『改札を抜けたら拍子が変わる』
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
短編が気が向いた時に繁殖します
本文
水曜の夕方は、街の色まで少しだけくたびれて見える。
月曜の勢いはもうない。金曜の気配もまだ遠い。駅前のガラスビルに映る空も、帰宅ラッシュの人波も、全部が「あと二日ある」と言ってくる。
鳴海実央は、その感じが昔から苦手だった。
疲れていることを、まだ認めてもらえない曜日だからだ。
実央は二十九歳。
保険会社の事務センターで、契約変更や保全の入力をしている。
仕事は正確さがすべてで、ミスなく早い人ほど重宝される。
実央はその点、かなり優秀なほうだった。入力も速いし、差し戻しも少ない。急ぎ案件が入ると、だいたい誰かが「鳴海さん、これも見てもらえますか」と紙束を持ってくる。
向いているのだと思う。
ただ、向いている仕事というのは、ときどき人を器用に消耗させる。
できるから頼まれる。
頼まれるから断りづらい。
断らないから、また頼まれる。
そういう週の真ん中に来ると、実央は毎回、自分の身体が少しだけ空っぽになっていくのを感じた。
「鳴海さん、これ今日中って言われてて」
十六時四十分、後輩の高梨がファイルを抱えてやってきた。
二十四歳。入社二年目で、素直だが焦るとすぐ眉が下がる。
「今日中、好きだねみんな」
実央が言うと、高梨は困ったように笑った。
「すみません」
「謝らなくていいよ。どれ」
ファイルを受け取る。
異動に伴う契約移管の案件が十件。
軽く三十分はかかる。
しかも今日は、自分の締切もまだ残っている。
時計を見る。
十七時前。
間に合うかどうか、ぎりぎりの時間だった。
今日だけは、どうしても定時で出たかった。
金曜ではない。
木曜でもない。
でも今週は特別だった。
いつも金曜の夜に見に行っているライブハウスが、今週だけ水曜にイベントを入れていたからだ。
しかも、トリを務めるのは高槻紗都のバンドだった。
紗都は、大学時代の先輩だった。
一つ上で、軽音サークルで同じバンドをやっていた。
実央がキーボード、紗都がボーカル。
卒業後、実央は普通に就職し、紗都はなんだかんだで音楽を続けた。売れてはいない。インディーズですらない。けれど月に数回、小さな箱でライブをして、そのたびにちゃんと人を集めている。
実央は、社会人になってからずっと、それを見に行っていた。
毎回ではない。
毎回だと重い。
でも行ける日は行く。
水曜や木曜のしんどい夜でも、あの狭い階段を上がってドアを開ければ、少なくとも一時間だけは、別の呼吸ができる気がするからだ。
最初は、先輩の義理だった。
次第に、それだけではなくなった。
ステージの上の紗都が羨ましいとか、好きだとか、そういう単純な話でもない。
ただ、実央が毎週すり減らしているものと、紗都がステージの上で燃やしているものが、どこかで繋がっている気がした。
会社ではずっと静かに処理している自分の中にも、本当はもう少し大きい音を鳴らしたがっている何かがある。
紗都のライブを見ると、それを思い出す。
だから週の半ばがきつくても、「今夜あれがある」と思うだけで、少しだけ足が前に出た。
高梨から受け取ったファイルを開きながら、実央は内心で舌打ちした。
こんな日に限って。
そういう愚痴を心の中で何回言ったところで、仕事は減らない。
「鳴海さん」
隣の席の木田が小声で言った。
「今日、予定ある?」
木田は三十一歳。実央と同期で、気のいい営業事務だ。
「ある」
「じゃあ俺、三件持つよ」
実央は思わず顔を上げた。
「いいの」
「その代わり、明日コーヒーおごって」
「安いな」
「同期価格」
木田はにやりと笑う。
「顔に出てるよ。今日は逃したくない日なんでしょ」
逃したくない。
その言い方が、妙にぴったり来た。
デートでもない。
約束した相手が待っているわけでもない。
でも、あの時間を逃したくない。
今週の自分がようやく少しだけ息を吸える場所を、今日は手放したくなかった。
「じゃあ、三件だけ」
実央が言うと、木田はファイルをひったくるみたいに持っていった。
「よし」
「その代わり、明日の朝一で私の確認入るから」
