ポケットに入る大事
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
主人公の「俺」と同居恋人の千紗が、毎日のモヤモヤや刺さった気持ちを、合言葉と小さな合図で、暗くならないようにほどいていく連作です。 仕事の失敗、待たされる焦れ、二択の迷い、理不尽、家族の距離、言えない「好き」みたいな“よくあるけど地味に重い”出来事を、会話と行動でちょっとずつ整えて、最後はちゃんと前に進める形にしていく、生活系の短編つながり。
本文
“だいじなもん”って言い方は、ちょっとずるい。
大事なもの、って硬く言うと、急に誓約書みたいになるのに、
だいじなもん、って言うと、ポケットに入る。
手のひらに収まる。
それでいて、失くしたら困る。
朝、千紗が玄関の棚の上で、鍵を探していた。
探しているというより、鍵の周りの世界を一回ひっくり返している。
アンは椅子の上からそれを見ている。椅子。第三の動き。
猫の顔が「人間って…」と言っている。裁判官みたいに。
「ない」
千紗が言う。
「絶対ここに置いたのに」
「だいじなもん?」
僕が聞くと、千紗は鍵束を持ち上げて見せた。
「これがないと外出が詰むやつ」
「それは大事」
「大事。だから焦る」
焦ると、空気が尖る。
尖ると、僕の胸の奥が「チッ」を鳴らす準備をする。
舌打ちじゃない、ブザー。
焦りのブザーは伝染する。
受信機は拾うが、拾いすぎると一緒に沈む。
チッ=ブザー→凹凸→一手。
凹凸。刺さったときの手すり。
「凹凸」
僕が小さく言うと、千紗が振り向いた。
「凹凸」
返してくれる。
それだけで、鍵探しが“事件”じゃなく“作業”になる。
千紗が冷蔵庫の扉に、新しい貼り紙を貼った。
いつの間に。貼り紙の忍者。
「だいじなもん=三つまで
失くしたら:コップ
見つけたら:ピース
焦りは:チッ→凹凸→一手
最後にシャク」
「三つまでって何」
僕が聞くと、千紗は眉を上げた。
「大事を増やしすぎると、全部が重くなる」
「確かに」
「だから三つ。今日は鍵が一つ。残り二つは…後で決める」
「鍵だけで十分大事だよ」
「うん。でも“だいじ”を鍵だけにすると、鍵が神になる」
「神……」
「神になると、失くした瞬間に世界が終わる。冗談じゃない」
冗談じゃない。
でも言い方が可笑しくて、僕は少し笑ってしまった。
笑いは炭酸。圧抜き。
暗く沈ませないための、ちょっとした抜け道。
「一手」
千紗が言う。
「線を引く」
「線?」
「探す範囲。玄関、リビング、カバン。ここまで。それ以上は大会」
「大会化禁止」
「うん。現実通りの範囲でやる」
僕らは床にマスキングテープを貼った。
玄関の棚から一歩の範囲に、四角い線。
線は優しい境界。
線があると、探す行為が“無限”にならない。
千紗はその線の内側で、いったん正座した。
「そこに正座」
自分に言っている。
うちの正座は罰じゃなくリセット。
僕も真似して正座した。
床の冷たさが、焦りの熱を少し吸う。
呼吸。吐くのが先。クロール。
「錨」
千紗が言う。
「錨:現実通り」
「理由:鍵は物。なくなっても世界は終わらない」
言った瞬間、自分で自分を救う感じがした。
千紗が鍵の鈴をちん、と鳴らす。
「固定。さぁ、探す」
探す、と決めたら、探す。
でも強火じゃなく中火。
僕は玄関の棚の上を見て、次に下を見た。
千紗はカバンの内ポケットを順番に触る。
アンは椅子の上であくびをする。猫は焦らない。猫は最強の現実通り。
ふと、僕の目に、玄関マットの端が少し盛り上がっているのが見えた。
盛り上がり。
凹凸。
僕はマットをめくった。
鍵束が、そこにあった。
まるで「ここだよ」と最初から言っていたみたいに。
「……あった」
僕が言うと、千紗は一拍置いてから笑った。
「そっか○」
「受け取ったの○ね」
「うん。あってよかった」
胸の奥のブザーが止まる。
鍵が神になりかけていたのが、ただの物に戻る。
物に戻ると、愛着は残っても、恐怖は減る。
「見つけたら、ピース」
千紗が言う。
「欠片→ピース化/完成側へ戻る」
「鍵がピース?」
「うん。今日のピースは“焦りを事件にしなかった”」
「……それ、確かに」
「だいじなもんって、物じゃなくて運用だったりする」
運用。
僕らの魔法。
刃物じゃない武器。
千紗は鍵束を棚の上に置き直して、今度は小さなトレーを出した。
木のトレー。
そこに鍵を置く。
「だいじなもん用の停泊地」
「停泊地」
「うん。タユタウしても戻る場所」
「それ、いい」
「鍵はここ。固定」
千紗が鈴をちん、と鳴らす。
「さぁ」
僕はふと、貼り紙の「三つまで」を思い出した。
「残り二つの“だいじ”は?」
千紗が少し考えて言った。
「アン」
「猫が入るのか」
「入る。だいじなもん」
アンは知らん顔で椅子に丸まっている。
でもその体温は、確かに大事だ。
「もう一つは?」
「……あなた」
千紗がさらっと言って、すぐに咳払いした。
照れ隠し。
素直な虹の黄みたいな嬉しさが、僕の中に広がる。
「僕も三つ決める」
僕は言った。
「千紗、アン、あと一つ」
「あと一つは?」
僕は少し迷ってから、冷蔵庫を指差した。
「凹凸」
「合言葉が入るの?」
「入る。だいじなもん。刺さったときの手すり」
千紗が笑って、鈴を鳴らす。ちん。
「いいね。だいじなもん、増えすぎないのも大事」
午後、僕らは外に出た。
鍵はトレーから取って、ポケットに入れる。
ポケットに入る大事。
だいじなもんは、誓約書じゃなくて生活の道具だ。
帰りにスーパーでりんごを買った。
最後にシャク。
家に戻って、りんごを切る。
シャク。
音が、朝の焦りを“ちゃんと終わった話”にしてくれる。
「ねえ」
僕が言う。
「だいじなもんってさ、守るの大変そうで嫌だった」
「うん」
千紗が頷く。
「でも、守り方があると軽くなる」
「線とか、トレーとか、凹凸とか」
「そう。だいじなもんは、重く抱えるんじゃなくて、置き場所を作る」
「置き場所」
「椅子でもいい。第三の動き」
千紗が最後に鈴をちん、と鳴らした。
「さぁ。明日も、ポケットに入る大事でいこ」
アンが椅子の上で目を細めた。
猫はだいじなもんを、抱えない。
そのかわり、そこにいる。
僕らもそれでいい。
大げさにせず、暗く沈ませず、生活の中で守れるサイズで。