揺れていい日の係留
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
主人公の「俺」と同居恋人の千紗が、毎日のモヤモヤや刺さった気持ちを、合言葉と小さな合図で、暗くならないようにほどいていく連作です。 仕事の失敗、待たされる焦れ、二択の迷い、理不尽、家族の距離、言えない「好き」みたいな“よくあるけど地味に重い”出来事を、会話と行動でちょっとずつ整えて、最後はちゃんと前に進める形にしていく、生活系の短編つながり。
本文
タユタウ。
口に出すと、舌が少し遊ぶ。
真面目な顔で言うには柔らかすぎて、でも軽く扱うには大事すぎる。そんな言葉だ。
朝、僕は白湯を飲んでいた。
いつもなら白湯が議長席に座って、内なる五人を静かに整える。白湯・紅茶・ほうじ茶・コーヒー・炭酸。
けれど今日は、議長がちゃんと席にいるのに、会議室の椅子がふわふわ揺れている。
カーテンがわずかに揺れた。窓が少し開いている。
風の音が、まるで誰かの鼻歌みたいに部屋に入ってくる。
アンは椅子の上で丸くなって、しっぽの先を左右に揺らしている。椅子。第三の動き。
猫のしっぽって、タユタウの正解例みたいだ。迷ってないのに揺れてる。
千紗がキッチンから顔を出した。
「今日さ、風が“タユタウ日”って言ってる」
「風が喋るの?」
「あなたの受信機なら拾えるでしょ」
受信機。相手の小さな叫びを拾う姿勢。
僕は笑いかけて、でも笑い切れずに喉の手前で止まった。
「……僕、タユタウに弱い」
「知ってる」
千紗は即答して、冷蔵庫の扉に新しい貼り紙を貼った。
「タユタウ=漂う
漂う=迷子じゃない
錨を一個だけ
チッ→凹凸→一手
最後にシャク」
「錨を一個だけ」
僕が読み上げると、千紗は鍵の鈴をちん、と鳴らした。
「さぁ。今日はこれ」
鈴。背中を押す合図。刃物じゃない武器。
なのに、胸の奥で小さく「チッ」が鳴った。
舌打ちじゃない、ブザー。
タユタウは好きなのに、タユタウが始まると「ちゃんとしなきゃ」が勝手に顔を出す。
漂う=怠け、みたいな変換。僕の癖。
チッ=ブザー→凹凸→一手。
凹凸。刺さったときの手すり。
「来た?」
千紗が言う。受信機が早い。
「来た。漂うと、罪悪感が出る」
「凹凸」
「凹凸」
合言葉を返すと、胸の奥の手すりが立つ。
凸は、「流れたい」。
凹は、「流れたら戻れない気がする」。
戻れない気がするから、必死に岸にしがみつく。
その結果、余計に疲れて沈む。
冗談じゃない。
「一手」
千紗が言う。
「漂うなら、係留する。錨を一個だけ」
「係留」
「船のやつ」
「僕、船じゃないけど」
「船じゃないけど、風で飛ぶ。あなた、発言も予定も風で飛びやすい」
「言い方」
「現実通り」
千紗はテーブルに紙を置き、一本線を引いた。線。
その線に小さな切れ目。スリット。
「線は境界。スリットは通気口。閉めない。漂いを止めない」
「止めないの?」
「止めると、別のところで爆発する。炭酸が議長になる」
「炭酸議長は最悪」
「でしょ」
千紗は線の左に「岸」、右に「流れ」と書いた。
「あなた、岸に張り付く癖がある。今日は“つま先だけ流れ”」
「またつま先」
「つま先が最強」
僕は白湯を飲み直して、息を吐いた。吐くのが先。クロールの呼吸。
そして、錨の一語+理由一行+鈴。
「錨:戻る」
「理由:揺れても、戻る場所がある」
千紗が鈴をちん、と鳴らす。
「固定。よし、今日は漂っていい」
漂っていい。
許可されると、漂いは罪じゃなくなる。
罪じゃなくなると、漂いは“休み”じゃなく“調整”になる。
「で、どう漂うの」
僕が聞くと、千紗はにやりとした。
「散歩。川沿い」
「川沿いって、だいぶ漂いそう」
「だから錨」
「戻る」
「そう。戻るを持って、漂う」
アンは散歩に付いてこない。
付いてこないのに、玄関で僕らを見送る顔が「いってらっしゃい」に見える。
猫の無言は、たまに完璧に翻訳できる。
外は風が気持ちよかった。
強風じゃない。頬を押す程度。
コンビニののぼりが、ふわふわ踊っている。
僕の心も、それに合わせて揺れる。
揺れるのは悪くない。
ただ、揺れた拍子にゼロか百かへ落ちないように、椅子と線を持ってくる。
川沿いの遊歩道に着くと、水面が光を小さく砕いていた。
キラキラって、努力の結果じゃなくても起きるんだな、と思う。
タユタウは、こういう自然なキラキラに似ている。
目的がないのに、ちゃんと動いてる。
「ねえ」
千紗が言う。
「タユタウって、何が怖い?」
