『脚立を支える手』
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
短編が気が向いた時に繁殖します
本文
町内会館の倉庫は、夜になると急に広く見える。
昼間は机やら折りたたみ椅子やらでごちゃついているのに、外が暗くなると、裸電球の下に積まれた段ボールの影だけがやけに長く伸びて、空いた床のぶんだけ静けさが目立つ。
そこへ古い脚立を引きずる音がすると、広さより先に「まだ終わってない」という感じが立つ。
藤村遼平は、その脚立を両手で支えながら、天井近くの棚へ腕を伸ばしている相手を見上げた。
「落ちるなよ」
「言われなくても分かってる」
返ってきたのは、少ししゃがれた女の声だった。
早瀬千佳。三十五歳。町の印刷会社で経理をやっていて、夜になるとこの町内会館へ来ては、夏祭りの準備を細々と進めている。
遼平は三十七歳。
商店街の金物屋で働いている。
職人というほどでもないし、店主というほどでもない。父親がまだ現役なので、微妙に二番手のまま長くいる。
工具の名前も用途も、客がどんな顔でどんな用途を言い淀むかもだいたい分かる。
向いている。
でも、向いている仕事の中にいると、ときどき、自分が何かを選んだというより「ここにいたからここにいる」だけの気がする夜がある。
今年の夏祭りは、だいぶ危うかった。
実行委員の高齢化、協賛の減少、準備の人手不足。
しかも去年は台風で途中中止になり、町内会の空気もどこかしぼんでいた。
今年もやる意味あるのか。
そんな声まで出た。
それでも結局、「一回ちゃんとやってから終わるか考えよう」という半端に前向きな結論で開催が決まった。
半端、というのはだいたい悪口だ。
でも、何でも最初から立派に始められる人間ばかりじゃない。
遼平はその「半端」を嫌い切れなかった。
「これ、まだ使える?」
脚立の上から千佳が聞く。
埃まみれの木箱を持っている。
「何」
「提灯のコード」
「降ろして見せて」
千佳が慎重に降りてくる。
その動きは雑に見えて、意外と慎重だ。
遼平が木箱を受け取って中を見ると、古い延長コードとソケットが束になって入っていた。
被膜は硬い。ところどころ色も褪せている。
「半分はだめだな」
「半分も生きてるなら上出来」
「前向き」
「誰かがそうしないと回んないから」
千佳は言って、脚立を畳んだ。
その言い方が少しだけ強がりに聞こえて、遼平は何となくそれ以上突っ込まなかった。
千佳と遼平がこうして夜の準備班みたいなことを始めたのは、先月からだった。
最初は、町内会長に「若いんだから頼むよ」と半ば押しつけられただけだ。
提灯の数を数え、去年の名簿を探し、足りない備品を洗い出す。
どう考えても気の進まない雑務だった。
でも一度顔を合わせてみると、千佳は思っていたより動いたし、遼平も思っていたより口を出した。
そのうち役割がなんとなく出来て、気づけば毎週二人で会館の倉庫をひっくり返している。
正直、好きな作業ではない。
埃は多いし、段取りは悪いし、町内会の年寄りは「若い人がやれば早い」みたいな無責任なことを平気で言う。
それでも、少しずつ形になっていくのを見ると、妙な達成感がある。
去年の名札を新しい紐へ通し直す。
汚れた紅白幕を洗う。
使えるソケットとだめなソケットを分ける。
そういう「誰も褒めないけど無いと困る」作業を積んでいくと、祭りの輪郭だけが少しずつ立ってくる。
「遼平さん」
「何」
「今年、祭り終わったらどうなると思う」
「何が」
「うちら」
木箱を運ぶ手が一瞬だけ止まった。
何だその聞き方、と思う。
恋愛の匂いではない。
でも妙に答えづらい。
たぶん、祭りの後にこの夜の共同作業がなくなるのを、千佳も少しだけ考えているのだ。
「どうなるって」
遼平は箱を床へ下ろした。
「普通にまた別の生活だろ」
「だよね」
千佳は少しだけ笑った。
「そういうとこ、ちゃんとしてる」
「褒めてないだろ」
「半分は」
その半分が、よく分からない。
休憩と称して、二人で会館の裏口へ出た。
六月の夜はまだ少し湿っていて、自販機の光だけが妙に白い。
千佳は缶のレモンサワー、遼平はブラックコーヒー。
