『朝焼け前の切替室』
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
短編が気が向いた時に繁殖します
本文
始発前の駅ビルは、まだ人のための場所になりきっていない。
自動ドアは動いているし、清掃の機械も走っている。けれど店の灯りは半分しかついておらず、エスカレーターの金属だけがやけに白い。
誰かが働いている気配はあるのに、街そのものはまだ寝返りの途中みたいな顔をしている。
榎本志保は、その中途半端な時間が嫌いではなかった。
きちんと朝になりきる前の空気には、言い訳の余地が少しだけある。
今日はまだ始まっていないから、昨日の続きの失敗も、ひとまず自分の背中から下ろしていられる気がするのだ。
志保が勤めるのは、駅ビル一階のベーカリーカフェだった。
朝六時半開店。モーニング目当ての客が多く、出勤前の会社員と高校生と、たまに散歩帰りの年配客が混ざる。
パンを焼くのは奥の工房だが、志保はホールとドリンクの担当で、時間帯によっては発注も人員調整もやる。
二十九歳。入って六年目。
動きは速いし、ピーク時のレジも乱れない。新人がパニックを起こしそうな顔をしていれば、水を飲ませる前にトングの持ち方を直すくらいの余裕もある。
向いている。
それは分かっている。
でも、向いていることと、ここでこのまま年を重ねたいことは、同じではなかった。
「榎本さん、今日も早いですね」
更衣室の前で、パートの河合が笑った。
五十代後半、朝の忙しさにも動じない人で、食パンの袋詰めだけ異様に速い。
「昨日の締め、少し気になって」
「また数字?」
「ちょっと」
「真面目だねえ」
その言い方に、志保は曖昧に笑った。
真面目、という言葉は便利だ。
面倒を抱え込む人間にも、言いたいことを後回しにする人間にも、だいたいそれを貼っておけば場が収まる。
志保はその収まり方に、最近ずっと少しだけ苛立っていた。
昨日の締めで気になっていたのは、本当は数字だけではない。
夜の閉店後、店長の笠原に言われた一言が、まだ胸の内側で引っかかっていた。
「榎本さ、来月の異動の話、まだ返事出してないよな」
レジ締めの途中で、笠原は伝票の束を揃えながら軽く言った。
「はい」
「本部の研修店舗、悪い話じゃないと思うぞ」
「……」
「この店でも十分やれてるけど、ずっとここってタイプでもないだろ」
その言い方が妙に正確で、志保はその場では何も返せなかった。
本部が打診してきた異動先は、来月新しくできる大型商業施設の旗艦店だった。
今より広い。
人も多い。
新規立ち上げのメンバーに入れる。
履歴としては悪くないどころか、かなりいい。
けれど志保は、返事を先延ばしにしていた。
怖かったからだ。
新しい店に行くことそのものが、ではない。
ここを出ると、自分がずっと曖昧にしていたものまで動き出しそうだったからだ。
この駅ビルの店には、大学時代から付き合っている恋人の玲央がよく顔を出す。
仕事帰りに閉店間際のコーヒーを一杯飲みに来るだけの日もあるし、休憩に合わせて短く会う日もある。
玲央は同じ駅の北側にある家電量販店で働いていて、休みもだいたい合う。
喧嘩は少ない。
会話もある。
別に不満が山ほどあるわけではない。
ただ、ここ一年くらい、二人の間には「次」がずっと宙吊りのままだった。
同棲の話も、結婚の話も、一度出ては、仕事が落ち着いたらとか、もう少し貯金ができたらとか、そんなふうに柔らかく棚へ上げられていく。
志保も玲央も、それを責め合うほど幼くはない。
でも、大人だからこそ、曖昧なまま続けるのがうまくなりすぎていた。
開店してしばらくは、考える暇がなかった。
コーヒーマシンの立ち上げ、焼き上がったパンの陳列、モーニングの追加、レジ列の処理。
忙しい時間は助かる。
考えずに済むからだ。
けれど九時を過ぎ、出勤前の波が引き始めたころ、スマホへ玲央から短いメッセージが入った。
【今日、夜話せる?】
それだけだった。
嫌な予感と、ようやく来たか、という感じが半分ずつだった。
志保はすぐには返さず、ドリンク台の布巾を替えた。
話せる。
でも、その「話せる」が何の話かは、たぶんお互い分かっている。
このまま駅の南側で働き続けるのか。
新しい店へ行くのか。
行くなら、二人はどうするのか。
何も決めていないくせに、もう先送りできる感じでもない。
そういう話だ。
「榎本さん、顔がだいぶ戦ってます」
昼前、学生バイトの真島が言った。
