『返してなかった音』
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
短編が気が向いた時に繁殖します
本文
駅前の古い貸しスタジオは、昼間でも少しだけ夜の匂いがする。
防音材にしみついた汗と埃、アンプの熱、使い込まれたケーブルのゴムの匂い。高校生のバンドも、社会人の趣味も、解散しかけのユニットも、みんな同じ狭い部屋で音を鳴らしてきたせいだろう。
重たい防音扉を開けた瞬間、三好朔は、十年くらい時間が巻き戻ったみたいな気分になった。
床の隅に、黒いギグバッグが立てかけてある。
スタンドマイクは一本。
丸椅子が二脚。
それから、壁際のアンプの前で、パーカーの袖を無造作にまくった男がしゃがんでいた。
「やっぱ来たな」
振り返りもせず、その男が言う。
「来るか迷った」
「来る顔してた」
そう言って、ようやく顔を上げた。
神谷健吾。三十三歳。
高校の同級生で、昔、朔と二人で曲を作っていた相手だ。
朔は三十三歳。
町工場向けの部品商社で営業をしている。
見積り、納期、現場の愚痴、急ぎの手配。仕事はきついが、慣れた。向いていないとも思わない。
ただ、その“慣れた”の中には、ずっと触らないでおいたものも混ざっている。
ギター。
作曲。
健吾と組んでいた、名前もなかった二人組。
高校から二十五まで、何だかんだ続いていた。
インディーズのオーディションを受けたり、ライブハウスの昼枠に出たり、CD-Rを十枚だけ焼いて友達に配ったり。売れる気配はなかったが、やめる理由もなかった。
でも朔の父親が倒れ、家の都合で就職を優先したころから、練習の回数が減った。
健吾は「まあ今はしょうがない」と言い、朔も「落ち着いたらまた」と返した。
その“落ち着いたら”は、結局八年続いた。
「で、何」
朔は壁にもたれたまま言った。
「急に連絡してきて」
「片づけ」
「何の」
「俺の」
健吾は立ち上がった。
「来月、福岡行く」
「は?」
「音楽の仕事じゃないぞ」
「それは見れば分かる」
「施工管理」
朔は一瞬だけ言葉を失った。
健吾は高校のころからずっと、将来は音で食うとか、食えなくても音のそばにいるとか、そういうことを平気で言う人間だった。
現実が甘くないのは誰だって知っている。
でも、その“知っている”の上で、なお言い続ける役をやっていたのは健吾のほうだった。
その健吾が、施工管理。
「そういう顔するなよ」
健吾が笑う。
「別に死ぬわけじゃない」
「いや」
朔はようやく口を開く。
「何も聞いてなかったから」
「言ってないし」
「何で」
「何でって」
健吾はアンプの電源を入れながら言った。
「言うほどのもんでもなかった」
「あるだろ」
「いや、最終的に決まったの先週だし」
「そういうことじゃなくて」
そこで朔は言葉を切った。
何に腹が立っているのか、自分でも少し曖昧だった。
健吾が福岡へ行くこと。
その話を今まで知らなかったこと。
それとも、自分の知らないうちに、あの頃の続きを本当に終わらせる段取りまで進んでいたことか。
「スタジオ、二時間取ってる」
健吾が言う。
「片づけって言ったのは嘘じゃない」
「何片づけるんだよ」
「なあなあで終わってるやつ」
その言い方が、妙にまっすぐだった。
朔は少しだけ顔をしかめた。
「急だな」
「急じゃないよ」
健吾はギグバッグを足元へ引き寄せる。
「八年分、ずっと遅いだけ」
そこまで言われると、反論しにくい。
朔は黙って丸椅子の一つへ腰を下ろした。
防音扉の向こうで、誰かがドラムを叩き始める。鈍いキックの音が壁を通して伝わってくる。
高校のころ、この音が聞こえるだけで少し胸が熱くなった。
今は、懐かしいのに少し腹が立つ。
まだ自分の中に、そういう反応が残っていることに。
「覚えてる?」
健吾がギターを取り出しながら聞く。
「何を」
「最後まで形にならなかった曲」
「多すぎる」
「その中でも、サビだけ妙に良かったやつ」
「知らん」
「絶対覚えてる」
健吾は笑って、小さなICレコーダーを卓へ置いた。
「データ、整理してたら出てきた」
再生すると、ノイズの多いデモ音源が流れた。
安いマイクで録ったギターと仮歌。
テンポは少し走り、コード進行も今聞くと若い。
でもサビに入った瞬間、朔は思わず顔を上げた。
覚えている。
健吾の作ったメロディに、自分が言葉を乗せかけて、途中で放り出した曲だ。
確か、ライブで一回やろうとして、歌詞が最後まで出来なくてやめた。
「これ」
健吾が言う。
「今日、終わらせようと思って」
「今さら?」
「今さら」
「お前さ」
朔は思わず笑ってしまう。
「相変わらずそういうとこあるな」
「ある」
健吾はあっさり認めた。
「今さらでも、片づけたいものは片づけたい」
その言い方が、少しだけ羨ましかった。
朔は今の仕事でも、終わっていないメールや、返していない見積りの催促や、そういうものを放っておくのが嫌いだ。
なのに、人生のもっと大きいところでは、なあなあのままにしたものがいくつもある。
バンドも、その一つだった。
「朔」
健吾が言う。
「別に、今から売れようとか、バンド再開しようとか言ってるんじゃない」
「……」
「ただ、あのとき“また今度”で置いたやつに、一回ちゃんと終わりか続きをつけたい」
