『閉店後の湯気で話す』
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
短編が気が向いた時に繁殖します
本文
夜十時を過ぎた食堂は、昼よりずっと本音に近い。
看板の灯りはもう半分落ち、客席の椅子は半分ほど机へ上げられている。洗い場の蛇口から細く水が流れ、換気扇だけがまだ働いている。
営業中は大皿や注文の声に隠れてしまうような小さい音が、閉店後にはよく響く。包丁の背をまな板へ置く音、炊飯器の保温が切れる音、味噌汁の鍋に最後の湯気が立つ音。
山岡律は、その時間の店が好きだった。
昼の愛想や手際のよさが全部剥がれて、残るものだけが少し正直になるからだ。
店の名は「しろやま食堂」。
駅前でも、商店街の真ん中でもない。住宅街へ入る手前、町工場と古いアパートの間にある。
定食、丼、うどん、夜は少しだけ一品料理。派手なものはないが、近くで働く人と、一人暮らしの年配客には妙に頼られている店だった。
律は三十二歳。
母が切り盛りしていたこの店に入って、もう八年になる。
火加減も盛りつけも、仕入れの勘も悪くない。向いているとは思う。
ただ最近、ときどき、向いていることに自分を預けすぎている気もしていた。
店は続いている。
常連もいる。
けれど、その先をどうするかの話だけは、ここ一年ずっと曖昧なままだった。
「それ、そこ置いといて」
洗い場の奥から声がした。
篠崎文音だった。
二十九歳。半年ほど前から夜だけ入っているパートで、最初は配膳も危なっかしかったのに、今では小鉢の仕込みまで任されている。
無口なほうではない。
でも、必要以上に自分のことを喋る人でもなかった。
律からすると、その距離感が妙に心地よかった。
「置いといた」
「ありがとう」
「今日、だいぶ疲れてる?」
律が聞くと、文音は洗い終わった皿を重ねながら少しだけ肩をすくめた。
「まあ」
「まあ、って顔じゃない」
「店長も人の顔見るんだ」
「一応」
「へえ」
そう言って笑ったが、笑い方の端が少しだけ固かった。
文音が今の店へ来たのは、前の勤め先を辞めたあとだった。
スーパーの総菜部で長く働いていたらしいが、母親の介護が重くなってシフトの融通がきかなくなり、続けられなくなったという。
詳しいことは、聞いていない。
聞けなかったというより、聞かないままでも一緒に働けていたから、そのままにしていた。
律も自分のほうの話を、たいしてしていない。
父が亡くなって店を継ぐ形になったこと。
いま母の体調が少しずつ落ちていて、店の今後を一人で考え始めていること。
そういう話は、喉の手前まで来てもたいてい別の言葉へ流れてしまう。
その夜、最後の客が帰ったあとで、文音がぽつりと言った。
「明日、少し遅れるかもしれない」
「病院?」
言ってから、少し踏み込みすぎたかと思った。
でも文音は嫌な顔をせず、短く頷いた。
「うん。母の検査」
「付き添い?」
「うん」
「大丈夫?」
文音は鍋の取っ手を布巾で拭きながら言う。
「大丈夫って言っとかないと、回んないから」
その言い方が、妙に胸に残った。
分かる、と思う。
分かるからこそ、安易に「分かる」とも言えない。
「なぁ」
律は、ふと口をついて出たその一言に自分で少し驚いた。
文音が手を止める。
「何」
「いや」
その先が続かない。
何を聞きたかったのか、自分でも曖昧だった。
本当に大丈夫なのか。
何か手伝えることはあるのか。
そういう表向きのことではなく、もっと別のところ。
きついならきついって言えばいいのに、とか、何で一人で持とうとするんだ、とか、そういう少し自分勝手な気持ちが混ざっていた。
「……何でもない」
結局そう言うと、文音は少しだけ目を細めた。
「その“何でもない”、だいたい何でもあるよね」