二十歳。こういうときだけ妙に観察眼がある。
「戦ってない」
「いや、かなり」
「何と」
「自分」
その答えがあまりに真っ直ぐで、志保は一瞬だけ言葉を失った。
たぶん、その通りだった。
店長でも、玲央でも、本部でもない。
ずっと戦っている相手は、自分の中の「まだ今じゃなくていい」に決まっていた。
昼休憩、バックヤードの細い机でサンドイッチを食べながら、志保はようやく玲央へ返した。
【うん、話せる】
【閉店後、そっち行く】
送ってから、少しだけ胃が重くなった。
逃げたい。
でも逃げたところで、異動の返事は明後日が締切だ。
人生はたまに、考える猶予だけ奪って結論の期限を置いていく。
午後、店長の笠原がコーヒーの在庫を見ながら言った。
「返事、まだ?」
「明日までには」
「悩んでる?」
「まあ」
「そりゃそうか」
笠原は特に急かすでもなく、紙コップの束を棚へ足した。
「お前、ここで十分戦力だけどさ」
「はい」
「でも、今のお前見てると、“ここに残りたい”で迷ってる感じじゃないんだよな」
志保は思わず顔を上げた。
「どういう」
「行くのが怖いから止まってる感じ」
笠原はそう言って、在庫表に丸をつけた。
「違うなら悪い」
違わなかった。
違わないから、余計に腹が立った。
自分でも分かっていることを、他人の口で言われると、どうしてこうも息苦しいのだろう。
閉店は二十一時。
片づけを終えて店を出ると、駅前の空気は昼より少しだけ冷えていた。
北側の家電量販店はまだ灯りが強く、入口前には遅い客が少し残っている。
玲央は店の裏口で待っていた。
ネクタイをゆるめ、手に缶コーヒーを持っている。
このくらいの時間の顔を見るのは慣れている。慣れているのに、今日はどこか少し遠く見えた。
「おつかれ」
玲央が言う。
「おつかれ」
「座る?」
近くのベンチを指す。
志保は頷いた。
駅の裏手の小さな広場には、植え込みとベンチが二つある。
夜は利用する人も少ない。
ここで二人は何度も、仕事の愚痴を言ったり、旅行の相談をしたり、どうでもいい話をしてきた。
だから今日も自然にここへ来たのだろう。
けれど今日は、自然な場所のはずなのに、座った瞬間から少し息がしにくかった。
「店長から聞いた」
玲央が先に言った。
「異動の話」
志保は少し眉をひそめる。
「どこから繋がってんの」
「駅前は狭い」
「最悪」
「で、どうするの」
いきなり核心だ。
回り道をしないところは玲央の長所でもあり、今夜に限っては少しきつい。
「まだ決めてない」
「そっか」
それだけだった。
それだけなのに、志保はなぜか少しだけ苛ついた。
もっと驚くとか、止めるとか、何かあるのかと思っていた。
でも玲央は缶コーヒーを指で回しながら、少し視線を落とすだけだ。
「……何その反応」
志保が言うと、玲央は苦く笑った。
「いや、俺も似たような話あるから」
「え」
「来月、人事異動」
志保は言葉を失った。
それは初耳だった。
「何で言ってないの」
「まだ確定じゃなかった」
「でも今は?」
「ほぼ」
玲央は短く息を吐く。
「郊外店に行く可能性が高い」
志保はベンチの背にもたれた。
何だそれ、と思う。
何でこういう大事な話を、互いに同じタイミングまで隠しているのだろう。
喧嘩ですらない。
ただ、面倒な話をしないままにしてきた結果、今、二人そろって似たような爆弾を出している。
滑稽で、情けなくて、でもどこか、あまりにも自分たちらしい気もした。
「私たちさ」
志保が言う。
「だいぶ駄目じゃない?」
玲央は少し黙ってから頷いた。
「たぶん」
「たぶんじゃなくて」
「うん、だいぶ」
そう言って、ようやく少しだけ二人の口元が緩んだ。
笑うような状況じゃない。
でも笑わないと、たぶんこの停滞の感じをうまく受け取れなかった。
「志保」
玲央が言う。
「俺さ、最近ずっと思ってた」
「何」
「このまま“落ち着いたら考えよう”って言い続けるの、多分もう無理だなって」
志保は膝の上で指を組んだ。
「うん」
「でも、ちゃんと話すと何か動いちゃうから」
「うん」
「それが嫌だった」
「分かる」
本当によく分かった。
動くのが怖かった。
怖いから、ちょうどいい曖昧さへ二人で寄りかかってきた。
それは優しさでも、思いやりでもなく、たぶん二人そろって臆病だっただけだ。
「で」
玲央が言う。
「志保は、行きたいの」
それは簡単な問いのはずだった。
でも、簡単には答えられない。
新しい店は大きい。