朔は視線を床へ落とした。
分かる、と思った。
分かるから余計に面倒だった。
自分だって、本当は何度も考えた。
仕事が落ち着いたら。
父のことがひと段落したら。
生活がもう少し整ったら。
でも、そうやって条件を並べているうちに、音楽は「今の自分には関係ないもの」の顔をしてしまった。
関係ないふりをしているだけで、ずっとどこかにあるのに。
「で」
朔は聞いた。
「俺に何しろって」
「サビの先、書け」
健吾はギターを抱え直す。
「お前しか書けなかっただろ」
その言葉に、胸の奥が少しだけ痛んだ。
昔もそうだった。
健吾はメロディが先に来る。
朔は言葉が遅い。
遅いくせに、健吾は妙に待った。
その待たれ方が重い時もあったし、救いの時もあった。
「今さら書けるわけないだろ」
「じゃあ今の言葉で書け」
「今の言葉?」
「三十三歳のやつ」
健吾は言う。
「二十五で放り投げた曲を、二十五のまま終わらせる必要ないだろ」
その発想はなかった。
昔の続きを、昔のままやらなければいけないと思っていた。
だから余計に手を出せなかったのかもしれない。
戻れないと分かっているから、最初から近づかない。
でも、戻れないなら戻れないなりの形があるのだと、健吾はあっさり言う。
「なあ」
朔が言う。
「何」
「お前、音楽やめたの」
健吾は少しだけ黙った。
それからギターの弦を一本ずつ軽く弾いて、音を確かめる。
「やめてない」
「でも仕事」
「仕事する」
「福岡」
「行く」
「それでも?」
「それでも」
健吾は顔を上げた。
「飯食う方法と、やめるかどうかは、別だろ」
その言い方が、あまりにも健吾らしくて、朔は少しだけ笑った。
この人は昔から、現実に負けないのではない。
現実と自分の好きなものを、無理やり別の棚に置くのがうまいのだ。
だから続く。
そして、その雑さに何度も救われてきた。
結局、二人は一時間以上、サビの続きをいじった。
健吾がコードを鳴らし、朔が言葉を考える。
最初は出ない。
笑えるくらい出ない。
高校生みたいな青さはもうないし、二十五の焦りもない。
代わりにあるのは、途中でやめたことへのみっともなさとか、安定した仕事に乗ったあとの鈍さとか、もう若くないくせにまだ残っている未練とか、そういう見栄えの悪いものばかりだ。
でも、だからこそ書ける言葉もあった。
「それ、いい」
健吾が言う。
「どこが」
「格好悪いとこ」
「褒めてる?」
「褒めてる」
それで少しだけ、朔は肩の力を抜いた。
昔の自分に戻らなくてもいい。
今の自分のだささごと持っていけば、曲はちゃんと前に進むのかもしれない。
二時間の終わり頃、曲は一応の形になった。
録音し直すには時間が足りない。
でも、最後まで通して一回演奏はできた。
サビの先まで言葉があり、健吾がギターを鳴らし、朔が歌う。
声は昔より低くなり、息も続かない。
それでも、途中で止めなかった。
その事実だけで、十分な気がした。
「で」
朔がマイクを置いて言う。
「これ、どうすんの」
「どうしような」
健吾はICレコーダーを拾い上げる。
「俺は持ってく」
「福岡に?」
「うん」
「聞くの?」
「たまに」
「気持ち悪」
「ひでえな」
健吾は笑った。
「でも、今日やっと“また今度”じゃなくなった」
その言葉に、朔は少しだけ頷いた。
たしかにそうだった。
再開でもない。
成功でもない。
でも、投げたままだったものを、一回ちゃんと手に取って、自分たちなりの位置へ戻した感じがした。
スタジオを出ると、外はもう夜だった。
駅前の居酒屋の灯りと、コンビニの白い光が路面を濡らしている。
別れ際、健吾が言う。
「なあ」
「何」
「福岡、来る?」
あまりにも唐突で、朔は目を細めた。
「何しに」
「知らん」
「雑」
「でも、お前そういうの嫌いじゃないだろ」
嫌いじゃない。
昔なら、その誘いに軽く乗ったかもしれない。
今は、すぐには頷けない。仕事もある。生活もある。
でも、それを言い訳にして全部を閉じるのも、今日は少し違う気がした。
「……考える」
朔が言うと、健吾は笑った。
「ちゃんと前向きなやつだな、それ」
「前までの俺なら?」
「“無理”って言ってた」
それはたぶん本当だった。
昔の自分は、動けない理由を先に固めることで、自分を守っていた。
「じゃあ」
健吾が言う。
「また今度、は無しな」
朔は少しだけ息を吐いて、それから頷いた。
「うん」
今度の“うん”は、先延ばしの音ではなかった。
それだけで、今夜は十分だった。
駅へ向かう途中、朔は久しぶりに胸の奥が少し軽いのを感じた。
夢を追いかけ直すわけじゃない。
会社を辞めるわけでもない。
でも、なあなあで終わった夢も、なあなあで終わった関係も、そのまま置いておくしかないわけではない。
少なくとも、名前をつけ直すことくらいはできる。
それを知った夜だった。
ポケットの中で、さっき録ったデータの入ったUSBが少しだけ固く当たる。
昔なら、そういう小さい手触りひとつで、しばらくは生きていける気がした。
今もたぶん、少しだけそうなのだ。
だからこそ、まだ全部を捨てなくていいのかもしれないと、朔は思った。
駅のホームに電車が入ってくる。
ドアが開く。
その先にあるものが何かはまだ分からない。
でも、なあなあのままよりは、少しだけましな場所へ向かっている気はした。