気持ちは予報できない

小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品

📅 公開日: 2026/7/13 📚 シリーズ: ちゃんと戻る、っていう希望 📝 3,791文字 🤖 AI創作支援作品 ✅ 全年齢

あらすじ

主人公の「俺」と同居恋人の千紗が、毎日のモヤモヤや刺さった気持ちを、合言葉と小さな合図で、暗くならないようにほどいていく連作です。 仕事の失敗、待たされる焦れ、二択の迷い、理不尽、家族の距離、言えない「好き」みたいな“よくあるけど地味に重い”出来事を、会話と行動でちょっとずつ整えて、最後はちゃんと前に進める形にしていく、生活系の短編つながり。

本文

朝六時五十分、スタジオの赤いランプが点く前に、私は今日の空を一回だけ疑う。

窓の外は薄い雲。だけど風が妙に軽い。こういう日は、予報が当たっても外れる。外れても当たる。つまり、どっちに転んでも「ほらね」って顔ができる。

できるけど、そういう顔をする人間はだいたい信用を失う。だから私は、真面目な顔を作って原稿を握りしめた。

「本日の天気。午前中は雲が優勢、午後は…」

口に出す前に、原稿の余白に小さく書いてあるメモが目に入る。

※言い切らない

※“念のため”を添える

※外れたら笑う(ただし笑いすぎない)

これ、天気のための注意書きじゃない。

私の生活のための注意書きだ。

私は地方ラジオ局の新人で、配属は制作。普段は音を切ったり繋いだりする裏方だ。なのに今日は、朝番組の天気コーナーに立っている。理由は単純。担当が寝坊した。

「おはようございます、臨時の空係です」

ディレクターの佐久間さんがイヤホン越しに小声で笑う。

笑うな。空係って何。

でも笑っている場合じゃないのも分かる。ランプが点く。私の心臓も点く。

『それでは、今日の空の様子をお伝えします』

パーソナリティの声が入る。

そして私の番。

「おはようございます。空は、いま少し迷っています」

言ってしまった。

いきなり詩人みたいなことを。

佐久間さんが咳払いで笑いを隠しているのが分かる。終わった。社会人として終わった。いや、まだ始まってない。

「ええと、気温は昨日より少し高めです。風があるので体感はひんやり。上着は…念のため、持って出てください。雨は、降っても一時的。傘を持つなら折りたたみが良さそうです」