「知ってる」
「そこまで込みでの同期価格だから」
「うるさい」
そこからは、驚くほど速かった。
指が動く。
名前、生年月日、契約番号、移管先支社、変更理由。
いつもならうんざりする作業なのに、今日は少しだけ違った。
終わった先に待っているものがはっきりしているだけで、人はここまで機嫌よく急げるのかと思う。
十八時七分。
最後の入力を確定して、実央はパソコンを落とした。
「鳴海さん、おつかれ」
高梨が言う。
「ごめんなさい、助かりました」
「次からは先に半分持ってくること」
「はい」
「あと、“今日中”って言われても、一回考える」
「はい」
実央はバッグを掴み、ロッカーから薄い上着を引っ張り出した。
「じゃあ、お先」
木田がわざとらしく腕時計を見る。
「走れば二本目の快速いける」
「ありがと」
「コーヒー忘れんなよ」
それだけ返して、実央は本当に走った。
会社から駅までの道は、夜の入口らしい湿った空気で満ちていた。
改札を抜ける。
ICカードの電子音が鳴る。
エスカレーターを駆け上がる。
ホームに滑り込んできた快速へ飛び乗る。
車内の窓に映る自分の顔は、会社のトイレで見たときよりだいぶましだった。
疲れてはいる。
でも、くたびれてはいない。
まだ今日は終わっていない顔だ。
ライブハウスは、駅の南口から少し歩いた雑居ビルの地下にある。
入り口は狭く、看板も小さい。知らなければ素通りする。
階段を下りると、もう上の街とは別の湿度だ。
受付の前で予約名を言い、ドリンク代を払い、半券代わりの紙を受け取る。
その紙切れを握った瞬間、実央の中で一日の拍子が変わる。
会社で鳴っていたメールの通知音も、コピー機の唸りも、全部少し遠くなる。
代わりに、下のフロアからベースの低い音が上がってくる。
それだけで、胸の内側の固まったものが少しずつほどけた。
客席はすでにかなり埋まっていた。
平日の夜にしては多い。
会社帰りらしいスーツ姿、古いバンドTシャツの男女、大学生っぽいグループ、常連らしい人たち。
実央はいつも通り、後ろの少し左側へ立った。
前へ行けないわけではない。
でも昔からこの位置が落ち着く。
全体が見えて、音も変に偏らない。
それに、あまり近いと、紗都と目が合った気がして困る。
三組目が終わり、照明が一度落ちる。
転換のざわめき。
マイクチェック。
ドラムのスネアを軽く叩く音。
客席の温度が少しずつ上がっていく。
実央はバッグの紐を握り直した。
会社での一日が、こういう瞬間のためにどんどん後ろへ下がっていく。
その感じが、たまらなく好きだった。
ステージに紗都が出てきた。
白いシャツの袖を肘までまくり、髪は少し濡れたみたいに束ねている。
MCもそこそこに、一本目が始まる。
派手な曲ではない。
でも、最初の一声で客席の空気がはっきり変わる。
前のほうの人が自然に手を上げ、後ろからも拍が揃い始める。
実央も、気づけば同じように手を叩いていた。
恥ずかしいとか、年齢がどうとか、そういうことを考える暇がない。
音が来て、身体が先に返す。
それだけだ。
平日の真ん中で疲れ切った会社員だろうが、明日一限の学生だろうが、この一時間だけはみんな同じように拍子を持っている。
その雑な平等さが、実央にはたまらなく心地よかった。
四曲目のあと、紗都が水を一口飲んで言った。
「今日、水曜なんだよね」
客席から笑いが起きる。
「ほんと、何で水曜にやるんだって感じだけど」
また笑い。
紗都は肩をすくめた。
「でも、週の真ん中にしんどい顔してる人ほど、来てくれる気がするから」
その言い方が、実央の胸にまっすぐ入った。
見抜かれている、とは違う。
ただ、こういう夜にここへ来る人間がどんな顔をして改札を抜けてくるかを、紗都はちゃんと知っているのだと思った。
「今日はちょっと、声出してもらっていい?」
紗都が言う。
「遠慮とか、水曜だからとか、明日仕事だとか、そのへんは一回横に置いて」
その次の曲は、実央の好きな曲だった。
昔、サークルで一緒にやっていた頃から、紗都がこういう跳ねる曲を歌うと会場の空気が一段明るくなる。
ドラムが走り、ベースがぐっと前へ出て、ギターが少しだけ雑に鳴る。
