バイバイは小さな扉
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
主人公の「俺」と同居恋人の千紗が、毎日のモヤモヤや刺さった気持ちを、合言葉と小さな合図で、暗くならないようにほどいていく連作です。 仕事の失敗、待たされる焦れ、二択の迷い、理不尽、家族の距離、言えない「好き」みたいな“よくあるけど地味に重い”出来事を、会話と行動でちょっとずつ整えて、最後はちゃんと前に進める形にしていく、生活系の短編つながり。
本文
「それじゃあ、バイバイ」
その言葉って、軽い顔をしている。
子どもが手を振るみたいな、薄い音のくせに。
言ったあとに残る空気は、案外しっかりしている。
壁ではないのに、境界みたいな。
朝、玄関で千紗が靴紐を結びながら言った。
「今日、ちょっと実家寄ってくるね。夕方には戻る」
「うん」
僕は頷いた。
ただ“うん”だけで済むはずなのに、胸の奥が小さくざわつく。
大げさな不安じゃない。
ソコハカトナク、の風。
いつも一緒の人が、いない時間ができると、部屋が一段広くなる。
広いって、時々怖い。
アンが椅子の上で丸くなって、こちらを見ている。椅子。第三の動き。
猫は家に残る。
残るものがあるのに、残らない気がする。
そういう日がある。
「……来た?」
千紗が顔を上げる。受信機が早い。
「来た」
「何が」
「“いなくなる”のやつ」
「そっか」
千紗が軽く言う。
その“そっか”が、僕の胸に小さな椅子を置く。
立ったまま焦らないでいい。
胸の奥で「チッ」が鳴りかけた。
ブザー。
チッ=ブザー→凹凸→一手。
「凹凸」
千紗が言う。
「凹凸」
僕も返す。
合言葉で手すりを出す。
凸は、「寂しい」。
凹は、「寂しいって言うのが恥ずかしい」。
別に永遠の別れじゃないのに、心が勝手にドラマを盛る。
冗談じゃない。
でも、ドラマ化は癖だ。癖は運用で扱える。
「一手」
千紗が言って、玄関の靴箱の上を指でトン、と叩いた。鈴の代わり。
「バイバイを“扉”にする」
「扉?」
「うん。壁にしない。閉じて終わりじゃなく、開けて戻ってくる扉」
「……なるほど」
「だから手順。錨いこ」
錨の一語+理由一行+鈴。風に飛ばされない発言手順。
僕は短く言った。
「錨:戻る」
「理由:夕方に戻ってくる。だから“いなくなる”じゃない」
千紗が鍵の鈴をちん、と鳴らした。
「固定。さぁ、バイバイ○」
「○?」
「そっか○と同じ。受け取った、の○」
「……バイバイ○」
僕が言うと、千紗は笑って手を振った。
「それじゃあ、バイバイ」
玄関の扉が閉まる。
カチャ。
音が、家を二つに分ける線になる。線。
でも線は優しい境界。
スリットは、電話とかメッセージとか、あと“帰ってくる時間”だ。
完全に閉めない。
部屋が静かになった。
静かすぎて、アンの足音がやけに大きく聞こえる。
アンは椅子から降りて、僕の足元に来て、何も言わずに座った。
猫の“いる”は、言葉より強い。
僕はスマホを見た。
やることはある。洗濯、買い物、少しだけ中火の企画。
でも今日は、千紗がいない分だけ、僕のスイッチが極端になりそうだ。
オンにして全点灯か、オフにして真っ暗か。
段付きスイッチが必要。
胸の奥で「チッ」。
ブザー。
凹凸。
一手。
「段」
僕は小さく呟いた。
冷蔵庫の貼り紙を見に行くと、千紗が昨日貼ったやつがある。
「switch=20/50/80
0/100は禁止
最後にシャク」
今日は……50でいい。
ひとりの時間は、50が現実通り。
100にすると夜が焦げる。
0にすると夕方が重くなる。
僕は洗濯を回し、キッチンだけ整えた。
罰ゲーム化しないように線を引く。
床は磨かない。磨き始めると自分を罰する方向へ行く。
今日は“戻る”の日だ。たまり場式の錨。
昼過ぎ、千紗から写真が届いた。
実家の近所の小さな公園。
ベンチに座って撮った、地面の影と空。
短いメッセージが付いている。
『今ここ。
空、意外と青い。
夕方ね。』
それだけ。
でもそれだけが、スリット。通気口。
僕の胸の中の空っぽが、器として残る。
「そっか○」
僕はひとりで言って、笑った。
ひとり言が増えたら、それは寂しさじゃなく、運用が回ってる証拠だ。
暗く沈ませないための、ちょっとしたギャグ。寄せすぎない温度。
夕方が近づくと、僕は少し落ち着かなくなった。
“まだかな”が、胸の奥で小さく膨らむ。
待つのは、苦手だ。
待つと、頭が勝手に最悪を作る。
spilt milkみたいに、起きてもない失敗を床にこぼす。
チッ。
ブザー。
「凹凸」
僕が言う。
返事はない。
でも合言葉は、返事がなくても効く。
凹凸は自分の手すりだから。
一手は、椅子。第三の動き。
僕はソファに座って、白湯を飲んだ。
吐くのが先。クロール。
そして、錨。
「錨:現実通り」
「理由:遅れても帰ってくる。今日の扉は閉まってない」
固定。
固定すると、待つ時間が“空っぽ”じゃなく“器”になる。
コップ。空っぽでも器は器。
その時、玄関が鳴った。
ガチャ。
線が開く音。
扉が戻ってくる音。
「ただいま」
千紗の声。
その瞬間、部屋の空気が一段戻る。
戻るって、物理なんだ、と毎回思う。
匂いと音と、足音で戻る。
「おかえり」
僕が言うと、千紗は靴を脱ぎながら笑った。
「待ってた?」
「……ちょっと」
「そっか」
千紗が頷く。
叱らない。茶化さない。
受け取る。
「今日のバイバイ、どうだった?」
「壁になりかけたけど、扉にできた」
「いいね」
千紗が鍵の鈴をちん、と鳴らす。
「さぁ。最後にシャク」
りんごを切って、一口。
シャク。
音が、今日の“バイバイ”を、ちゃんと区切りにしてくれる。
別れを暗くしない区切り。
区切りは、終わりじゃなく、次へ進むための線。
アンが千紗の足元にすり寄って、いつも通りの顔をした。
猫はバイバイを知らない。
でも猫は“戻る”を知っている。
それで十分だ。
「ねえ」
僕が言う。
「“それじゃあバイバイ”って、意外と優しい言葉だね」
「うん」
千紗が頷く。
「壁じゃなく、扉。閉めるためじゃなく、また開くため」
そして、もう一回鈴を鳴らす。ちん。
「さぁ」
僕らは今日も、別れを暗く沈ませず、生活の運用に変えていく。
バイバイは、終わりじゃない。
小さな扉の音だ。