「そう?」
「うん」
そう言って、また手を動かし始める。
見透かされている感じがして、少しだけ落ち着かなかった。
翌日、文音は本当に一時間遅れて来た。
店は昼の名残で少し忙しく、律は一人で皿洗いと仕込みを行き来していた。
だから顔を見た瞬間、まず出たのは「おつかれ」でも「大丈夫」でもなく、「そこ、白菜切って」だった。
それで回る。
それで助かる。
でも、それだけで済ませることに、今日は少しだけ嫌気が差した。
営業が一段落してから、律は冷蔵庫の前で麦茶を二つ出した。
文音は怪訝そうに片眉を上げる。
「どうしたの」
「休憩」
「珍しい」
「たまには」
二人で裏口の小さな階段へ座る。
夜気はまだ少し湿っていたが、昼間の熱気はもう抜けていた。
「検査、どうだった」
律が聞く。
文音は缶ではなくコップの麦茶を見ながら言う。
「まあ、すぐどうこうではないって」
「そっか」
「うん」
そこで会話が終わりそうになって、律は少しだけ苛立った。
終わらせたくない。
でも、どう聞けばいいのか分からない。
聞く資格みたいなものを、勝手に自分で測ってしまう。
「なぁ」
また、その一言が先に出た。
文音が今度は笑う。
「今日、それ多いね」
「……うん」
「何」
その“何”は、急かす感じではなかった。
ただ、逃がさない感じが少しだけあった。
だから律も、逃げたくなくなった。
「文音さんさ」
「うん」
「何で、そういうの全部、一人で平気な顔するの」
口に出した瞬間、ずいぶん勝手な言い方だと思った。
でも引っ込めるにはもう遅い。
文音はすぐには答えなかった。
視線だけを階段の下へ落とし、しばらくしてから言う。
「平気な顔してるつもりはないよ」
「してる」
「してない」
「してる」
「じゃあ」
文音は少しだけ笑った。
「店長の前では、してるかも」
その返しに、律は言葉をなくした。
不意打ちみたいに柔らかい答えだったからだ。
「何で」
「何でって」
文音はコップを両手で持ち直す。
「ここ、働く場所だから」
「うん」
「しんどいです無理ですって顔で来たら、店長も困るでしょ」
「困るけど」
「だから、まあ」
言葉を探すみたいに少し間を置く。
「ちょっとだけちゃんとした顔する」
それを聞いて、律はようやく息を吐いた。
偉いとか、健気とか、そういうきれいな感じではなかった。
ただ、自分と同じだと思った。
店長だから。
息子だから。
回さなきゃいけない側だから。
そうやって少しだけ“ちゃんとした顔”をしてしまう。
「俺も」
律が言う。
「何」
「してる」
「何を」
「ちゃんとした顔」
文音が初めて少し大きく笑った。
「してるね」
「そこ即答なんだ」
「だって分かりやすいもん」
笑ったあとで、ふっと真顔に戻る。
「でも、それで店まわってるんでしょ」
「まあ」
「なら、全部悪いわけじゃない」
その言葉に、律は少しだけ救われた。
強がりを全部やめれば正直になれる、なんてたぶん嘘だ。
大人はだいたい、何かを回すために少しだけ無理をする。
でも、そのまま全部を飲み込む必要もないのだろう。
「なぁ」
今度は文音が言った。
「何」
「店、どうするつもり?」
律はコップの縁を親指でなぞった。
やっぱり来るか、と思う。
でも、嫌ではなかった。
誰かに聞いてほしかったのだと、今になって気づく。
「母さん、昼だけならまだ店立てる」
「うん」
「でも夜はだいぶきつい」
「うん」
「だから、続けるなら形変えないと無理だと思ってる」
文音は黙って聞いている。
急かさない。
アドバイスも挟まない。
それがかえって、続きを言いやすかった。
「ただ」
律は言う。
「形変えるってなると、もう親父の店ではなくなる気がして」
「うん」
「そこが、まだ決めきれない」
文音は少しだけ頷く。
