井戸の水が多い
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あらすじ
真昼山の山頂に、ひとりの子どもが降り立った。 名はハル。泣きそうなほど眩しい朝日を見上げたその瞬間、世界は“きれいすぎる”方向へ盛られてしまう。音は響きすぎ、匂いは良すぎ、善意は増えすぎる。 原因は神界の「泣かせない係」。 生活感のあるお役所みたいな職員室で、主犯神アマネが今日も宣言する。 「おねぇちゃんに、まかせて!」 涙ゼロを目指すあまり、世界を盛りすぎて大パニック。ゆれりんが鳴れば朝礼集合、盛っては直して反省会。なおし係まで巻き込まれ、業務はいつも過多になる。 一方、地上では麓の共同保護の家「結び家」が、飯と湯と順番で今日も回る。 パニックは去らない。だけど生活に編み込めば、笑って眠れる。 泣かせないおねぇちゃんと、泣く暇のない日常が出会う、ドタバタほのぼのハイファンタジー。
本文
井戸は、だいたい黙っている。
黙っていて、出す。
出して、また黙る。
だから人は、井戸を「いつも通り」と思う。
思った朝に限って、井戸は機嫌がいい。
縄を落とす。
桶が水面に触れる。
引き上げる。
いつもなら、ここで一回だけ「重いな」となるのに。
「……軽い?」
タケルが言った。言い方が疑っている。
「軽いわけないでしょ」
コトが笑いながら覗き込む。
覗き込んだ瞬間、目が丸くなる。
水が、上だ。
いつもより、上。
桶を沈めなくても水が来る。来るのが早い。早いのは危ない。
レンカの目が光った。
光るな。
「いっぱい汲める!」
「汲むな」
ユリネが即座に言った。
言い切りが乾いている。乾いているのに、水の気配で柔らかく聞こえるのが悔しい。
「え、でも、今日は水が多い日だよ?」
「多い日は、詰まる」
ユリネは短く返す。
「詰まると、こぼれる。こぼれると、滑る。滑ると、泣く」
「泣かせない係!」
レンカが胸を張る。
胸を張ると、だいたい余計にやる。危ない。
そこへ、足音が増えた。
増えるのが早い。
水の匂いは、人を呼ぶ。
近所の人が来る。
籠を持って来る。
桶を持って来る。
桶はだいたい二つ持って来る。二つは便利で危ない。
「今日は出がいいねぇ」
「ほんと、井戸が若い」
「若いって何だ」
タケルが真顔で突っ込んで、周りが笑う。笑いがあるうちは回る。
回りそうで、回らない顔もある。
並ぶ顔。
早いもの勝ちにしたくなる顔。
でも、ここは結び家の井戸だ。勝ちは順番で取る。
ユリネが、欠け桶を置いた。
縁がちょん、と欠けたあの桶。
置くだけで「ここ」ができる。
欠けは、線になる。
「欠けまで」
ユリネが言う。
「欠けまで?」
誰かが聞く。
「欠けまで。桶を寄せるのは欠けまで。前へ押すな」
押すな、が効く。
押さないと、縄が絡まらない。
絡まらないと、足が動ける。
足が動けると、通れる。
通れると、井戸が井戸のままでいられる。
レンカは欠け桶の横でうずうずしている。
水が多い。
多い水は「今だけの特別」に見える。
特別は増える。増えると詰まる。
「……ねぇ、今日さ、余り分も汲んどけばいいじゃん」
ミナギが言った。
いつの間にか来ている。息が白い。声が元気。悪気ゼロ。危ない。
「汲むな」
ユリネがまた言った。
「汲みすぎると、置き場が先に死ぬ」
「置き場?」
ミナギが首を傾げる。
傾げた瞬間、レンカが「置き場なら私が作る!」の顔になる。作るな。
コトがすっと間に入った。
「まず一杯ずつ。余りは、順番が回ってから」
「余りって、回るの?」
タケルが言って、また笑いが出る。笑いは助かる。
並びの最後尾に、背の小さい子がいた。
桶がやけに大きい。
持ってるだけで腕がぷるぷるしている。ぷるぷるは危ない。
ハルがそれを見て、ぽつりと言った。
「……持てない」
「持てないなら置くな」
ユリネが言いかけて、言い方を変えた。
「欠けの横。桶は地面。人は手を空けろ」
言葉が変わると、優しさが増えない形になる。
小さい子が桶を欠け桶の横にそっと下ろした。
下ろした瞬間、顔がほっとする。
ほっとする顔を見ると、レンカが手を出したくなる。出すな。
「……それは、本人の順番だ」
ユリネが先に釘を刺す。
