遅れて届く本音

小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品

📅 公開日: 2026/7/12 📚 シリーズ: ちゃんと戻る、っていう希望 📝 4,285文字 🤖 AI創作支援作品 ✅ 全年齢

あらすじ

主人公の「俺」と同居恋人の千紗が、毎日のモヤモヤや刺さった気持ちを、合言葉と小さな合図で、暗くならないようにほどいていく連作です。 仕事の失敗、待たされる焦れ、二択の迷い、理不尽、家族の距離、言えない「好き」みたいな“よくあるけど地味に重い”出来事を、会話と行動でちょっとずつ整えて、最後はちゃんと前に進める形にしていく、生活系の短編つながり。

本文

「いまさら好きだと伝えちゃダメかな」

その一文を、私は三回打って、三回消した。

送信ボタンの青さが、深夜のコンビニくらい明るくて、こっちの弱さが全部照らされる。

ダメかどうかは相手が決める。

分かってる。分かってるのに、聞き方がずるい。ダメと言われたときに、先に自分で転べるから。

私の“安全な転び方”は、人生のあちこちに転がっている。

画面を閉じて、私はテーブルの上の紙袋を見た。

本。二冊。

返しそびれたまま、ずっと持っていた本。

返しそびれた理由は、単純で、情けなくて、でも正直だ。

返したら、終わってしまう気がした。

私はコートを羽織って、鍵を掴んだ。

時計は二十時前。深夜じゃない。まだ、言い訳できる時間だ。

言い訳できる時間って、実は一番危ない。人は自分に優しい嘘をつけるから。

でも今日は、嘘より先に歩く。

駅前の小さな書店は、商店街の端にある。ガラス扉に貼られた「新刊入荷」の文字が、昔と同じ筆跡で、私はそれだけで胸がきゅっとなった。

私がここを知っているのは、彼がここで働いているから。

働いて“いた”から、じゃない。働いている。噂で聞いた。偶然見かけた。そういう情報の持ち方も、我ながら未練がましい。

扉を押すと、鈴が鳴った。

チリン。

音が軽い。軽いのに、心臓は重い。

「いらっしゃいませー」

奥から声がして、私は一瞬で確信した。

声は、変わっていない。

変わっていないのに、私のほうが変わってしまったから、懐かしさが痛い。

レジの前に立って、私は紙袋を握り直す。

彼が顔を上げる。

……いた。

髪が少し短い。メガネが新しい。指先が前より少し硬そう。

でも、目が同じだ。誰かを落ち着かせるための目。

その目が私を捉えた瞬間、彼の表情が一拍遅れて止まった。

「……え」

その「え」は、びっくりの「え」で、嬉しさの「え」ではなくて、困惑の「え」だった。

困惑は、拒絶じゃない。

そう分かっているのに、胸がひゅっと縮む。

「……久しぶり」

私は言った。

久しぶりが言えただけで、今日の私、えらい。いや、えらいって言うな。そうやって自分を褒めて逃げるな。

彼はすぐに仕事の顔を取り戻した。取り戻せるのがプロだし、取り戻すのが彼の優しさだ。

「久しぶり。……どうしたの」

どうしたの。

それは、「なぜ今ここに?」と同義だ。

私は紙袋をそっとレジ台に置いた。

「本、返しに」

彼は紙袋を見て、少し目を見開く。

「……え、これ」

「うん。借りたまま、返してなくて」

彼は紙袋から本を取り出した。

一冊目。

表紙が少し擦れている。

二冊目。

付箋が挟まったままだ。あの頃の私が貼ったやつだ。最悪。証拠残しすぎ。

彼は付箋を見て、苦笑した。

「まだ貼ってある」

「……剥がすの忘れてた」

「忘れてないでしょ」

即答。

彼の即答が、昔と同じテンポで、私の胸の奥を軽く叩いた。

責める即答じゃない。分かってる即答だ。

「返却期限、とっくに過ぎてるよ」

「……ごめん」

「罰金取るよ」

冗談だった。

冗談の形をして、空気を和らげる彼の癖。

私はその癖に、昔も今も助けられてしまう。

「いくら」

「うーん」

彼はわざとらしく計算する顔をして、それから少しだけ真面目な目になった。

「……元気だった?」

