第48話 パリを持ち帰るな
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あらすじ
1907年、ウィーン美術アカデミー受験に失敗した若きアドルフ・ヒトラーは、 絵画の才能ではなく建築的構成力に向いていると指摘される。 史実では、その助言は彼の人生を救うほどの導線にはならなかった。 しかしこの世界では、面談した学長または教授が、彼の水彩画に見える建築物の描写力、正面構成、装飾への執着を見抜き、ウィーン市内の設計事務所や建築装飾工房への紹介状を書く。 「君は画家ではない。少なくとも、人物を描く画家ではない。 だが建物を見る目はある。 絵筆ではなく、定規と図面で食う道を探しなさい」 この一言が、歴史をわずかにずらす。 ヒトラーは政治集会の演壇ではなく、製図台へ向かう。 大衆を煽る言葉ではなく、式典会場の正面構成、店舗内装、建築透視図、仮設壇上、展示空間の意匠で生計を立てていく。 やがて第一次大戦には史実同様に従軍するが、戦後に戻る場所がある。 完全な漂流者ではない。 敗戦と混乱に怒りを抱えながらも、彼は政治運動の中心にはならず、設計と意匠の仕事へ戻る。 そして1920年代、ミュンヘンに小さな事務所を構える。 Adolf Hitler Entwurfsbüro アドルフ・ヒトラー意匠事務所 ここから始まるのは、世界征服ではない。 納期と外注と広告屋と若手所員に振り回される、偏屈な意匠家の職業人生である。
本文
ミュンヘンへ戻ってから、所長室はようやく静かになった。
新事務所に移って以来、ヒトラーはこの部屋に対して、毎日のように何かを言っていた。
机が窓に近すぎる。
応接椅子の背が来客を甘やかす。
棚が高すぎて資料が威張っている。
低い棚に重要書類を置くな、見下ろされる資料と見下ろす資料では意味が違う。
電話の位置が悪い。話している者の顔が横を向く。
灰皿は遠い。いや、近い。いや、そもそも見える場所にあるのが不愉快だ。
来客用なら来客側からだけ見えるようにしろ。
エルゼは最初の一週間で、これは部屋ではなく包囲戦だと判断した。
ユンゲは所長室運用記録を作りかけたが、エルゼに止められた。
「そんなものを作ると、所長が正式規則だと思います」
「すでに思っているような気もします」
「書類にしてはいけません」
その後、机の位置は三度変わり、応接セットは二度向きを変え、棚は一度だけ壁際から引き離され、結局また壁際へ戻された。新聞を置く小卓は、窓からの光が斜めに落ちる場所へ移された。そこに置けば、一面の見出しに影がかからない。そこに落ち着いてから、ヒトラーは何も言わなくなった。
所員たちは、それを満足と呼んだ。
ヒトラーは褒めない。
ただ、文句を言わなくなる。
それが、この事務所で最も確かな承認だった。
七月初めの朝、ユンゲは新聞を抱えて所長室の扉を叩いた。
「入れ」
彼女が扉を開けると、ヒトラーは机の前に座っていた。窓の外には、夏の光が入っている。机の上には、パリ視察の資料束と、ミュンヘン公共視聴室の修正図面が置かれていた。だが、その中央だけは空けられている。
新聞の場所だった。
ユンゲは小卓ではなく、机の右前方へ新聞を置いた。所長が手を伸ばしやすく、窓の光で見出しが読みやすい位置。何日もかけて定まった場所だった。
「今朝の新聞です」
ヒトラーは新聞を受け取り、折り目を確認した。
「よろしい」
ユンゲは、それが新聞に対する最大級の賛辞だと知っていた。
ヒトラーは一面を開いた。最初に見出しを見る。次に写真の位置を見る。それからようやく記事を読み始める。
「パリ臨時大会、公共視聴室計画進む。ドイツ国内主要都市でも準備本格化」
彼は少し鼻を鳴らした。
「本格化、という言葉は便利だ。何も決まっていなくても使える」
ユンゲは記録帳を開いた。