「終わらない感じ」
「終わらない感じ」
「漂ってるうちに、何も決まらなくて、何も進まなくて、気づいたら夜、みたいな」
「それは“迷子のタユタウ”だね」
「あるある」
「じゃあ今日は、“終わるタユタウ”を作ろう」
「終わるタユタウ」
「うん。終わりを作れば、漂いは迷子にならない」
千紗は遊歩道の端にあるベンチを指差した。椅子。第三の動き。
「椅子、置く」
「座る?」
「座る。座ると、漂いの速度が落ちる。速度が落ちると、受信機が拾える」
僕らはベンチに座った。
風が、髪の毛をちょっと乱す。
乱れたままでもいい。直さなくていい。
千紗は僕の横で、手のひらを上に向けて、空気を掬うみたいに動かした。
「今のあなた、何色?」
「急に虹」
「素直な虹。三色でいい」
「……青」
「理由一行」
「落ち着くけど、ちょっと寂しい」
「うん。青はタユタウ向き」
「千紗は?」
「黄」
「理由一行」
「風が気持ちよくて、なんか嬉しい」
「黄って強い」
「黄は“進め”じゃなく“いいね”だから」
いいね。
進め、じゃない。
漂う日には、進めが刃物になる。
いいね、は鈴になる。ちん。
僕の胸の奥でまた小さく「チッ」。
今度は罪悪感じゃなく、焦りのブザーだった。
この時間、何か“意味”が欲しくなる。
意味がないと、浪費に感じる。
そういう癖。
「来た?」
千紗が言う。
「意味が欲しくなるやつ」
「凹凸」
「凹凸」
一手。
一手は、“意味を作らないで、錨を触る”。
今日の錨は「戻る」。
戻るなら、意味は“戻れる形”で十分だ。
「意味はね」
千紗が言った。
「作らなくていい。代わりに“ピース”を一個だけ拾う」
「ピース」
「欠片→ピース化。完成側へ戻る」
「今日のピースって何」
「今、あなたが“寂しい”って言えたこと」
「それがピース?」
「うん。漂いは、言葉が溶けるから。溶ける前に拾えた」
言葉が溶ける。
確かに。
タユタウしてると、気持ちが輪郭を失って、ただの“もや”になる。
もやは暗く沈みやすい。
だから、ピースにする。小さな形にする。
「じゃあ僕も、千紗のピース拾う」
僕が言うと、千紗は眉を上げた。
「なに」
「黄って言えたこと」
「それ、ピース?」
「うん。嬉しいって言うの、あなた意外と照れる」
「……ばれてる」
千紗が笑って、鈴をちん、と鳴らした。
「さぁ。帰ろっか」
帰る。
帰るって言葉が、漂いに終わりを作る。
終わりがあるなら、漂いは迷子じゃない。
ちゃんと往復になる。
それが、係留。
帰り道、コンビニで小さなアイスを買った。
漂いの途中で寄り道をすると、生活が“ただの散歩”じゃなくなる。
でも寄り道しすぎると迷子になる。
だから、ひとつだけ。
ひとつだけは僕らの救命胴衣。
家に戻ると、アンが玄関で待っていた。
僕の足に額を押しつけて、においを確認する。
猫の受信機は鼻にある。
「ただいま」
僕が言うと、千紗も言う。
「ただいま」
同じ家に帰ってくるだけで、錨が効いてるのが分かる。
戻る、って本当に物理だ。
午後、僕は少しだけ中火の時間を取った。
強火は10分だけ。タイマーを鳴らして。
ピピピで止める。CALLED GAME。
止めるのは負けじゃない。焦げないための笛。
ノートに書けたのは、たった三行。
でも三行は、漂いを“生活の成果”に変えるには十分だった。
十分、を知るのが大事。
足りないと思うと暗くなる。
十分だと思えると明るいまま終われる。
「終われた?」
千紗がソファから聞く。
「終われた」
「そっか○」
「受け取ったの○ね」
「うん」
夕方、冷蔵庫からりんごを出した。
最後にシャク。
貼り紙がちゃんとそこにある。
僕は一口噛んだ。
シャク。
音が、今日のタユタウを“ふわふわのまま”終わらせず、体の中に落とし込む。
漂いが、ちゃんと僕の血肉になる感じ。
アンが皿の端の欠片を狙っているので、ほんの少しだけ置いた。
欠片はピース。
ピースは完成側へ戻る。
アンはぺろりと舐めて、何事もなかった顔で椅子に戻った。
猫のタユタウはいつも、迷子にならない。
「ねえ」
僕が言う。
「タユタウって、進まないことじゃないんだね」
「うん」
千紗が頷く。
「タユタウは、揺れながら“戻れる”ってこと。戻れるなら、揺れていい」
そして、鈴。
ちん。
「さぁ」
僕はもう一度、りんごを噛んだ。
シャク。
漂いの終わりに、ちゃんと歯ごたえがある。
今日の風は、ただ揺らしただけじゃなく、僕らをちゃんと係留してくれた。
暗く沈まずに。現実通りのまま。