バイバイは小さな扉

小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品

📅 公開日: 2026/10/28 📚 シリーズ: ちゃんと戻る、っていう希望 📝 2,236文字 🤖 AI創作支援作品 ✅ 全年齢

あらすじ

主人公の「俺」と同居恋人の千紗が、毎日のモヤモヤや刺さった気持ちを、合言葉と小さな合図で、暗くならないようにほどいていく連作です。 仕事の失敗、待たされる焦れ、二択の迷い、理不尽、家族の距離、言えない「好き」みたいな“よくあるけど地味に重い”出来事を、会話と行動でちょっとずつ整えて、最後はちゃんと前に進める形にしていく、生活系の短編つながり。

本文

「それじゃあ、バイバイ」

その言葉って、軽い顔をしている。

子どもが手を振るみたいな、薄い音のくせに。

言ったあとに残る空気は、案外しっかりしている。

壁ではないのに、境界みたいな。

朝、玄関で千紗が靴紐を結びながら言った。

「今日、ちょっと実家寄ってくるね。夕方には戻る」

「うん」

僕は頷いた。

ただ“うん”だけで済むはずなのに、胸の奥が小さくざわつく。

大げさな不安じゃない。

ソコハカトナク、の風。

いつも一緒の人が、いない時間ができると、部屋が一段広くなる。

広いって、時々怖い。

アンが椅子の上で丸くなって、こちらを見ている。椅子。第三の動き。

猫は家に残る。

残るものがあるのに、残らない気がする。

そういう日がある。

「……来た?」

千紗が顔を上げる。受信機が早い。

「来た」

「何が」

「“いなくなる”のやつ」

「そっか」

千紗が軽く言う。

その“そっか”が、僕の胸に小さな椅子を置く。

立ったまま焦らないでいい。

胸の奥で「チッ」が鳴りかけた。

ブザー。

チッ=ブザー→凹凸→一手。

「凹凸」

千紗が言う。

「凹凸」

僕も返す。

合言葉で手すりを出す。

凸は、「寂しい」。

凹は、「寂しいって言うのが恥ずかしい」。

別に永遠の別れじゃないのに、心が勝手にドラマを盛る。

冗談じゃない。

でも、ドラマ化は癖だ。癖は運用で扱える。

「一手」

千紗が言って、玄関の靴箱の上を指でトン、と叩いた。鈴の代わり。

「バイバイを“扉”にする」

「扉?」

「うん。壁にしない。閉じて終わりじゃなく、開けて戻ってくる扉」

「……なるほど」

「だから手順。錨いこ」

錨の一語+理由一行+鈴。風に飛ばされない発言手順。

僕は短く言った。

「錨:戻る」

「理由:夕方に戻ってくる。だから“いなくなる”じゃない」

千紗が鍵の鈴をちん、と鳴らした。

「固定。さぁ、バイバイ○」

「○?」

「そっか○と同じ。受け取った、の○」

「……バイバイ○」

僕が言うと、千紗は笑って手を振った。

「それじゃあ、バイバイ」

玄関の扉が閉まる。

カチャ。

音が、家を二つに分ける線になる。線。

でも線は優しい境界。

スリットは、電話とかメッセージとか、あと“帰ってくる時間”だ。

完全に閉めない。

部屋が静かになった。

静かすぎて、アンの足音がやけに大きく聞こえる。

アンは椅子から降りて、僕の足元に来て、何も言わずに座った。

猫の“いる”は、言葉より強い。

僕はスマホを見た。

やることはある。洗濯、買い物、少しだけ中火の企画。

でも今日は、千紗がいない分だけ、僕のスイッチが極端になりそうだ。

オンにして全点灯か、オフにして真っ暗か。

段付きスイッチが必要。

胸の奥で「チッ」。

ブザー。

凹凸。

一手。

「段」

僕は小さく呟いた。

冷蔵庫の貼り紙を見に行くと、千紗が昨日貼ったやつがある。

「switch=20/50/80

0/100は禁止

最後にシャク」

今日は……50でいい。

ひとりの時間は、50が現実通り。

100にすると夜が焦げる。

0にすると夕方が重くなる。

僕は洗濯を回し、キッチンだけ整えた。

罰ゲーム化しないように線を引く。

床は磨かない。磨き始めると自分を罰する方向へ行く。

今日は“戻る”の日だ。たまり場式の錨。

昼過ぎ、千紗から写真が届いた。

実家の近所の小さな公園。

ベンチに座って撮った、地面の影と空。

短いメッセージが付いている。

『今ここ。

空、意外と青い。

夕方ね。』

それだけ。

でもそれだけが、スリット。通気口。

僕の胸の中の空っぽが、器として残る。

「そっか○」

僕はひとりで言って、笑った。

ひとり言が増えたら、それは寂しさじゃなく、運用が回ってる証拠だ。

暗く沈ませないための、ちょっとしたギャグ。寄せすぎない温度。

夕方が近づくと、僕は少し落ち着かなくなった。

“まだかな”が、胸の奥で小さく膨らむ。

待つのは、苦手だ。

待つと、頭が勝手に最悪を作る。

spilt milkみたいに、起きてもない失敗を床にこぼす。

チッ。

ブザー。

「凹凸」

僕が言う。

返事はない。

でも合言葉は、返事がなくても効く。

凹凸は自分の手すりだから。

一手は、椅子。第三の動き。

僕はソファに座って、白湯を飲んだ。

吐くのが先。クロール。

そして、錨。

「錨:現実通り」

「理由:遅れても帰ってくる。今日の扉は閉まってない」

固定。

固定すると、待つ時間が“空っぽ”じゃなく“器”になる。

コップ。空っぽでも器は器。

その時、玄関が鳴った。

ガチャ。

線が開く音。

扉が戻ってくる音。

「ただいま」

千紗の声。

その瞬間、部屋の空気が一段戻る。

戻るって、物理なんだ、と毎回思う。

匂いと音と、足音で戻る。

「おかえり」

僕が言うと、千紗は靴を脱ぎながら笑った。

「待ってた?」

「……ちょっと」

「そっか」

千紗が頷く。

叱らない。茶化さない。

受け取る。

「今日のバイバイ、どうだった?」

「壁になりかけたけど、扉にできた」

「いいね」

千紗が鍵の鈴をちん、と鳴らす。

「さぁ。最後にシャク」

りんごを切って、一口。

シャク。

音が、今日の“バイバイ”を、ちゃんと区切りにしてくれる。

別れを暗くしない区切り。

区切りは、終わりじゃなく、次へ進むための線。

アンが千紗の足元にすり寄って、いつも通りの顔をした。

猫はバイバイを知らない。

でも猫は“戻る”を知っている。

それで十分だ。

「ねえ」

僕が言う。

「“それじゃあバイバイ”って、意外と優しい言葉だね」

「うん」

千紗が頷く。

「壁じゃなく、扉。閉めるためじゃなく、また開くため」

そして、もう一回鈴を鳴らす。ちん。

「さぁ」

僕らは今日も、別れを暗く沈ませず、生活の運用に変えていく。

バイバイは、終わりじゃない。

小さな扉の音だ。

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