祭りの準備のくせに飲み物の選択が全然祭りっぽくない。
「印刷、最近どう」
遼平が聞くと、千佳はプルタブを指で弾いた。
「どうって」
「忙しいのか」
「忙しくはない」
そう言ってから、少しだけ言い直す。
「いや、忙しいは忙しい。でも、なんていうか」
「なんていうか」
「しんどい」
その言葉は、思っていたよりまっすぐだった。
千佳は地元の印刷会社で十年以上働いている。
最初は営業事務で入って、そのまま経理と納品管理まで背負うようになった。
仕事はできる。
できるから、気づいたら何でも回される。
名札の印字も、町内会の回覧も、学校の配布物も、商店街の抽選券も、全部「早瀬さんなら分かるでしょ」で来る。
しかも社内の大半は「今まで通り」で物事を片づける人たちだ。
「辞めたい?」
遼平が聞くと、千佳は少しだけ黙った。
「……辞めたい日もある」
「うん」
「でも、辞めたあと何すんのって聞かれると、そこが曖昧」
「うん」
「だからまた翌日行く」
缶を持つ指が少しだけ強くなる。
「で、そういうのを十年やると、だんだん“向いてるから続いてる”のか、“続いたから向いてることにしてる”のか分かんなくなる」
その言い方が、遼平の胸にも少し刺さった。
金物屋の棚の前に立っている自分だって、たぶん似たようなものだったからだ。
店は潰れていない。
客も来る。
自分も役に立っている。
でも、じゃあこのまま十年後も同じ位置でレジの横にいるのかと考えると、答えを少し先送りにしたくなる。
「遼平さんは?」
千佳が聞く。
「何」
「金物屋、続けるの」
遼平は缶コーヒーの結露を親指で拭った。
「知らん」
「知らん、って便利な言葉だね」
「便利だろ」
「ずるい」
「お互い様だ」
千佳はそこで少しだけ吹き出した。
笑い方は小さいのに、肩だけが揺れる。
その感じが、ここのところ少し増えた気がした。
最初の頃はもっとよそよそしかった。
今は、少し雑に弱音を出してもそのまま会話が続く。
持ちつ持たれつ、というのは、たぶんこういう頼りなさの上にできるのだろう。
翌週、祭りの準備はさらに面倒になった。
協賛の看板に誤字が見つかり、太鼓の担ぎ手が二人減り、屋台の配置が消防の指摘で変わった。
年寄り連中は「何とかならんか」と言うだけで、何とかするのは結局こちらだ。
千佳は会館の机に紙を広げ、遼平は養生テープを指でちぎりながら言った。
「もうやめるか、これ」
「今さら?」
「今さら」
「さすがに今やめたら町内会長泣く」
「泣いてもらうか」
「遼平さん、それ本気で言うときと冗談のときあるから困る」
千佳は配置図を睨みながら、ぐしゃっと前髪を掻き上げた。
だいぶ疲れている顔だ。
遼平はその横顔を見て、少し迷った。
励ますのは柄じゃない。
でも、何も言わないのも少し違う気がした。
「千佳」
「何」
「一人で泣きたいことも、二人でやってるとまあ、ネタにはなるだろ」
自分で言ってから、ずいぶん下手な励ましだなと思った。
でも千佳は少しだけ目を丸くして、それから吹き出した。
「急に何」
「いや」
「うん、まあ」
笑いを堪えながら頷く。
「一人だとだいぶ惨めだけど、遼平さんが同じ顔してるとちょっと面白い」
「失礼」
「褒めてる」
「その言い方流行ってんのか」
「今だけ」
その夜は結局、二人で配置図を全部引き直した。
紙の上に線を引いて、屋台の寸法を書き込み、電源の取り回しを考える。
面倒な作業だ。
でも、誰かが嫌な顔をして横にいるだけで、不思議と途中で投げる気持ちは減る。
何を分かち合っているのかと聞かれると困る。
友情でも、連帯でも、ましてや綺麗な情熱でもない。
ただ、「もう無理だ」と思う瞬間を、自分だけのものにしなくて済む。
それだけで、人は案外もう少しだけやれる。
祭り当日は晴れた。
前日までのぐずつきが嘘みたいに、空は高かった。
提灯は全部点いたし、太鼓も何とか回り、焼きそばの列もそこそこ伸びた。
大成功とまでは言えない。
でも失敗でもない。
その「失敗でもない」が、今年の町内会にはたぶん十分だった。
夜の終わり、片づけが一段落したあと、二人は会館の裏口の階段へ座っていた。