刺されると、レンカが歯を食いしばって、でも頷く。頷けるのが強い。
順番が回り始める。
縄が落ちる。
桶が上がる。
水が光る。
光ると、言いたくなる。
「……きれい」
シノが小さく言った。
小さいから、誰も騒がない。
騒がないまま、光が生活の中に落ちる。落ち方がちょうどいい。
ところが、井戸の水が多い日は、油断が増える。
引き上げた桶が、いつもより早く満ちる。
満ちると、最後の一引きで溢れやすい。
溢れると、縄が濡れる。
濡れた縄は滑る。滑ると、桶が揺れる。揺れると、水が跳ねる。
「わっ」
誰かが声を上げた。
声が出た瞬間、周りが「大丈夫?」になる。
「大丈夫!」
「ごめん!」
「いやいや!」
いやいやが増える。増えると、足が増える。足が増えると、また水が跳ねる。
無限だ。井戸の無限。
「……止まれ」
ユリネが言った。
怒っていない。
でも、止まれの声は、床に線を引く。
「水が跳ねたら、拭け。拭くのは一人。周りは動くな」
短い。
短いのに、場が静かになる。
静かになると、拭く手が迷わない。
レンカが「拭く!」と言いかけた。
「拭くな」
ユリネが即座に言った。
「今日はお前が拭くと、拭く場所が増える」
「なんで!」
「拭きたい顔だから」
ユリネの返しが乾いていて、レンカが悔しそうに笑った。笑えるなら勝ちだ。
拭いた人が戻る。
順番が続く。
水は多いまま、でも、回る。
……回った結果、問題が生まれる。
桶が並ぶ。
桶が満ちる。
桶が帰っていく。
帰っていく桶が、増える。
増えると、井戸の周りが「置き場」になる。
置き場になると、道が消える。
道が消えると、誰かが桶を避ける。
避けた桶が、別の桶に当たる。
当たると、水が跳ねる。
跳ねると、また拭く。
勝ってるようで負けてる。
水だけが勝って、場が負ける。
「……余り分、汲んだ人、いる?」
コトが聞いた。
聞き方がやさしい。やさしいと手が上がる。
上がった手が、思ったより多い。多いのは悪じゃない。多いのは詰まりの予告だ。
「だって今日は多いし」
「明日も多いかもしれないし」
「少しだけだよ」
少しだけ、が危ない。
少しだけが集まると、山になる。
今日は水の山だ。
結び家も、いつの間にか桶が多い。
レンカの足元に、もう一桶ある。
タケルの横にも。
ミナギの背中にも。
そして問題は、家に戻ってから起きる。
結び家の戸の前。
段差の前。
桶が並ぶ。
並ぶと、靴が置けない。
置けないと、また「どうぞ」が出る。
出ると詰まる。詰まると、桶が蹴られる。蹴られると、泣く。今日は泣かせない係だ。
「……置き場」
ユリネが言った。
言っただけで、レンカが「作る!」の顔になる。作るな。
ユリネは札を見た。
柱に掛かった、生成りの札。
洗/干/たた/飯/湯。
五つだけ。増やせない。増やすな。
ユリネが、洗の札を取った。
札が動くと、場が締まる。
締まると、余計な優しさが出にくい。
「洗」
ユリネが言った。
「洗?」
レンカが首を傾げる。
「水は、洗いで消える。床も、桶も、道も」
ユリネが淡々と続ける。
「洗の札がある桶は、使う。札がない桶は、汲むな」
ミナギが「え、じゃあ俺の余り桶……」と顔をしかめた。
「お前のは、札がない」
「札、つけていい?」
「つけるな」
ユリネが即答する。
「札は回す。貼り付けない」
貼り付けると増える。増えると欄になる。欄はやめろ。
コトが笑いながら、もう一枚、干の札を取った。
「じゃあ、こっちは干。干は……乾かす。つまり、ここは濡らさない」
言いながら、玄関の段差の横、通り道のど真ん中を指さす。
「ここは干。水桶置いたらだめ」
「干が禁止札になった」
タケルが真顔で言って、ミナギが吹き出した。
笑いがあると、禁止でも尖らない。
レンカが目を輝かせる。
「じゃあ、たたは?」
「たたは布だ」
ユリネが即答する。
「今は使わない」
使わないが言えるのが強い。使わないが言えると、増えない。
結び家は、玄関前の桶を二つだけ残した。
一つは洗の札が掛かった桶。
もう一つは、湯の札が掛かった桶。
湯の札は、湯屋じゃなく家の湯のため。
湯は逃げないが、湯の準備は逃げる。逃げると夜に困る。
残りの桶はどうするか。
ここが揉める場所だ。
