『付箋だらけの机』
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
短編が気が向いた時に繁殖します
本文
市役所別館の三階にある広報室は、朝いちばんだけ少し静かだ。
コピー機の立ち上がる音と、パソコンのファンが回り始める低い音、湯沸かしポットの小さな沸騰音。そのくらいしかまだ部屋にいない。
九時を回れば電話が鳴り、メールが飛び、課の名前を呼ぶ声が重なって、あっという間に一日ぶんの雑音が出来上がる。
だから神谷澪は、朝の十分だけが好きだった。
誰にも頼られていない顔をした机に向かっていられる、最後の時間だからだ。
澪は三十歳。
市役所の広報担当になって四年目になる。
チラシも作る。
イベントの取材も行く。
広報誌の校正もやるし、たまに防災無線の原稿まで回ってくる。
要するに、誰かが「ちゃんと伝わる形にしたい」と思ったものの、最後の整え役だ。
向いているとは思う。
文字の抜けも見つけるし、言いにくいことを角の立たない文章に変えるのもうまい。
でも最近、その「うまい」が、少しずつ自分を面倒な場所へ追いやっている気がしていた。
「神谷さん、おはようございます」
広報室のドアが開いて、後輩の真鍋が入ってきた。
二十六歳。入庁二年目。仕事は速いが、焦るとすぐ顔へ出る。
「おはよう」
「課長、今日また“これ急ぎ”あるらしいです」
「昨日も急ぎだったよ」
「市役所の急ぎは毎日あるので」
真鍋はもう諦めた顔で言う。
澪は少しだけ笑った。
そういう言い回しが出来るようになったなら、役所にもだいぶ慣れたのだろう。
九時十分。
出勤してきた課長が、予想通り一枚の紙を澪の机へ置いた。
「悪い、これ頼む」
「何ですか」
「商店街の夏まつり特集、ページ構成少し変えたい」
澪は紙を見た。
市の広報誌のラフだ。
今月号はもうほとんど校了の段階で、まつり特集も先週一度通っている。
そこへ「少し変えたい」と来るのは、大体少しでは済まない。
「締切、明日ですよね」
「うん」
「じゃあ今言うの遅いです」
「そこはほんとにごめん」
課長は申し訳なさそうな顔だけして、すぐ続けた。
「でも、神谷なら何とかしてくれるかなって」
その一言を聞いた瞬間、澪の背中の奥がじわっと重くなる。
これだ。
これが、最近ずっと増えている。
神谷なら。
神谷さんなら。
澪なら何とかしてくれる。
悪意はない。
むしろ半分は信頼で、半分は甘えだ。
だから厄介だった。
結局、午前中はその特集の差し替えで消えた。
レイアウトを詰め直し、写真の点数を削り、キャプションを書き換え、足りなくなった余白へ別の記事を移す。
作業そのものは嫌いじゃない。
むしろ、崩れたものを整えるのは得意だ。
でも、気づけばこういう仕事ばかりが自分の机へ集まってくるようになった。
「神谷さん」
隣の席の真鍋が、小声で言った。
「これ、私やりますか」
「大丈夫」
「でも」
「大丈夫」
そう返してから、少しだけ自己嫌悪が来る。
大丈夫、は便利だ。
相手を安心させるし、自分の手元で全部を囲い込める。
でも、その一言を重ねるたびに、仕事は増えるし、人は「任せていい人」へされていく。
澪はその流れを、自分でも止められずにいた。
昼休み、食堂の端で一人でうどんを食べていると、スマホにメッセージが入った。
送り主は、姉の美紗だった。
【土曜、母さんの病院つきそい頼める?】
【私、子どもの発表会と重なっちゃって】
澪はうどんの箸を止めた。
返事は考えなくても分かっている。
【うん、行く】
たぶん、そう送る。
実際そうした。
母は一人で病院へ行けないわけではない。
でも、検査がある日は付き添いがいたほうが安心する。
そして姉は二児の母で、土曜は何かしら予定が詰まる。
だから澪が行く。
それは自然な流れだった。
自然すぎて、誰も疑わない。
家族の中でも、澪はずっと「何とかする側」だった。
父が亡くなったあと、役所の手続きや保険の整理を先に動いたのは澪だった。
母のスマホの設定も、姉の子どもの入園書類も、親戚への説明も、何となく自分へ回ってくる。
頼りにされている。
そう思えば聞こえはいい。
でも、その頼られ方が増えるほど、澪はだんだん自分の「しんどい」を出す場所を失っていった。
「神谷さん、元気ないですね」
食堂を出ようとしたところで、同じ課の広瀬に言われた。
三十二歳。営業上がりで、市役所へ転職してきた人だ。
人の顔色を見るのがやたらうまい。
「いつも通りです」
「いつも通りなら、余計だめですよ」
広瀬は自分のトレーを返却口へ置きながら、さらっと続けた。
「神谷さん、ずっと“平気な顔”で固定されてるじゃないですか」
「何ですかそれ」
「便利な顔」
その言い方が嫌で、でも図星だった。
便利な顔。
まさにそうだ。
困りごとを投げても、すぐには崩れない顔。
少し無理でも、まあ大丈夫ですと言ってくれそうな顔。
そういうものを、澪は自分でずっと作ってきたのかもしれない。
