げ定食や焼き魚定食を前にして、最初はみんな少しだけ変な顔をしていた。

学校でもないのに、修了日に食事。

青春じみていて、気恥ずかしい。

全員そう思っているのが、むしろ可笑しかった。

「で、矢部さんは?」

片岡が聞く。

「もう決まってるんですか、次」

矢部は味噌汁をすすってから言った。

「決まってねえ。明日また面接」

「明日かあ」

「朝早え」

「そこ」

三崎が吹き出す。

「秋庭は?」

今度は矢部に聞かれて、遼は少しだけ箸を止めた。

「一応、ビルメンの契約社員で一件」

「一応って」

「まだ受かったわけじゃないんで」

「でも受けるんだろ」

「受けます」

「ならいいじゃねえか」

矢部はそう言って、唐揚げを一つ口へ入れた。

その雑な言い方が、妙にありがたかった。

まだ何も始まっていないのに、始めることを認めてもらえる感じがしたからだ。

食事の途中で、三崎がぽつりと言った。

「なんかさ」

「何」

「終わるの、ちょっとやだね」

その一言で、みんな少しだけ黙った。

誰も真っ先に「分かる」とは言わなかった。

そういう照れくささが、この場にはまだある。

けれど矢部がしばらくしてから、ぽそっと言った。

「俺もだよ」

それが合図みたいになって、片岡が笑う。

「私もです」

「俺も」

遼も、小さく言った。

口にしてみると、少しだけ胸のつかえがほどけた。

「でも、言うのダサい気がしてた」

三崎が言う。

「わかる」

遼は思わず笑った。

「今さら熱いの、うざいかなって」

「それな」

「いや、お前ら最初からずっと熱かったろ」

矢部が真顔で言うので、また笑いが起きる。

こういう時間のことを、たぶん後から思い出すのだろうと思った。

何が特別だったわけでもない。

でも、仕事を失ったり、迷ったり、見栄を張ったりしてここへ来た人間同士が、同じ教室で同じところを少しずつ覚えていった。

その馬鹿みたいな時間が、案外大事だったのだと、終わる日に初めて分かる。

店を出るころには、雨はすっかり上がっていた。

駅前の空はまだ白いが、雲の切れ間が少しだけ見える。

解散はあっさりしていた。

じゃあまた。

連絡する。

面接どうだったか言って。

その程度の言葉しか交わしていない。

それなのに、遼は一人で改札へ向かいながら、なぜか少し泣きそうになった。

大げさだと自分でも思う。

三か月だけだ。

家族でもない。

特別深い友情を誓い合ったわけでもない。

でも、再出発なんてきれいな言葉が似合わない人間同士で、同じ教室に毎朝来て、同じところでつまずいて、同じように少しずつ前へ出た。

その事実だけが、妙に重かった。

駅のホームで電車を待ちながら、遼は修了証をもう一度見た。

厚紙の角が、少しだけ鞄の縁へ当たる。

たった一枚だ。

これがあるから人生が何とかなるわけでもない。

でも、無かったころの自分と、今の自分が同じでもない。

そのくらいの違いは、ちゃんとある気がした。

ポケットのスマホが鳴る。

三崎からだった。

【言い忘れた】

【出会えてよかったです】

遼はメッセージを見て、思わずホームで立ち止まった。

面と向かって言えないくせに、こういうときだけ素直だ。

その素直さが、眩しくて、少しだけ腹立たしくて、でもやっぱりありがたかった。

少し考えてから、遼も返す。

【俺も】

【ちゃんと助かった】

送ってしまえば、もう少し何か言えた気もする。

でも今の自分に出せるのは、その程度だった。

それで十分だとも思った。

立派な言葉じゃなくても、届くものはある。

電車が来る。

ドアが開く。

遼は乗り込んで、窓際へ立った。

動き出したホームの向こうで、訓練センターのある方向の空だけ、少し明るく見えた。

それぞれの一歩なんて、たぶん格好よくは始まらない。

不安もあるし、見栄もあるし、言えなかった言葉も山ほど残る。

それでも、あの教室で過ごした時間が、ちゃんと自分の足の裏へ残っている気がした。

恥ずかしくて、格好つけて、最後まで上手くは言えなかった。

でも、大事なものほど、そういう不器用な形でしか手元に残らないのかもしれない。

遼は揺れる車内で証書の角を指先でなぞり、次の駅名が流れるのを聞いた。

まだ何者にもなっていない。

それでも、前より少しだけ、進む準備はできている気がした。

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