『喉まで来た言葉』
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
短編が気が向いた時に繁殖します
本文
朝のリハビリ室は、病院の中でも少しだけ明るい。
大きな窓が東向きで、曇りの日でも光が白く回る。平行棒、訓練用の階段、ゴムバンド、バランスボール。整然と並んだ道具はどれも人の身体を助けるためのものなのに、そこへ立つ人間の声次第で、部屋の空気はずいぶん違うものになる。
優しく見守る場所にもなるし、怖くて足が止まる場所にもなる。
水嶋遼は、そのことをよく知っていた。
遼は二十九歳。
回復期病棟の理学療法士で、三年目になる。
地元の病院へ入る前、東京の大きなリハビリ施設で二年働いた。
そこで、歩き方も、記録の書き方も、患者の変化の拾い方も、かなり叩き込まれた。
教わったことの多くは、今でも役に立っている。
でも同じくらい、今でも身体の奥へ棘みたいに残っているものもあった。
「水嶋さん、おはようございます」
更衣室から出たところで、少し高めの声がした。
振り向くと、白衣の袖をまだうまく通しきれていない若い男が立っていた。
実習生の佐久間真だった。二十二歳。今週から二週間、病院へ来ている。
「おはよう」
遼が返すと、真は少し緊張した顔で頭を下げた。
「今日、午前の見学、よろしくお願いします」
「うん」
「邪魔しないようにします」
「それは無理」
遼が言うと、真はきょとんとした。
「現場いる以上、多少は動くし、質問もするだろ」
「……はい」
「で、そのほうがいい」
そう言って先に歩き出す。
後ろからついてくる足音が少しだけ硬い。
その硬さに、遼は昔の自分を重ねて、ほんの少しだけ嫌な気持ちになった。
東京にいたころ、遼の指導担当は有馬という理学療法士だった。
三十代半ばで、技術も知識も申し分なく、患者の変化を見る目も鋭かった。
ただし言葉がきつかった。
いや、きついというだけでは足りない。
相手の弱いところへ、必要な一言だけをわざと強く置くのがうまい人だった。
「怖いなら邪魔」
「優しさで歩けるようになると思うな」
「患者の顔色見る前に結果見ろ」
そういう言葉を、遼は二年間ずっと浴びた。
たしかに、鍛えられたとは思う。
でも、あの施設を辞めて地元へ戻ったあと、自分の口から有馬の言い方が出そうになる瞬間が何度もあった。
そのたびに、喉の奥が冷えた。
午前最初の患者は、脳梗塞のあとで右足に軽い麻痺が残っている六十代の男性だった。
平行棒の中で足を運びながら、遼の合図に合わせて重心を移していく。
真は少し離れた位置でメモを取っていた。
「いま大事なの、足を前へ出すことじゃない」
遼が言う。
「右に乗る時間です。怖くても、ここを抜くとあとで余計につまずく」
患者が頷く。
遼は手の位置だけを少し直し、言いすぎないように間を置く。
その加減は、今の職場へ来てから少しずつ覚えた。
前の施設では、とにかく負荷をかけ、結果を急ぎ、弱気を叩いてでも進ませる空気があった。
でもここでは違う。
違うと頭では分かっている。
それでも追い込まれた場面になると、古い言葉はすぐ喉まで上がってくる。
午前の終わり近く、真がぽつりと聞いた。
「水嶋さんって、言葉少ないですよね」
「そう?」
「でも、患者さんはちゃんと動く」
遼はカルテへ記録を書きながら言う。
「喋りすぎると、相手が自分の身体の感じ取れなくなることもあるから」
「へえ」
「逆に、言わなすぎると不安だけ増える」
「難しいですね」
「難しいよ」
真は少し迷ってから続けた。
「前の実習先で、“もっと強く言わないと患者なめるよ”って言われたことあって」
その瞬間、遼の手が一瞬だけ止まった。
言い方は違う。
でも、似ている。
こういう言葉は、場所が変わっても意外と生き残る。
「それで?」
遼が聞くと、真は肩をすくめた。
「自分は、そういうの向いてないのかなって思ってました」
向いてない。
遼はその言葉を、少し前までの自分みたいに聞いた。
強く言えない。
切り捨てられない。
なら、この仕事に向いていないのか。
そうやって自分を狭い箱へ入れてしまう気持ちは、痛いほど分かる。
「向いてるかどうかを、誰かの口調で決めなくていいよ」
遼が言うと、真は少し驚いた顔をした。
「……はい」
「でも、優しいだけでも駄目」
「はい」
「そこが面倒」
真は少しだけ笑った。
その笑い方が、午前の硬さより少し柔らかくなっていた。
昼休み、職員食堂の隅で弁当を食べていると、同僚の看護師、奈央が向かいに座った。
三十二歳。遼とは入職時期が近く、言葉の雑さもだいたい同じくらいだ。
「顔、ちょっと暗い」
「またそれ」
「実習生ついてる日、いつもより二割くらい暗い」
「細かい」
「で、今日は何」
遼は味噌汁の蓋を開けながら、少しだけ目を伏せた。
「昔のこと思い出すだけ」
「前の職場?」
「うん」
奈央はふんと鼻を鳴らした。
「有馬さんだっけ」