客席の手拍子がそろう。
前のほうの人が肩を揺らし始める。
実央は笑っていた。
ちゃんと笑っているのが、自分でも分かった。
曲の終盤、紗都が客席を見渡して言った。
「後ろも!」
その声で、実央は思わず顔を上げた。
目が合ったかどうかは分からない。
でも、その瞬間、ずっと後ろで小さく拍を取っていた自分が、急に少しだけ馬鹿らしくなった。
何を照れていたのだろう。
今日ここへ来るためにあんなに必死で仕事を片づけて、電車に飛び乗って、階段を下りてきたのに。
それなのに、楽しむところでだけ妙に控えめでいる必要が、どこにあるのだろう。
実央は手を上げた。
ほんの少しだけ。
大げさじゃなくていい。
でも、自分で自分に分かるくらいには前へ出す。
その小さな動きだけで、胸の奥が一気に明るくなる。
笑って、手を叩いて、隣の知らない人と同じタイミングで声を上げる。
ただそれだけなのに、何か長い間止まっていたものが一つ、ちゃんと動いた感じがした。
ライブが終わると、汗と熱気と笑い声でフロアは満ちていた。
アンコールはない。平日だし、終電もある。
でも最後の一曲のあとに残った余韻は、休日の長いライブよりむしろ強かった。
短いからこそ、全部を出し切る感じ。
実央はその空気の中で、水の入った紙コップを飲み干した。
帰ろうとしたところで、肩を軽く叩かれた。
振り向くと、紗都がステージ脇の隙間から顔を出していた。
「来てた」
「来てた」
「分かってたけど」
「何それ」
「その位置、いつも同じだから」
紗都は笑った。
「でも今日、ちょっとだけ前にいた」
実央は思わず目を丸くした。
「見えてたの」
「見えるよ」
そう言ってから、少しだけ真顔になる。
「実央さ」
「何」
「そろそろ、見てるだけじゃなくてもいいんじゃない」
心臓が少しだけ跳ねた。
その言い方が、音楽のことだけを指していない気がしたからだ。
「……何を」
実央が聞くと、紗都は肩をすくめる。
「知らない。仕事でも、音でも、生活でも」
「雑」
「でも本気」
その返しが、昔と変わっていなくて少しだけ腹が立つ。
でも、腹が立つのは図星だからだ。
実央は少し黙ってから言った。
「今日ね」
「うん」
「会社で、どうしても定時で出たくて、初めてちゃんと人に頼った」
紗都が目を細める。
「えらいじゃん」
「えらくはない」
「でも、実央にしてはだいぶ」
「失礼」
「褒めてる」
そのやり取りのあとで、紗都は紙コップをぐしゃりと握った。
「また来週はないけど」
「うん」
「次、来る?」
「行けたら」
そう言いかけて、実央はやめた。
「……行く」
言い直すと、紗都が少しだけ笑う。
「そのほうがいい」
それだけで十分だった。
地上へ上がると、夜風は思っていたよりぬるかった。
平日の街はもう静まり始めている。
コンビニの白い光、タクシー乗り場、信号待ちの数人。
さっきまでの熱気が嘘みたいだ。
でも、実央の中の拍子だけはまだ少し残っていた。
スマホを見る。
木田からメッセージが来ている。
【生きてる?】
【コーヒー二倍な】
実央は少し笑って、短く返した。
【生き返った】
【二倍は高い】
それから歩きながら、少しだけ考えた。
明日になれば、また入力も締切も来る。
後輩の眉も下がるし、課長は軽い顔で紙を置くだろう。
でも、今日みたいに何かを楽しみに週の真ん中を越えるだけじゃなくて、自分のほうから少しだけ日々の形を変えることも、たぶん出来るのかもしれない。
頼る。
断る。
前へ出る。
どれも大げさな革命ではない。
でも、自分にはそのくらいで十分なのだろう。
改札の前で立ち止まり、実央は一度だけ振り返った。
地下へ続く小さな階段は、もうただの暗い入口に見える。
でも、あそこを下りた先で、自分の一週間が少しだけ違う形になったことを、身体はもう覚えている。
それなら次もまた、迷わず行ける気がした。
週の真ん中がきついことは、たぶんこれからも変わらない。
でも、その先にあるものを一つ知っているだけで、人は思っているよりちゃんと持ちこたえられる。
電車が来る。
ドアが開く。
実央は乗り込み、窓へ映る自分を見た。
朝より少しだけ、顔が軽かった。
そのくらいの変化で、今夜は十分だった。