「本格化、語感に関する所長所見」
「それは記録しなくていい」
「では消します」
「消すな。消すなら書くな」
「承知しました」
彼女はそのまま書いた。
ヒトラーは新聞をめくった。国際面に目が止まる。
「バルト三国、親ソ政権の組閣進む。各国で新議会選挙準備」
しばらく黙った。
ユンゲは、所長室の中の空気がわずかに変わるのを感じた。パリから戻って以来、新聞には毎朝、同じ方向の見出しが増えていた。リトアニア、ラトビア、エストニア。追加駐留、人民政府、選挙、加盟請願。言葉だけが、毎日少しずつ柔らかく変わっていく。だが、紙面の奥にあるものは硬くなっていた。
ヒトラーは言った。
「椅子を動かされている」
ユンゲは顔を上げた。
「椅子ですか」
「ソ連は最初、客として入る。次に、椅子を借りる。最後に、部屋の主だと言う」
「記録しますか」
「するな。これは新聞の話だ」
ユンゲは記録帳に目を落とした。
新聞の話。
所長はそう言う。
だが、この事務所では、新聞の話がたびたび椅子の話になり、椅子の話が世界の話になる。
扉が開き、フランツが顔を出した。
「所長、パリ視察の資料ですが、受像機台の側面図をもう一度確認していただきたく」
「後で見る」
フランツは所長の机の上の新聞を見て、少し迷った。
「新聞、少しだけお借りしても」
ヒトラーは目を細めた。
「何を読む」
「公共視聴室の記事を。市側の発表が載っているなら、図面の注記に合わせたくて」
ヒトラーは新聞を畳んで渡した。
「一面を殺すな」
「はい」
「折り目を増やすな」
「はい」
「読むなら開け。覗くな」
「はい」
フランツは両手で新聞を受け取り、まるで図面を扱うように慎重に部屋を出た。
その十数分後、事件は起きた。
フランツが戻した新聞は、机の右前方ではなく、応接机の上に置かれていた。しかも、国際面を外側にして雑に畳まれていた。
ヒトラーは立ち上がった。
「誰が畳んだ」
製図室のほうから、フランツの声がした。
「私です。すみません、急いでいて」
「ニュースの正面が死んでいる」
フランツが慌てて顔を出した。
「新聞の正面ですか」
「一面は入口だ。入口を折るな」
エルゼが帳簿を持って通りかかった。
「新聞は読むものです。展示物ではありません」
ヒトラーは新聞を持ち上げた。
「読むものだから正面が要る」
「請求書には正面も裏面もありますが、支払われれば結構です」
「請求書も宛名を折るな」
「それは同意します」
ユンゲが静かに言った。
「新聞配置について、所長室運用に追記しますか」
エルゼは即答した。
「しなくていいです」
ヒトラーは新聞を正しく畳み直した。
「するべきだ」
「しません」
「なぜだ」
「朝の業務が新聞儀式になります」
ユンゲは、もうなっていると思ったが、口には出さなかった。
新聞騒動が収まると、所長室の机には、別の紙が広げられた。
パリから持ち帰った放送設備の仕様書である。
受像機の寸法、必要な電源、輝度、映像の安定条件、背面の空間、放熱、交換部品、推奨視聴距離。パリの説明会では、図表として眺めていたものが、ミュンヘンに戻ると、急に現実の数字になった。
ヒトラーはその紙を嫌そうに見ていた。
「数字が多すぎる」
フランツが言った。
「仕様書ですから」
「パリへの窓を、仕様書に落とし込むな」
「ですが、窓を作るには寸法が」
「寸法は要る。だが、寸法だけで窓を作るな」
クレープスは製図台で側面図を引いていた。
「所長、受像機台の背面をどう処理しますか。パリの展示模型では覆っていましたが、仕様書では通気が必要とあります」
ヒトラーは即答した。
「背面は見せない」
フランツが困った顔をした。
「見せないのと塞ぐのは違うのでは」
「見せないために塞ぐのだ」
エルゼが帳簿を閉じた。
「塞いで壊れたら、修理費が発生します」
ヒトラーは少し不機嫌になった。
「機械はすぐ金の話になる」
