次の小さな一歩の向こう
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
主人公の「俺」と同居恋人の千紗が、毎日のモヤモヤや刺さった気持ちを、合言葉と小さな合図で、暗くならないようにほどいていく連作です。 仕事の失敗、待たされる焦れ、二択の迷い、理不尽、家族の距離、言えない「好き」みたいな“よくあるけど地味に重い”出来事を、会話と行動でちょっとずつ整えて、最後はちゃんと前に進める形にしていく、生活系の短編つながり。
本文
「その先にあるものってさ」
千紗がそう言ったのは、冷蔵庫を閉めた音の直後だった。
朝の台所は、生活の音が主役だ。白湯の湯気、トーストの焼ける匂い、アンが椅子の脚に頬をこすりつける音。椅子。第三の動き。
「その先?」
僕は白湯を飲みながら聞き返した。
「うん。その先」
千紗はマグを両手で包んで、窓の方を見た。曇ってるのに、眩しい顔をしている。
「あなた、最近“その先”を見ようとすると固まるでしょ」
「固まるって言い方、冷凍庫みたいだな」
「冷凍は保存だから悪くないけど、今日は解凍したい」
千紗が言って、鍵の鈴をちん、と鳴らした。
「さぁ」
さぁ。
背中を押す合図。刃物じゃない武器。
僕はつい笑ってしまった。朝から「さぁ」って、元気すぎる号令に聞こえるのに、千紗の「さぁ」はいつも“軽く押す”だけだ。段付きスイッチの20くらい。
アンが椅子に飛び乗り、僕の皿の近くで香りだけ嗅いで去った。猫は本当にスイッチが滑らかだ。食べると決めないまま嗅いで、去れる。ゼロか百かじゃない。
「で、何の“その先”」
僕が訊くと、千紗は少しだけ口角を上げた。
「今日の予定の先」
「今日の予定は…洗濯と、買い物と、僕の中火タイム?」
「そう。それをやった“その先”」
「……何があるの」
「あるか分からないやつ」
千紗はさらっと言ってのけた。
「分からないやつを、分からないまま触る日」
胸の奥で、ちいさく「チッ」が鳴った。
舌打ちじゃない、ブザー。
“分からない先”って言葉は、僕の中ではすぐ大会のスタートラインになる。よーい、の空気。そこから百まで走れないといけない気がして、固まる。
チッ=ブザー→凹凸→一手。
凹凸。刺さったときの手すり。
「来た?」
千紗が僕の顔を見て言う。受信機が優秀すぎる。
「……来た。先って言われた瞬間、チッ」
「凹凸」
「凹凸」
合言葉を返すと、胸の中に手すりが生える。
凸は、「やりたい気持ち」。
凹は、「失敗が怖い」。
どっちも本物で、どっちも僕だ。
「一手」
千紗が言った。
「“その先”を、手袋で触る」
「手袋?」
「うん。直接触ると熱いでしょ。守りながら触る」
千紗は引き出しから、薄手の軍手を一組出してきた。なぜある。
「ほら」
「家庭に軍手があるの、現実通りすぎる」
「現実通りは強い」
千紗は真面目な顔で頷く。
「今日は“手袋の日”。触れないで守る。触れるけど守る」
僕は軍手を受け取った。布の匂いがする。洗剤の匂いと、ちょっとだけ外の匂い。
それだけで、未来が“生活の延長”に見える。大会じゃない。家の匂いだ。
「じゃ、何を触るの」
「その先の“形”」
千紗はテーブルに紙を置き、一本線を引いた。線。
その線に小さな切れ目を入れる。スリット。
「線は境界。スリットは通気口。完全に閉めない。ゼロか百かにしない」
「また運用だ」
「運用があなたを救う」
千紗は線の左に「今日」、右に「その先」と書いた。
さらに右側を三つに区切って、丸を三つ描く。
「その先は三つまで」
「三つ」
「三つがちょうどいい。多いと怖い。少ないと重い」
「たしかに…」
アンが椅子の上で丸くなって、目だけこちらを見ている。裁判官みたいな顔だ。
でも猫の判決はいつも「寝る」。それがいい。
「内なる五人、呼ぶ?」
千紗が聞く。
こういう時は呼んだ方が早い。頭の中の会議が勝手に始まるから。
「白湯:落ち着け」
「紅茶:礼儀を忘れるな」
「ほうじ茶:温めながらいけ」
「コーヒー:具体に落とせ」
「炭酸:行け!今すぐ!その先は派手に!」
「議長は白湯」
千紗が即決する。
「炭酸は観客席」
「観客席でもうるさい」
「うるさくていい。でも議長にしない」
僕は軍手を片方だけはめた。片手だけがポイントだ。全部装備すると、なんか工事現場になる。
片手なら、触るけど生活のまま。
「その先の丸、三つ」
千紗がペンを僕に渡す。
「何を書く?」
僕はしばらく黙ってから、ひとつ目の丸に書いた。
「1:続く」
「ふわっとしてる」
「ふわっとでいい日」
千紗が頷く。
「続くは、先の形だね。二つ目」
僕は二つ目に書いた。
「2:戻る」
「戻る?」
「うん。もし失敗したら戻る。たまり場式の錨」
千紗が少し笑う。
「いい。三つ目」
僕は迷った。
“その先”って、光る景色とか、成果とか、誰かに褒められる瞬間とか。
そういうのを置くと、急にそれが義務に見える。
義務は刃物になる。僕に対して。
胸の奥で「チッ」。ブザー。
でも今日は手すりがある。
「凹凸」
千紗が小さく言う。
「凹凸」