元気。

私はその質問が苦手だ。

元気って答えると嘘になる。元気じゃないって答えると重くなる。

どっちも、今の私には怖い。

だから私は、別の真実を出した。

「元気にしてる“ふり”は、上手くなった」

彼が小さく息を吐いて、笑った。

その笑いが、軽くない。軽くないのに、やさしい。

「それは、上手くならなくてよかったのに」

その一言で、私は喉の奥が熱くなった。

言えなかった言葉が、またここに引っかかる。

私は本を返しに来たのに、言葉の未返却まで持ってきてしまった。

店内には他のお客さんもいる。

棚の間を歩く音。ページをめくる音。

世界は普通に回っているのに、私だけが立ち止まっている。

彼が小声で言った。

「……閉店まで、あと十分。よかったら、外で話す?」

外で話す。

その提案は、やさしい。

そして怖い。

外に出たら、逃げ場が減る。

でも、逃げ場が減るからこそ、言えることがある。

「……うん」

私が頷くと、彼はレジ横の札を「準備中」にひっくり返した。

その動作が、儀式みたいだった。

“ここから先は、仕事じゃない”の合図。

店の裏口から出ると、夜風が冷たかった。

商店街の明かりが、妙に温かい。

彼は鍵を閉めて、私の隣に立つ。距離は半歩分。近くない。遠くない。

昔の私たちが、いちばん得意だった距離。

「……本、ほんとに返しに来ただけ?」

彼が聞いた。

声が穏やかなのに、問いが鋭い。

彼は、私の逃げ方を知っている。

私は笑いそうになって、やめた。

笑って誤魔化したら、今日が台無しになる。

私は、スマホの未送信を思い出す。

「……本は、口実」

言えた。

言えたけど、まだ核心じゃない。

核心に触れるには、もう一段階、呼吸が要る。

私は紙袋の持ち手を握り直して、言った。

「いまさら、会ってもいいかなって思って」

「いまさらって、言うんだ」

「言うよ。だって、いまさらだもん」

「……そうだね」

彼の「そうだね」は、同意じゃない。

現実の確認だ。

私はその確認に、少しだけ救われた。現実を共有できるなら、話せる。

商店街の端に、小さなベンチがある。

昔、私たちがアイスを食べた場所。

私はそこに座って、紙袋を膝に置いた。彼も隣に座った。

ベンチの木が少し軋む。私の胸も少し軋む。

「……あのとき」

私は言い出して、止めた。

“あのとき”は便利すぎる。全部を一言でまとめてしまう。

まとめると、肝心のところが逃げる。

彼は黙って待った。

待ち方が、昔と同じだ。

私が言葉を探すのを、急かさない。

急かさない優しさは、時々残酷だ。言わざるを得なくなるから。

「別れたとき、私、ちゃんと話せなかった」

私は言った。

「忙しいとか、疲れたとか、合わないとか。そういう言葉だけ並べて、肝心のこと言わなかった」

「肝心のこと?」

彼が静かに聞く。

私は、息を吸って、吐いた。

喉の奥の未送信を、取り出す。

「……好きだった」

言った瞬間、私は自分の声が小さすぎて笑いそうになった。

でも笑わない。今日は笑って逃げない。

「好きだったよ。ずっと。

好きなのに、好きって言うのが怖くて、嫌いみたいに振る舞った。

好きって言ったら、欲しくなるから」

彼が少しだけ目を伏せた。

その仕草は、痛みの仕草だ。

「欲しくなるの、悪いこと?」

「悪くない。……でも怖い」

「何が怖いの」

私は正直に言った。

「好きって言って、もし軽く受け取られたらって思うと、耐えられない。

だから先に、強いふりをした。

強いふりをして、先に離れた」

彼はしばらく黙って、夜の空気を吸った。

吐いた息が白くなる。

白い息は、言葉になり損ねた気持ちみたいだ。

「……今は?」

彼が聞いた。

今。

その問いが、過去よりずっと怖い。

私は膝の上の紙袋を見た。

本。返却期限の過ぎた本。

期限が過ぎても返せるなら、言葉も返せるんじゃないか。

そう思った。

「今も、好きかもしれない」

言ってしまった。

