別れを“終わり”にしない言い方
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
主人公の「俺」と同居恋人の千紗が、毎日のモヤモヤや刺さった気持ちを、合言葉と小さな合図で、暗くならないようにほどいていく連作です。 仕事の失敗、待たされる焦れ、二択の迷い、理不尽、家族の距離、言えない「好き」みたいな“よくあるけど地味に重い”出来事を、会話と行動でちょっとずつ整えて、最後はちゃんと前に進める形にしていく、生活系の短編つながり。
本文
別れの言葉って、軽い方が難しい。
「さようなら」より、「またね」より、
「それじゃあバイバイ」は、手のひらで押し返せる分だけ、心の奥に残る。
その日の夕方、俺は駅前のベンチでコーヒーを握りしめていた。
待ち合わせは、母。
“夕方なら”の約束で会うことになっていた。
昨日の焦れが、今日は別の形で胸にいる。焦れじゃない。緊張だ。
改札から出てきた母は、思ったより小さかった。
いや、母が小さくなったんじゃない。俺が勝手に、昔のサイズで覚えてただけだ。
「久しぶり」
母の声は、相変わらず短い。
短いのに、体温がある。
俺は返事を探して、ちょっと遅れて言った。
「久しぶり。……元気?」
「まあね。あなたは」
質問を返されると、逃げ道が塞がる。
でも今日は塞がない。スリットで通す日だ。
「元気……って言うと雑だな。忙しいけど、ちゃんと寝てる」
「ちゃんと寝なさい」
母は、やっぱり母だった。
その一言が、懐かしくて、少し刺さる。
刺さるけど、痛いだけじゃない。
“守り方”の癖が、まだ残ってる。
駅前の小さな喫茶店に入った。
席に座ると、母はメニューを見ずにホットを頼んだ。
俺も同じにした。合わせたくなった。
「……話したいって、姉ちゃんから聞いた」
「うん」
母はカップの縁を指でなぞりながら言う。
その指が、ほんの少し乾いて見えた。
ささくれの匂いがした。生活の棘。
「何を話すの」
「何でもない」
出た。
母の「何でもない」。
姉が嫌がる黙り方の入口。
俺の胸の奥に、「そりゃないぜ」が芽を出しかけた。
(凹凸)
心の中で手すりを掴む。
千紗の声が脳内に来る。
“『何でもない』の横に別の質問を置け”。
「……今日、何食べた?」
「え?」
母が一瞬、顔を上げた。
その反応だけで、俺は半分成功した気がした。
生活の質問は、妙に強い。
「何食べた。昼」
「……うどん」
「うどん。いいね。あったかい?」
「普通。ぬるい」
ぬるい、の言い方が少しだけ笑えた。
母が笑わせようとしてないところが、余計に。
「ぬるいうどん、悲しいな」
「悲しいね」
母が小さく笑った。
笑った、だけで、喫茶店の空気が少し動く。
空気が動くと、話が通る。
「母、さ」
「うん」
「“何でもない”って言うとき、だいたい何かあるよね」
「……ある」
認めた。
母が認めるときって、決まって声が小さくなる。
小さい声は、受信機じゃないと拾えない。
「姉ちゃんには、言いにくい?」
「言いにくいっていうか……面倒かけるのが嫌」
「面倒、って言い方は刺さる」
「じゃあ……心配させたくない」
母の言い換えが、ちょっとだけ柔らかい。
俺はそれを拾って、返す。
「心配は、するよ。でも、心配のままでも生きられる」
「あなた、変なこと言うね」
「千紗の影響」
言ったら、母は「そう」とだけ言って、カップを持ち上げた。
湯気が揺れる。
その揺れが、母の気持ちの揺れみたいに見えて、俺は目を逸らさずに見た。
「……母、体調どう」
「まあまあ」
「まあまあ、の内訳が知りたい」
「……最近、階段がね」
階段。
たった三文字で、生活の重さが見える。
俺の胸の奥に、焦れが戻ってきた。
でも焦れは敵じゃない。間を持つ。
「膝?」
「膝じゃない。息」
「息……」
「上がるのが早い」
母は言って、すぐに視線を落とした。
恥ずかしいんだと思う。Nobilityの恥ずかしさ。
弱さを見せるのが、照れるタイプの。
「病院、行った?」
「行ってない」
「……そりゃないぜ」
口から出た。
思ったより自然に。
母が目を丸くした。
「なにそれ」
「最近、うちで流行ってる。理不尽に対して言うやつ」
「理不尽?」
「母が自分の体を後回しにするの、理不尽」
言ってから、言い方の角を自分で感じた。
でも、母は怒らなかった。
その代わり、少しだけ眉を寄せた。
「……あなたに面倒かけたくないって言った」
「面倒じゃない。順番」
「順番?」
「母が先。俺たちは後。今日は、その順番を守る話」
言い切ると、母の手がカップの取っ手を強く握った。
その握り方が、ささくれみたいに小さな抵抗だ。
「……じゃあ、どうすればいい」
「まず、予約取る。俺が一緒に行く日、作る。夕方なら、作れる」
「あなた、忙しいんじゃないの」
「忙しいけど、線を引く。ここは生活側」
母は黙った。
黙り方が、姉が嫌がる黙り方とは少し違った。
これは、考えてる黙り方だ。
「……分かった。考える」
「“考える”は保留?」
「うん。保留。でも、ゼロじゃない」
俺はほっとした。
ゼロじゃない。
スリットが通ってる。
時計を見ると、もういい時間だった。
母はカップの底を見て、立ち上がる。
「じゃあ、そろそろ」
「うん」
店を出て、駅まで歩く。
母の歩幅は小さい。
でも今日は、俺が合わせる。でか歩じゃなく、待ち歩。
改札の前で、母が振り返った。
いつもなら「じゃ」と言って終わるところで、母は少しだけ口を開いた。
「……姉には、言わないで」
「言わない。母が言う」
「うん」
母が頷いた。
その頷きが、今日の一番大きな一歩だった。
そして、母は言った。
「それじゃあ……バイバイ」
言い方が、軽い。
軽いのに、こっちの胸に残る。
押し返せる分だけ、手のひらに熱が残る。
俺も同じ言葉を返した。
「それじゃあ、バイバイ」
母は改札を通って、振り向かずに歩いていった。
背中が小さい。
小さい背中は、守りたい気持ちを呼ぶ。
でも守るのは、抱え込むことじゃない。順番を守ることだ。
帰宅すると、千紗が玄関で俺の顔を見た。
湯気の匂いがして、白湯が待っていた。
「おかえり。どうだった」
「短く、通せた」
「スリット?」
「スリット。『何でもない』の横に『何食べた』置いた」
「えらい」
「褒めると恥ずかしい」
「恥ずかしいのは材料」
千紗がいつもの文句を言って、少し笑った。
俺は棚の鈴を手に取った。
鳴らす前に言う。
「……さぁ」
ちりん。
音が、今日の別れに丸い印をつける。
終わりじゃない印。
「ねえ」
「ん」
「“それじゃあバイバイ”って、いいね」
「終わらせない別れだから」
「終わらせない、か」
「うん。続きがある前提の言い方」
俺は白湯を飲んで、息を吐いた。
別れは寂しい。
でも、終わりにしない言い方があるなら、寂しさは“間”になる。
明日、母に病院の予約の話をもう一度する。
そのときも、重くしすぎず、軽くしすぎず。
押し返せる手のひらの距離で。
「凹凸」
「凹凸」
合言葉を交わして、俺は母の背中を思い出した。
小さい背中に向けて、心の中でだけ言う。
(それじゃあ、またね)