「機械が壊れると請求書になります」
そのとき、受付のベルが鳴った。
ユンゲが出ると、そこにはヘンチェルが立っていた。工具鞄を持っている。帽子を少し上げ、いつものように、用事がある顔と、別の用事を隠している顔を同時にしていた。
「配電盤の確認に来ました」
ユンゲは少しだけ首を傾けた。
「配電盤は昨日も確認されました」
「昨日は昨日の配電盤です」
「一晩で変わりましたか」
「仕様書が増えたと聞きました」
彼女は納得した。
「所長室です」
「配電盤は」
「所長室の先です」
「では、先に所長室を通ります」
ヘンチェルは通された。
エルゼは彼を見るなり言った。
「ヘンチェルさん、今日は何の点検でしょう」
「配電盤です」
「昨日見ました」
「念のためです」
「念のために、なぜ仕様書を見ているのですか」
ヘンチェルは、すでに机の上の資料へ目を落としていた。
「これですか」
エルゼはため息をついた。
「やはり」
ヒトラーは不機嫌そうに言った。
「あなたは所員ではない」
「はい」
「ならば、所員のように資料を読むな」
「では業者として読みます」
「同じだ」
ヘンチェルは仕様書を一枚取り、受像機の背面条件を見た。
「背面空間、最低これだけ必要です。上部にも逃げが要ります」
ヒトラーは腕を組んだ。
「背面は客に見せない」
「熱にも見せません。だから逃げません」
フランツが少し下を向いた。笑わないようにしている。
ヒトラーはヘンチェルをにらんだ。
「これはパリへの窓だ」
「窓なら開けてください」
「開けたら構図が崩れる」
「閉めたら機械が止まります」
部屋が静かになった。
エルゼは帳簿に視線を戻した。ユンゲは記録帳を開いた。フランツは図面筒を持ったまま、二人の間に立つべきかどうか迷っている。
ヒトラーは仕様書を奪うように見た。
「あなた方技術屋は、すぐ窓を部品にする」
ヘンチェルは平然としていた。
「部品です。映らなければ窓ではありません」
「映る前に、見える姿がある」
「映らなくなれば、見えるのは故障です」
ヒトラーは返事をしなかった。
ヘンチェルは、さらに図面を見た。
「受像機台の背面に開口。下から空気を入れて、上から逃がす。側面に点検口。後ろは布で完全に隠さない。暗幕と機器の間は最低これだけ離す。電源線と客の通路は分ける。修理のとき、人が入れる幅を残す」
「客に見える」
「見えないように作ればいいのです」
「それを私が考えている」
「はい。だから言っています」
ヒトラーは顔をしかめた。
「正しいから腹が立つ」
ヘンチェルはうなずいた。
「よくあります」
「あなたに言っているのではない」
「機械にもよくあります」
ユンゲは、ペンを止めた。
この男は本当に強い。
ヒトラーが大声を出しても、ヘンチェルは熱と水と電気のほうを見ている。怒りの向こう側にある配線を見ている。だから、所長の声が届かないのではなく、届いた上で動かない。
シュタイナー親方の木材に似ていた。
木は怒鳴っても乾かない。
電気も演説では流れない。
ヒトラーはついにクレープスへ言った。
「背面に開口を入れろ」
クレープスがすぐ鉛筆を取った。
「大きさは」
ヘンチェルが仕様書を指した。
「最低この数字以上。上部はここ。点検口は側面。工具が入る幅を残してください」
ヒトラーが言った。
「工具のために美観を削るな」
ヘンチェルは答えた。
「工具が入らなければ、あとで斧が入ります」
ブルクドルフが隣の製図台から顔を上げた。
「斧なら俺が」
「黙れ」
ヒトラーが即座に言った。
ブルクドルフは黙った。
クレープスは側面図を書き直した。鉛筆の線が、受像機台の背後に新しい空間を作っていく。見えない場所に、空気の通り道が生まれる。そこは客からは見えない。だが、そこがなければ画面は映らない。
ヒトラーはその線を見ていた。
「醜い」
ヘンチェルは言った。
「必要です」