町内の子どもたちの声ももう遠い。
残っているのは、湿った風と、燃え切った屋台の鉄板の匂いだけだ。
「終わったね」
千佳が言う。
「終わったな」
「今年、意外とやれた」
「意外って失礼だな」
「だって、途中ほんとに無理かと思ったし」
「それは俺も思った」
少し黙ってから、千佳が缶の最後を飲み干した。
「ねえ」
「何」
「今さらだけどさ」
そこで千佳は、いつもより少しだけ真面目な顔をした。
「私、会社辞めるかも」
遼平は缶を持つ手を止めた。
「……そうか」
「まだ“かも”だけど」
「うん」
「でも、ここ何年かで一番本気」
その声に、勢いだけではないものが混じっていた。
祭りが終わった勢いで言っているわけではない。
ずっと溜めてきたものが、今やっと言葉の形になった感じだった。
「次、何やるか決まってるの」
遼平が聞くと、千佳は首を振る。
「全然」
「じゃあ不安だろ」
「だいぶ」
「だろうな」
そこまでは、割と普通の返しだったと思う。
でもその先で、遼平は自分でも少し驚くことを言った。
「じゃあ、手伝う」
千佳が目を上げる。
「何を」
「履歴書とか」
「雑」
「面接練習とか」
「もっと雑」
「でもいるだろ」
千佳はしばらく何も言わなかった。
それから、少しだけ笑った。
「いる」
「だろ」
「でも、遼平さんそういうの絶対向いてない」
「失礼」
「でも、言うと思った」
その言い方が少しあたたかくて、遼平は肩をすくめた。
「そっちは」
千佳が聞く。
「金物屋、どうするの」
「分からん」
「またそれ」
「でも」
遼平は会館の手すりへ背中を預けた。
「分からんけど、このまま分からんままにしてるのも飽きた」
口に出してみると、思ったよりちゃんとした言葉だった。
自分でも少し驚く。
たぶん祭りの片づけで疲れているから、余計な格好がつかなかったのだろう。
「じゃあさ」
千佳が言う。
「私が辞める話進んだら、遼平さんも一個くらい何か変えなよ」
「何それ」
「持ちつ持たれつ」
ああ、そういうことか、と遼平は思った。
助けるだけでは片手落ちなのだ。
相手に肩を貸すなら、自分もどこかで少しは借りなければ、結局ただの保護者みたいになってしまう。
それは違う。
たぶん二人とも、そういう関係を欲しがっているわけではない。
「分かった」
遼平は言う。
「一個な」
「一個でいいよ、最初は」
千佳は立ち上がって、缶を自販機横のゴミ箱へ投げた。
きれいに入る。
「ほら」
「何」
「今の一個」
「それは違う」
「でも、積み上がるじゃん」
その言葉が、妙に残った。
一個。
たった一個のこと。
大きく人生を変える決意なんて、たぶんそうそう出来ない。
でも、履歴書を買うとか、父親に一度だけ店の今後を聞くとか、そういう一個なら、人は案外やれるのかもしれない。
町内会館の灯りを消し、鍵を閉める。
祭りのあとの夜道は、少しだけ静かすぎる。
でも、空っぽではない。
片づけきった机の跡や、電源コードの癖や、屋台の匂いの残り方みたいなもので、今日がちゃんとあったことが分かる。
遼平は歩きながら、明日のことを考えた。
金物屋の開店前、倉庫の奥を少し見よう。
もう何年も触っていない、ネット販売用の古い撮影台がある。
昔、通販をやらないかと父と話したまま、立ち消えになったやつだ。
大げさな起業じゃない。
店を継ぐかどうかの答えでもない。
ただ、自分がこの先もここにいるなら、せめて自分の手で何か一つ動かしてみたい。
そのくらいのことなら、今からでも出来るのかもしれなかった。
隣を歩く千佳が、ふと小さく言う。
「一人じゃ出せない答えって、あるね」
遼平は少しだけ笑った。
「ギリな」
「ギリで十分」
たぶん、そういうことだった。
立派な支え合いなんて、最初から出来るわけじゃない。
痩せ我慢もあるし、冷や汗もあるし、言わなくていい強がりも山ほどある。
それでも、誰かに少し肩を貸して、自分も少し借りる。
その繰り返しで、人は思っていたより遠くへ行けるのかもしれない。
夜風が、祭りの提灯の残り香を少しだけ運んできた。
それはもう火の消えた匂いのはずなのに、どこかまだ、始まりの気配も混じっていた。