「そうだよね」
「簡単に“新しくしよう”って言うやつ嫌い」
「わかる」
「でも、今のまま守るのも、なんか違う」
「うん」
短い相槌だけなのに、きちんと会話になっている感じがした。
たぶん欲しかったのは、正解じゃなくてこういうことだったのだ。
曖昧なままでも、途中で止めずに聞いてくれる相手。
しばらく沈黙があった。
店の裏の通りを、自転車が一台だけ通り過ぎていく。
そのあとで文音が言った。
「私ね」
「うん」
「ここ好きだよ」
律は顔を上げる。
「急に」
「急にじゃない」
文音は少し笑う。
「湊気取りみたいな綺麗なこと言うつもりないけど」
「誰」
「そういうのいるでしょ、商店街に一人くらい」
律は思わず笑った。
それで少しだけ空気がほどける。
「好きっていうか」
文音は言葉を選び直した。
「ちゃんと誰かの一日を受け取ってる感じがする」
「……」
「だから、形が少し変わっても、それが残るなら私はいいと思う」
その言葉を聞いたとき、律は胸の中のどこかへじんわり熱が広がるのを感じた。
誰かが食べに来る。
誰かが疲れた顔で座る。
誰かが味噌汁をすすって、少しだけ元に戻る。
たしかにこの店は、ずっとそういう場所だった。
看板や席数や営業時間の前に、そこが本体なのかもしれない。
「Tell me って感じだったんだよな」
律がぽつりと言うと、文音が首をかしげる。
「何」
「いや」
律は少しだけ笑う。
「誰かに言ってほしかったんだと思う。店をどうしたいかじゃなくて、何を残したいか」
文音は小さく頷いた。
「じゃあ、聞けてよかったね」
「うん」
「で、答えは?」
そこまで聞かれて、律はようやく自分の中の輪郭を確かめる。
まだ全部ではない。
でも、前より少しだけ見える。
「夜は縮めるかも」
「うん」
「でも朝は強くしたい」
「朝」
「出勤前にちゃんと腹に入るやつ」
文音は笑った。
「それ、湊みたい」
「誰だよ」
「知らない。でもいそう」
また笑う。
笑いながら、律はその言葉が妙にしっくりくるのを感じた。
朝。
湯気。
短い会話。
この店で残したいものは、たぶんそのへんにあった。
階段から立ち上がる。
店へ戻る前に、文音が言った。
「じゃあさ」
「何」
「ちゃんと聞きたいことあるとき、“なぁ”で止まらないで」
律は一瞬だけ間の抜けた顔になった。
「そんな止まってた?」
「止まってた」
「……気をつける」
「たぶん無理」
「うるさい」
でも、その通りだった。
言いかけてやめる癖。
大事なことほど、喉まで来て別の言葉へ変えてしまう癖。
たぶんそれが、自分の一番駄目なところでもあり、今夜少しだけ変えたいところでもある。
「じゃあ、もう一回」
文音が言う。
「何」
「なぁ、の続き」
律は少しだけ息を吸った。
店の裏口の灯りが、二人の足元だけを薄く照らしている。
こういう場面で格好つけるのは、たぶんもう違う。
「……また、聞いてくれる?」
文音は少し驚いた顔をして、それから柔らかく笑った。
「うん」
「今度は店の話じゃなくても?」
「それは、内容による」
「厳しいな」
「雑に逃げる人には厳しいです」
その返しに、律も笑った。
たぶん、今日はそれで十分だった。
全部が決まったわけじゃない。
店の形も、母のことも、自分の先も、まだこれから話さなければならない。
でも、聞きたいことを聞きたいと言える相手がいるなら、人は少しだけ先へ行けるのかもしれない。
店の戸を開ける。
洗い場のステンレスに、まだ少しだけ湯気が残っていた。
その向こうに、明日の仕込みの鍋が並んでいる。
大事な話というのは、たいていこういう生活の真ん中にしか出てこない。
静かで、ぬるくて、逃げ道もあるのに、それでも言わないと残る。
律はそのことを、今夜ようやく少しだけ分かった気がした。