ちゃんとしたことを言うと、ちゃんと息ができる。

天気は数字で助けてくれる。気持ちは数字で助けてくれないのに。

コーナーが終わって赤いランプが消えると、膝が遅れて震えた。スタジオの椅子に座って、私はやっと笑った。

外れたら笑う、の“笑う”ってこういうことかもしれない。自分の情けなさに笑う。

「意外といけるじゃん」

佐久間さんが紙コップのコーヒーを置いてくれる。

「いけてないです、今の“空が迷っています”は完全に事故です」

「事故ってほどじゃない。朝は事故くらいがちょうどいい。みんな眠いし」

その言い方が優しくて、私は少しだけ救われた。

救われたとき、人はつい余計なことを言う。

「……気持ちも予報できたらいいのに」

「誰の?」

佐久間さんの目が、鋭い。空じゃなくて私を見ている。

私はコーヒーの紙コップを両手で包んで、湯気に逃げた。

「……同居人の」

答えると、佐久間さんは「あー」と納得する顔をした。

「昨日、やらかした?」

「やらかしました。正確に言うと、やらかして“そのまま寝ました”】【

昨日の夜、私は家で、たった一言を言えなかった。

――ごめん。

それだけなのに、口の中で何度もつっかえて、喉の奥で固まって、結局「疲れてるから」と言い訳して布団にもぐった。

言えない言葉は、寝ても消えない。むしろ増える。夢の中でまで未送信が鳴る。

同居人の千紗は、怒鳴らない。

怒鳴らないから怖い。

怒鳴らない人は、ちゃんと距離を取れるから。

今朝も、家を出る前の千紗は静かだった。

「行ってきます」

「いってらっしゃい」

それだけ。

傘立てに新しい折りたたみ傘が一本増えていた。たぶん、私が忘れがちなことを見越して。

優しさが、針みたいに胸に刺さった。

「予報、出してみたら? 千紗さんの」

佐久間さんが、ふざけるみたいに言う。

「無理ですよ」

「真面目に。例えばさ。『今朝の千紗さんの機嫌は、曇りのち…』みたいな」

私は笑ってしまった。

笑いながら、少しだけ真面目になる。

「曇りです。たぶん、ところにより雷」

「雷はあなたのほうでしょ」

図星だ。私は自分で自分に雷を落としている。

仕事のミス。言えなかった言葉。気まずい朝。全部が胸の中でピカピカしている。

「じゃあ、今日はどうする」

佐久間さんが言う。いつもの仕事の声だ。段取りの声。

「……帰ったら、ちゃんと謝ります」

「ちゃんとって?」

「言い切ります。『ごめん』って」

「それが予報?」

「予報じゃなくて……観測」

佐久間さんが頷いた。

観測は、当てることより大事だ。今どんな空かを見ること。今どんな顔かを見ること。怖くても。

午前の編集を終えて、昼休憩。私は局の屋上に上がった。

空は、まだ迷っている。雲が薄くて、光が柔らかい。予報アプリは“曇り時々晴れ”と出している。便利な言い方だ。どっちも言っておけば負けない言い方。

でも私は今日、負けない言い方をやめたい。

負けたっていいから、ちゃんと言いたい。

ポケットのスマホを取り出して、千紗にメッセージを打った。

『今日、少し早く帰れる。夜、話したい。傘いる?』

最後の「傘いる?」は、逃げだ。

話したいのに天気の話で誤魔化している。

私はその一文を消して、書き直した。

『今日、少し早く帰れる。昨日のこと、ちゃんと謝りたい』

送信。

青いボタンが押せた。

胸の奥が少しだけ軽くなる。空気が入る。

数分後、返事が来た。

『了解。こっちは大丈夫。帰り、気をつけて』

大丈夫。

その言葉の中身は、まだ分からない。

でも“返事が来た”という事実が、私の背中を押す。背中を押すのは、予報じゃなくて観測だ。

夕方、私は珍しく定時で退社した。

駅前の空は、薄い夕焼け。雲の縁が金色に光っている。

折りたたみ傘はバッグに入っている。念のため、のやつ。

私はそれを握りしめながら歩いた。傘は雨だけじゃなく、言葉の逃げ場所にもなる。差せば顔が隠れる。

今日は差さない。

家の鍵を回す。

カチッ。

その音が、朝の赤いランプみたいに聞こえた。

始まる。ここから。

「ただいま」

返事はすぐに来ない。

リビングの奥から、鍋の音がする。

匂いはいつものスープ。安心する匂い。安心すると、また言えなくなりそうで、私は靴を揃える手を止めた。

千紗がキッチンから顔を出す。エプロン。髪をまとめてる。目は、曇り。たしかに曇り。

「おかえり」

「……ただいま」

私はリビングの真ん中に立った。逃げないために。椅子に座ると、座ったまま逃げたくなるから。

「千紗、昨日のこと」

千紗が手を止める。鍋の音が小さくなる。

「うん」

「……ごめん」

言い切った。

言い切った瞬間、喉の奥の固まりがひとつ溶けた気がした。

千紗の表情は変わらない。曇りのまま。

でも、曇りは雨じゃない。

「何がごめん?」

千紗が聞く。逃げ道を塞ぐ質問。

私は観測を続ける。

「疲れてるって言って、話すのを避けた。避けたまま寝た。

本当は、言うことがあったのに」

「言うこと?」

私は息を吸って、吐いて、言った。

「私、昨日、あなたが作ってくれたご飯、ちゃんと美味しかった。

美味しかったのに、仕事でイライラして、感想を雑にした。

そのあと、あなたの顔が曇ったのが分かったのに、見ないふりした」

千紗が瞬きをする。

少しだけ、目の曇りが動いた。

「……そこ、見てたんだ」

「見てた。見てたのに、言えなかった」

千紗が小さく息を吐く。

雷じゃない。風が抜ける音。

「じゃあ、今日の予報は?」

千紗が言った。

予報、という言葉に、私は思わず笑いそうになって、でも笑いすぎない。

「今日の予報は、夜にかけて回復傾向。

ただし、ところにより……涙」

「ところによりって便利だね」

「便利なのは、天気までにしておく」

千紗が口の端だけで笑った。

ほんの少しの晴れ間。

それが見えた瞬間、胸の奥が温かくなった。温かいと、また言える。

「あと」

私は続けた。

「朝、傘を増やしてくれたでしょ。ありがとう。

私、忘れるから。忘れるのに、忘れたって言えない。

だから、こういうとき…一旦、紅茶でも飲めばよかった」

千紗が、鍋の火を弱めながら言う。

「あなたの局、最近紅茶推し?」

「たまたまです。偶然です」

「偶然で人生回せるなら、私も偶然に乗る」

千紗がカップを二つ出した。

紅茶じゃなくて、スープの前に白湯。

湯気が上がる。湯気は、結論を薄める。

「座って。話すなら、まず飲んで」

私は頷いて、椅子に座った。

逃げるためじゃない。ちゃんと居るために。

白湯を一口飲む。

喉がほどける。

ほどけると、言葉が出る。

「今日さ、朝のラジオで天気やった」

「え、あなたが?」

「臨時の空係」

「空係って何」

千紗が笑った。ちゃんと笑った。

晴れ。

私は、その笑いを観測して、心の中で小さく報告する。

――回復、確認。

「で、どうだった?」

「空が迷ってるとか言って事故った」

「あなたらしい」

「褒めてないでしょ」

「褒めてない。でも、嫌いじゃない」

その言い方が、千紗らしい。

私は、胸がぎゅっとなる。ぎゅっとなるけど、苦しくない。

ぎゅっとなるのは、ちゃんと届いた証拠だ。

窓の外で、雲の切れ間から光が落ちた。

一瞬だけ、部屋が明るくなる。

天気は予報できても、気持ちは予報できない。

でも、観測はできる。言葉を出せば、相手の表情が変わる。変わらなくても、変わらないを共有できる。

私は千紗のカップを見て、言った。

「今日の私の予報、最後にひとつ」

「なに」

「夜にかけて、あなたのことをちゃんと見る。

外れたら……」

「外れたら?」

私は少し考えて、言った。

「そのときは、一旦、紅茶飲む」

千紗が吹き出した。

「便利すぎるでしょ、それ」

「便利は、愛の言葉らしい」

「誰情報」

「局情報です」

笑い声が、鍋のふたの内側に反射して、部屋に広がった。

空はまだ迷っている。雲は完全には晴れていない。

でも、傘を差すほどじゃない。

今日の天気は、たぶんそんな感じで十分だった。

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