言ってしまったから、心臓が暴れる。

でも、暴れているのに、どこか呼吸がしやすい。

隠してないからだ。

「……いまさら、好きだって伝えちゃダメかな」

私は、とうとう口で言った。

スマホじゃなく、空気に送った。

送信ボタンは押せない代わりに、戻るボタンもない。

彼は、驚いた顔をして、それから苦く笑った。

「ダメって言ったら?」

「……泣く。たぶん。帰ってから」

「帰ってから泣くんだ」

「外では泣かない。まだ、そういう意地がある」

彼が小さく笑った。

その笑いが、私をからかう笑いじゃなく、愛おしがる笑いに見えて、胸の奥が熱くなる。

「ダメじゃないよ」

彼が言った。

その言葉が、ベンチの木の軋みよりも静かに落ちた。

静かなのに、世界が少し明るくなった気がした。

「……ダメじゃないけど」

彼は続けた。

“けど”が来る。私は身構える。

「今さら、って言葉で守りながら言うのは、ずるい」

図星。

私は思わず、顔を覆った。

「……ごめん」

「謝るな。直せ」

彼が即答した。

即答が、いつもより少し強い。

強いのに、やさしい。

私の逃げ道を、ちゃんと閉じてくれる強さだ。

私は手を下ろして、彼を見た。

「じゃあ……」

喉が鳴る。

怖い。

でも、言い直したい。

言い直すのが、今日の私の勝ち方だ。

「好きです」

敬語になってしまって、私らしくて、情けなくて、でも本物だった。

彼は目を丸くして、吹き出した。

「敬語、ずるい」

「ずるくない。緊張するとこうなる」

「じゃあ俺も」

彼は、少しだけ姿勢を正して、真面目な声を作った。

「……好きです」

私たちは同時に笑った。

笑っても、これは逃げの笑いじゃない。

照れの笑いだ。

照れは、ちゃんと届いた証拠だ。

彼は笑い終わってから、少しだけ真面目な顔に戻った。

「で、どうする?」

「……どうするって?」

「今さら好きって言って、終わり? それとも、続きがある?」

続き。

その言葉は、未来の匂いがする。

未来は怖い。

でも、怖いからって捨てるのは、もう飽きた。

私は紙袋の中の本を、軽く叩いた。

「まず、本は返した」

「うん」

「次に、言葉も返した」

「うん」

「……その次は、また借りてもいい?」

彼が一拍置いて、笑った。

「借りるって言い方」

「だって、いきなり“付き合ってください”は無理」

「じゃあ、貸し出し条件を提示します」

「なにそれ」

彼は指を折る。

「一、逃げるときは合言葉を言う。

二、勝手に我慢しない。

三、言いたいことは、期限切れにしない」

期限切れにしない。

私はその条件が、胸に優しく刺さった。

「合言葉って何」

私が聞くと、彼は少し考えてから言った。

「……『一旦、紅茶飲む』とか?」

私は思わず声を出して笑った。

この街の人たちは、紅茶で人生を回しがちなのか。

「それ、便利すぎる」

「便利は、愛の言葉」

彼が言い切る。

私は頷く。

便利が愛の言葉なら、私たちはわりとやっていける気がした。

商店街の明かりが、少しずつ消えていく。

夜が深くなる前に、私たちは立ち上がった。

帰る道は別々。手も繋がない。

でも、さっきより距離が近い。半歩が、四分の一歩になった感じ。

「……ねえ」

別れ際、私が言った。

「今さら、って言わない練習、する」

「うん」

「今さらじゃなくて、今、って言う」

彼は、静かに頷いた。

「今、って言えるなら、たぶん大丈夫」

私は駅へ向かって歩きながら、スマホを取り出した。

未送信のメッセージ画面を開く。

あの一文は、もう必要ない。

代わりに、短く打った。

『今日はありがとう。好きって言えてよかった。今度、紅茶飲もう』

送信。

青いボタンは、もう怖くない。

怖いのは、言葉じゃなくて、言葉の先にある“今”だ。

でも、その“今”を、私は少しだけ好きになれそうだった。

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