午後の会議でも、罠みたいなことは起きた。
夏の防災フェアの広報案を詰める場で、福祉課の職員がぽろっと言ったのだ。
「細かい表現、神谷さんのほうが得意そうですよね」
その瞬間、澪は心の中で舌打ちした。
言い方が絶妙だった。
押しつけではなく、持ち上げ。
断りにくい。
しかも他の人間も「ああ、そうですね」「神谷さんなら」と自然に乗る。
こういうとき、自分はいつも笑って引き取ってしまう。
空気を悪くしたくないから。
あとで自分が苦しくなると分かっていても、その場で止めるほうがもっと面倒に見えるからだ。
でも今日は、その流れがやけにはっきり見えた。
見えた瞬間、逆に少し冷静になった。
これは誰かが巧妙に仕掛けている罠ではない。
自分が今まで「大丈夫」「できます」「見ておきます」で、せっせと組み上げてきた足場の上に、みんなが当然みたいに立っているだけだ。
つまり、罠の半分は自分で作っている。
「すみません」
澪は会議机の上で、初めて少しだけ声を張った。
「それ、今回は福祉課で初稿を出してください」
部屋が少し静かになる。
福祉課の職員が目を瞬いた。
「え」
「表現の調整は手伝います」
澪は続けた。
「でも、最初のたたき台までこちらが持つと、たぶん今回も全部こちらの仕事になります」
言いながら、自分でも少し怖かった。
空気が悪くなるかもしれない。
感じが悪いと思われるかもしれない。
でも、その怖さより先に、今日は「また同じ形になる」のが嫌だった。
「……ですよね」
意外なことに、福祉課の職員は少し気まずそうに頷いた。
「すみません。じゃあ、今日中に作って送ります」
それだけだった。
会議はそのまま続いた。
誰も露骨に嫌な顔はしない。
世界は、思っていたほど簡単には壊れなかった。
夕方、広報室へ戻ると真鍋が机越しに言った。
「さっきの、すごかったです」
「何が」
「ちゃんと返したじゃないですか」
澪はパソコンの電源を入れながら、少しだけ肩をすくめた。
「返したってほどじゃない」
「でも、いつもなら持ってましたよね」
その言葉に、澪は少しだけ笑った。
そうだ。
いつもなら持っていた。
持てるから。
持てるし、最終的に自分でやったほうが早いから。
でも、その“早い”の積み重ねが、自分の机を少しずつ罠みたいな形にしていたのだ。
夜、帰りの電車で姉から追いメッセージが来た。
【土曜ほんと助かる】
【今度ごはんおごる】
澪はその文を見て、少しだけ考えてから返した。
【行くよ】
【でも来月の検査は、姉ちゃんも一回一緒に行って】
送る指が少しだけ重かった。
これで気まずくなるかもしれない。
負担を押し返したように見えるかもしれない。
でも、母のことを全部自分一人で抱えている顔を、もう少しだけやめたかった。
既読はすぐについた。
数分後、返事が来る。
【わかった】
【そこ、ちゃんと考えてなかった】
【ごめん】
その短い文を見て、澪は息を吐いた。
謝らせたいわけではない。
ただ、片方だけが当然みたいに引き受けている形を、自分でも「当然」にしないでおきたかった。
家へ帰ると、ワンルームの部屋は相変わらず静かだった。
靴を脱ぎ、バッグを椅子へ置き、冷蔵庫から麦茶を出す。
何も変わっていない。
でも、何も変わっていないままでもない。
今日、自分は二回、少しだけ持ち方を変えた。
それだけで、肩の位置が少し違う気がした。
机の上には、付箋だらけのメモ帳がある。
締切、電話、確認事項、差し替え、母の病院、広報誌の校了。
細かいことばかりだ。
その中の一枚を剥がし、澪は新しく書いた。
【全部を先回りしない】
ずいぶん地味だな、と自分でも思う。
もっと劇的な決意や、格好いい方針があるかもしれない。
でも今の自分に必要なのは、たぶんその程度の線引きだった。
人に頼ることも、少し遅れて仕上がることも、最初から下手だ。
だからこそ、意識してやらないと、またすぐ「神谷さんなら」で囲まれてしまう。
窓を少し開ける。
六月の夜気はまだ重い。
遠くで救急車の音がして、すぐに消える。
澪は麦茶を飲みながら、会議室で自分が口を開いた瞬間を思い返した。
怖かった。
でも、思ったほど嫌な結果にはならなかった。
だったら、今まで黙って引き受けてきたものの何割かは、本当は自分で固めていた罠だったのかもしれない。
もちろん明日になれば、また同じ流れは来るだろう。
課長は軽い顔で紙を置くし、真鍋は「大丈夫ですか」と聞くし、別の課から「神谷さんなら」が飛んでくる。
それでも、そのたびに少しずつ形を変えていくしかない。
いきなり別人にはなれない。
でも、自分の机を自分で罠にしないくらいのことは、たぶん出来る。
メモ帳の付箋を、今日の分だけ少し整理する。
終わったものは剥がす。
人に返したものは自分の欄から外す。
その小さい動作だけで、机の上がほんの少し広くなった。
その広さを見て、澪はやっと少し笑えた。
変わるというのは、大きく走り出すことではなくて、まず自分で組み上げた檻の鍵穴を探すことなのかもしれなかった。