「必要なものは、しばしば醜い」
エルゼが帳簿の上から言った。
「支払いもそうです」
「支払いはもっと醜い」
「ですが、必要です」
ヒトラーは黙った。
その日の午後、製図室ではパリ視察の資料が広げられていた。
フランツは、パリの視聴室模型で気づいた椅子の角度を、ミュンヘン会場案に落とし込んでいた。ヨードルは工程表を修正し、カイテルは市側への報告書の文面を整えた。ブルクドルフは受像機台の木枠試作について、シュタイナー親方から寸法の確認を受けていた。
ヒトラーは製図台の前に立ち、全体図を見た。
「パリを持ち帰るな」
フランツは顔を上げた。
「はい?」
「パリで見たものを、そのまま持ってくるな。持ち帰るのは、寸法だ。光の角度だ。失敗だ。空気の流れだ。パリそのものを箱に入れるな」
ユンゲは記録した。
「パリそのものを箱に入れるな」
ゲッベルスが、午後遅くに顔を出した。広告案の打ち合わせと言いながら、実際にはパリ視察後の評判を聞きに来たのだった。
「しかし、“パリをミュンヘンへ”という文句は強いですよ」
ヒトラーはすぐに言った。
「だから悪い」
「強いのにですか」
「強い嘘は弱い真実より人を動かす。そこが悪い」
ゲッベルスは嬉しそうにした。
「今のはいただきたい」
「やらん」
エルゼが言った。
「広告文案の使用料を取るなら、話は別です」
ゲッベルスが笑った。
「エルゼさんは一番現実的ですね」
「現実は請求できます」
ヒトラーは図面に戻った。
「ミュンヘンに作るのは、ミュンヘンの視聴室だ。パリを真似るのではない。パリを見る窓を作る」
ヘンチェルが、まだ仕様書を読んでいた。
「その窓は、後ろから熱を逃がします」
ヒトラーは振り返った。
「まだいたのか」
「配電盤の確認が」
「配電盤は見たのか」
「これからです」
エルゼが厳しい目を向けた。
「順序が逆です」
ヘンチェルは仕様書を丁寧に置いた。
「仕様書が先です。配電盤は逃げません」
ヒトラーが言った。
「新聞の正面は死ぬのに、配電盤は逃げないのか」
「配電盤は畳めません」
フランツは、とうとう笑ってしまった。
夕方には、受像機台の図面は大きく変わっていた。
正面は、ヒトラーの望んだとおり簡潔に整えられている。余計な装飾はない。画面を大きく見せすぎず、小さくも見せない額縁。下部には競技日程を差し替えられる細い板。左右には、暗幕とのつながりを邪魔しない控えめな縦線。
だが、背面には開口があった。
側面には点検口があった。
見えないところに、ヘンチェルの線が入っていた。
ヒトラーは腕を組んでそれを見た。
「窓の後ろに穴を開けるとは」
ヘンチェルは工具鞄を持ち上げた。
「窓の後ろには部屋があります」
「詩のつもりか」
「点検口の話です」
ユンゲは記録した。
「窓の後ろには部屋がある。ヘンチェル氏発言。点検口の説明」
「それは記録するな」
ヒトラーとヘンチェルが同時に言った。
ユンゲは少しだけ笑った。
所長室へ戻ると、朝の新聞は机の右前方に正しく畳み直されていた。
一面には、パリ臨時大会の準備記事。
国際面には、バルト三国とソ連の記事。
別の欄には、ルーマニア政府がベッサラビアと北ブコヴィナをめぐるモスクワ要求に苦慮しているという短い見出しがあった。
ヒトラーはそれを見た。
「今度は、道の先の部屋か」
ユンゲは何も言わなかった。
彼は新聞を閉じ、図面の上に手を置いた。
外の世界は、紙面の上で線を動かしている。
事務所の中では、窓の後ろに空気の逃げ道が描き足されている。
どちらも線だった。
だが、片方は人を閉じ込め、片方は機械を壊さないための線だった。
ユンゲは記録帳を開き、最後に短く書いた。
「パリを持ち帰らず、ミュンヘン用に修正」
ヒトラーはその文字を横目で見た。
「よろしい」
その日、所長室は静かだった。
新聞も、図面も、ようやくそれぞれの正面を取り戻していた。