忙しい。
人も多い。
失敗もするだろうし、今までみたいに「分かってる顔」で回せないかもしれない。
それでも、そこへ行った自分を少し見てみたい気持ちがある。
怖い。
でも、怖いだけではない。
その二つが、ようやく今夜、ちゃんと同じ形で自分の中に並んだ気がした。
「……行きたい」
志保は言った。
言った瞬間、胸の奥が少しだけ軽くなる。
そうか、と思う。
自分は残りたいのではなく、行きたいのに行くのが怖かったのだ。
玲央はしばらく何も言わなかった。
そこで止めろとか、考え直せとか、そういう言葉が来たらどうしようと、志保は少しだけ身構えた。
けれど玲央は、缶コーヒーを飲みきってから言った。
「そっか」
短い。
でも、今度のそれは軽くなかった。
「それで?」
志保が聞く。
「それでって」
「玲央は」
「俺も、多分行く」
「多分?」
「いや」
玲央は少しだけ笑った。
「行く」
その言い直し方が、何だか少しだけ可笑しくて、志保も笑ってしまった。
こんなに大事なことを決めているのに、会話の温度は妙に普通だ。
でも、たぶんそういうものなのだろう。
人生の切り替わりなんて、案外、劇的な音はしない。
「じゃあさ」
志保が言う。
「どうする?」
玲央は空き缶を手の中で少し転がした。
「今までみたいには、無理だと思う」
「うん」
「近いから、で会える感じじゃなくなる」
「うん」
「だから、ちゃんと決めないと駄目だ」
ちゃんと。
その言葉を、今までどれだけ口にしないで来ただろう。
真面目すぎるとか、重いとか、タイミングがどうとか、そういう言い訳でずっと後ろへ置いていた。
「一回さ」
玲央が言った。
「引っ越す前に、ちゃんと住む話しない?」
志保は顔を上げる。
「同棲?」
「うん」
「今ここで?」
「今ここで全部は決めない」
玲央は少しだけ肩をすくめた。
「でも、やるならやるで、ちゃんと日程とお金と場所の話しよう」
それは、プロポーズのような綺麗な言い方ではなかった。
夢みたいな言葉でもない。
でも今の二人には、その実務的な提案のほうがずっと正しかった。
好きとか愛してるとか、そういう言葉を軽んじるわけではない。
ただ、この二人が長く曖昧にしてきたものを動かすには、まずそこからなのだ。
「……分かった」
志保が言う。
「逃げない?」
「そっちこそ」
「頑張る」
「そこ、頑張るなんだ」
「正直だから」
その正直さに、志保は少しだけ救われた。
完璧な答えじゃない。
でも、今夜の二人に出せる一番ましな言葉だった。
駅前の時計台が二十二時を打つ。
遅いのに、人の流れはまだ途切れない。
みんな自分の生活へ戻っていく。
その中へ、志保と玲央ももうすぐそれぞれ帰る。
でも今夜は、帰った先の明日が少しだけ違う顔をしている気がした。
「店長に、明日返事する」
志保が言うと、玲央は頷いた。
「うん」
「玲央は?」
「人事、正式に出たら話す」
「店に?」
「うん。あと家にも」
「大変そう」
「そっちも」
「うん」
でも、不思議と最初ほど重くはない。
怖さは消えていない。
ただ、怖いものの輪郭が少し見えたぶんだけ、手をつける順番が分かるようになった感じだった。
立ち上がる。
ベンチの下には、昼の雨の名残がまだ少し残っている。
街路樹の葉先から水滴が落ちて、舗道に小さな輪を作る。
その輪がすぐ消えるのを見ながら、志保はふと思った。
変わるというのは、何もかもを一気に捨てることではないのかもしれない。
同じような夜景の中で、昨日まで言えなかった一言を言う。
それだけでも、十分に切り替わりは始まる。
「じゃあ」
玲央が言う。
「また明日」
「うん」
その「また明日」が、今までよりちゃんと次へ続いている感じがした。
志保は駅の南口へ向かって歩きながら、スマホのメモを開いた。
書く。
【店長に異動受けると返事】
【休みの日に玲央と住む場所の候補を見る】
【口だけで終わらせない】
最後の一行が少し気恥ずかしかったが、今夜の自分には必要な文だった。
誰がなんと言っても、ではない。
まだ誰にも何も言われていないし、反対されることだってこの先あるかもしれない。
それでも、自分の中で決める瞬間だけは、他人の声の入らない場所でやるしかない。
志保はそのことを、ようやく少しだけ分かった気がした。
駅の改札を抜ける前に一度だけ振り返る。
濡れた路面にビルの灯りが縦に伸びている。
さっきまでの迷いと同じ景色のはずなのに、輪郭だけが少し違って見えた。