「そう」
「まだ出てくるんだ」
「出てくる」
遼は正直に言った。
「たまに、患者さんが足止まったときとか、実習生がもたついたときとか、喉のところまで向こうの言い方が上がってくる」
「で、飲み込む」
「うん」
「えらい」
「えらくない」
遼は箸を置いた。
「飲み込んでも、出てこようとした事実は残るから」
奈央は少しだけ真顔になった。
「それさ」
「何」
「出てくること自体を止めるの、無理なんじゃない」
遼は顔を上げる。
「だって二年も毎日浴びてたんでしょ」
「うん」
「なら出るよ」
奈央はあっさり言う。
「大事なの、出てきたあとどうするかじゃない」
その言い方が、昼の食堂には不釣り合いなくらいまっすぐだった。
遼は返事をしなかった。
でも、その言葉は少しだけ残った。
午後の最後、遼は真に歩行介助を一度だけやらせてみた。
相手は膝の手術後で、まだ荷重に不安のある女性。
真は位置取りも声かけも悪くない。
ただ、患者が一歩目をためらった瞬間、こちらまで一緒に固くなった。
それが伝わると、相手はさらに足を出しにくくなる。
悪循環だ。
「大丈夫です、ゆっくりで」
真が言う。
言い方は優しい。
でも優しいだけで、どこへ力を乗せればいいかが抜けている。
患者の足が止まる。
真の手も止まる。
その瞬間、遼の喉の奥まで、あの声が来た。
邪魔。
怖いなら下がれ。
手を貸すな、結果を遅らせるな。
はっきりした文の形で、そこまで来た。
あと少しで口から出る。
遼は自分でも分かるくらい一拍遅れた。
その一拍の間に、患者が不安そうに真を見る。
真は青くなる。
最悪の場面だ。
ここで遼が有馬の言葉をそのまま出せば、たぶん手っ取り早く場は動く。
でも、それをしたら、後に残るものも分かっていた。
「佐久間」
遼は一歩だけ前へ出た。
「はい」
「怖いのは分かる」
自分でも少し驚くほど、声は落ち着いていた。
「でも、そのままだと相手も止まる」
真の目が上がる。
「だから、優しくするんじゃなくて、先に自分が決めて」
「……はい」
「右足の外側、ここ支えて。で、“乗せます”って言う」
真が言われた通りに手を置き直す。
患者に向けて、少し震えながら言う。
「乗せます」
その一言で、足が出た。
一歩。
それだけ。
でも、動いた。
遼は息を吐いた。
喉の奥にいた古い言葉は、まだ消えていない。
ただ、今回は出さずに済んだ。
出さずに済んだどころか、別の言葉を自分で選べた。
それだけで、胸の中のどこかが少し熱くなった。
訓練が終わって患者を見送ったあと、真がぺこりと頭を下げた。
「すみません」
「何が」
「止まりました」
「止まるよ、最初は」
遼が言うと、真は少しだけ黙ってから言った。
「でも、さっき、水嶋さん怒るかと思いました」
遼は思わず苦く笑った。
「昔なら怒ってたかも」
「昔?」
「いや」
少し迷って、やめる。
でも真は待っている顔をしていた。
「前の職場で、そういう言い方ばっかりされてた」
遼は言った。
「だから、今でもたまに出そうになる」
真は驚いたように目を瞬いた。
「でも、出さなかった」
「うん」
「さっきの言い方、すごく分かりやすかったです」
その言葉が、思いのほか胸へ来た。
教わったものが全部無駄だったわけではない。
でも、そのままでは自分の中に置いておけない。
必要なものだけを残して、いらない熱は捨てる。
それが、たぶん今の自分にできる変化だった。
終業後、リハビリ室の窓には、西日が遅れて残っていた。
器具を片づけ、平行棒を拭き、最後のカルテを閉じる。
いつも通りの手順なのに、今日は少しだけ手が軽い。
「今日、ちょっといい顔してる」
帰り際、奈央がロッカー前で言った。
「どの顔」
「古い何かに勝った顔」
「勝ってないよ」
「じゃあ」
奈央はバッグを肩に掛けた。
「出てきても、出さずに済んだ顔」
その言い方が、妙に正確だった。
勝ったわけではない。
昔の声はまだ消えていないし、これからも出てくるのかもしれない。
でも、出てきたものをそのまま渡さないで済む瞬間が一回でもあったなら、それはもう充分に違う。
病院を出ると、外はまだ少し明るかった。
梅雨の雲が薄く、街路樹の葉の端だけが光っている。
遼はスマホを出して、保存したままにしていた転職サイトの通知を開いた。
すぐに応募するわけじゃない。
いまの病院を辞めるとも決めていない。
ただ、そこを「見ないようにする」理由は、もう少し減った気がした。
画面を閉じ、ポケットへ戻す。
自分が何を変えたいのか、全部はまだ言えない。
けれど少なくとも、昔浴びた言葉のまま誰かを扱わないこと、それだけは決められる。
それを毎日一つずつ選ぶしかないのだろう。
駅までの道で、遼は一度だけ大きく息を吸った。
喉の奥は、今日は冷えていなかった。
誰にも聞こえない場所で、自分の声だけを確かめるみたいに、ゆっくりと吐く。
変わるというのは、たぶん立派な宣言より先に、こういう小さい選び方から始まるのだ。