僕も返す。
一手。一手は、コップ。
「コップ」
僕が言うと、千紗はうん、と頷いた。
「空っぽでも器は器。三つ目は“器”にしよ」
僕は三つ目に書いた。
「3:器」
「何の器?」
「まだ分からないけど、空っぽでも器」
「最高」
千紗は言いかけて、すぐ言い換えた。
「現実通り」
現実通り。
その言葉で、紙の上の三つの丸が、急に安心の図になる。
成果じゃなくて、運用。
向こう側が見えなくても、歩き方は持てる。
「仕上げ」
千紗が言った。
「錨、打つ」
錨の一語+理由一行+鈴。風に飛ばされない発言手順。
僕は軍手をした手でペンを持って、短く言う。
「錨:現実通り」
「理由:その先は今日の延長」
千紗が鍵の鈴をちん、と鳴らした。
「固定。さぁ、出かけよ」
「どこに」
「その先に」
「説明して」
「説明すると大会になる」
千紗が肩をすくめた。
「今日は“行ってみてから決める”。たまり場式の変形」
僕らは近所の小さな公園まで歩いた。
雨上がりの匂いが残っていて、地面はところどころ濡れている。
アスファルトの線が光って、横断歩道の白が少し眩しい。線。
線は冷たいだけじゃない。戻る方向も教えてくれる。
公園の端に、工事用の白いテープが貼ってあった。
立ち入り禁止の線。
僕はつい、その線を見て胸がきゅっとなる。
“ここから先はダメ”の線は、昔から苦手だ。
チッ。
ブザー。
「来た?」
千紗が言う。
「線で、ちょっと」
「凹凸」
「凹凸」
千紗は僕の軍手を指差した。
「手袋。触れないで守る」
「触らない」
「ううん、触る。線を“道具”にする」
千紗はテープの少し手前の地面を指差す。
「ここに椅子」
「椅子?」
「座る。第三の動き。立ち入り禁止の線の前で立ったままだと戦う。座ったら、ただの線になる」
僕はベンチに座った。椅子。第三の動き。
座ると、確かに線の威圧が減る。
線は境界で、境界は守るためのもの。
ダメのためじゃなく、事故が起きないため。
意味が戻る。
「ねえ」
千紗が言う。
「その先って、こういうことだと思う」
「どういう」
「線の向こうに行くことじゃない。線の手前で、座れるようになること」
「……座れるようになる」
「うん。座れると、選べる。行くか、行かないか。いつ行くか」
選べる。
それは怖さの反対だ。
怖さは、選べない気がするときに増える。
千紗がカバンから小さなメモ帳を出した。
そこには、僕らの合図が並んでいる。凹凸、戻る、現実通り、たまり場式。
そして新しく「ピース」の文字。
「今日のピース、ひとつ」
千紗が言う。
「欠片→ピース化。完成側へ戻る」
「今日のピースは何」
「あなたが今、ここで座れたこと」
「それがピース?」
「うん。あなた、線の前で立ち尽くす癖あるから」
「……ある」
「座れた。だから先が怖くないサイズになった」
僕は軍手を外して、掌を見た。
何も変わってない。
でも、何も変わってないのがいい。現実通り。
変化は派手じゃなくていい。生活の中で起きるのが一番強い。
帰り道、千紗が唐突に聞いた。
「その先、ひとつだけ言って」
「ひとつだけ」
「うん。未来の大イベントじゃなくて、今夜の“その先”」
今夜。
僕の中火タイムの、その先。
僕は少し考えて言った。
「終わったら、ちゃんと終わる」
「止める笛」
「うん。CALLED GAME。中断は敗北じゃない」
「最高」
千紗はまた言いかけて、言い換える。
「ピース」
家に帰ると、アンが玄関で待っていた。
猫は“その先”を考えない顔で、僕らの足元に頭をこすりつけてくる。
僕は一回だけ撫でた。ひとつだけ。
それで十分だ、と猫が教えてくる。
夜。
僕はタイマーを10分にセットして、強火で企画ノートを開いた。
ピピピが鳴ったら中火。
今日は“その先”を見ない。
見るのは“次の小さな一歩”だけ。
タイトル案を一行、メモを二つ、保留を一つ。スリットを作る。線を引く。椅子を置く。
タイマーが鳴って、僕はちゃんと手を止めた。
止められた。
その瞬間、胸の奥でブザーが鳴らない。
静かだ。
静かって、勝ちみたいだ。
「できた?」
千紗がソファから聞く。
「できた。終われた」
「そっか○」
千紗が笑って、相槌を記号にする。
「受け取った、の○ね」
「じゃ、最後」
千紗が立ち上がって、鍵の鈴をちん、と鳴らした。
「さぁ。シャク」
りんごを切って、一口噛む。
シャク。
音が、今日の“その先”を、ちゃんと生活の中に落としてくれる。
向こう側が光って見えなくてもいい。
僕らには、手すりと、合図と、器と、戻る場所がある。
「その先にあるものってさ」
僕が言うと、千紗はりんごを噛みながら頷いた。
「うん?」
「たぶん、でっかい答えじゃなくて…次の小さな一歩を置ける余白だと思う」
「いいね」
千紗は目を細めた。
「余白があると、受信機が拾える。小さな叫びも、小さな希望も」
そして、もう一回鈴を鳴らす。ちん。
「さぁ。明日も、次の小さな一歩」
アンが椅子の上で丸くなって、目を閉じた。
猫はいつも、“その先”を寝ながら進む。
僕らもそれでいい。
暗く沈まずに、現実通りの速度で。