「余りの水、どこに置く?」
ミナギが言った。
「置くな」
ユリネが言った。
「……捨てる?」
ミナギが言い換える。
言い換えると、少しだけ場が柔らかくなる。柔らかいと、正直が出る。
「捨てるの、もったいない」
レンカが言った。
もったいないは正しい。正しいからこそ危ない。
「じゃあ、ゴミのとこに流せばいいじゃん」
タケルが言った。
言った瞬間、ハルの眉が少しだけ動く。
「……濡れると、重い」
ハルがぽつり。
ゴミ集積の山のことだ。
水が多い日は、あそこが負けやすい。
負けると、道がまた消える。今日は道を守る日だったはずだ。
コトが腕を組んだ。
「でも、ちょっとだけ湿らせると、ほこりは減るよね」
減るのはいい。
ただし“ちょっとだけ”が難しい。
レンカが「じゃあ私がちょっとだけ!」の顔になった。
ちょっとだけ係はだいたい事故係だ。
「……行く」
ユリネが言った。
行く、は決断だ。決断すると、揉めが揉めで終わらない。
ゴミ集積へ向かう。
今日は薄く触るだけのはずなのに、水が勝手に連れてくる。
道の途中で、桶がちゃぷんと鳴る。
鳴るたびに、レンカの肩が揺れる。揺れるとこぼれる。こぼれると滑る。滑るな。
「走るな」
「走ってない!」
「走りそうな顔をやめろ」
ユリネの返しが乾いていて、レンカがむくれながら笑った。笑えるなら勝ち。
集積の囲いは、昨日より静かだった。
山は小さい。
小さい山は、油断を呼ぶ。油断は水を呼ぶ。
囲いの前に、昨日の板がある。
『分けて置く』
それだけ。
それだけでいい。足すな。
そこへ、ちょうど近所のおじさんが来た。
籠を抱えている。
籠の中は軽そうだ。軽そうでも、置けば山の一部になる。
「あら、結び家。今日は水の桶?」
「水が多い日だ」
ユリネが淡々と言う。
「多い日か。いいねぇ。でも、ここに流すと重くなるぞ」
おじさんが先に言った。
言われると、揉めが減る。言ってくれる人がいるのは助かる。
「重くならない程度に、湿らせる」
ユリネが言った。
言い切りが“やる”の顔だ。
レンカが背筋を伸ばす。背筋を伸ばすと、やりすぎる。危ない。
ユリネは、干の札を囲いの横の杭に掛けた。
札が風に揺れる。
干。
乾かす。
つまり、ここは濡らしすぎない。
「干」
ユリネが言った。
「干?」
ミナギが首を傾げる。
「濡らすな、って札だ」
タケルが真顔で訳して、周りが笑った。笑いがあると禁止が優しくなる。
次に、洗の札を桶に掛ける。
洗の札が掛かった桶だけが、口を開けていい。
口を開ける場所も決める。
欠け。
囲いの石にも、小さな欠けがあった。
欠けは、どこにでもある。あるからこそ、拾える人が強い。
「欠けまで」
ユリネが言った。
「欠けまで」
コトが復唱した。
復唱が札になる。
ユリネは桶の水を、地面へ“少しだけ”落とした。
落とすと言っても、流すじゃない。
手のひらを添えて、水の勢いを殺して、静かに染み込ませる。
染み込むと、ほこりが寝る。
寝ると、風で舞わない。舞わないと、鼻が平和だ。
「……ちょっとだけ、ってこうやるんだ」
レンカが目を丸くする。
目が丸いのは、学んでいる顔だ。よし。
ミナギが真似しようとして、勢いが出た。
水が“ちょっとだけ”じゃなく“ちゃぽん”となった。
ちゃぽんは危ない。ちゃぽんは山を育てる。
「触るな」
ユリネが即座に言った。
「俺、触ってない! 水が勝手に!」
「水に負けるな」
乾いた返しで、ミナギが「ぐぬ」となる。
ぐぬが出ると、場が締まる。締まると、ちゃぽんが減る。
ハルが小さく息を吐いた。
「……重くならない」
言葉が少ない。少ないけど、安心が入っている。
シノは水が染みる地面を見て、ぼそり。
「……黒くなる」
黒くなるのは、ほこりが落ち着いた証拠だ。
誰も騒がない。騒がないと、黒が黒のままで終わる。
洗の札が掛かった桶の水を、決めた分だけ落とす。
落としたら終わり。
終わりがあると、増えない。
コトが桶を持ち上げて言った。
「じゃあ、残りは家で使う分だけ。洗と湯の札が回ってる間だけ」
「回ってない桶は、汲まない」
タケルが復唱する。
「汲まない!」
レンカが元気よく言って、言った後で自分の目を押さえた。
汲まないを言うと、汲みたさが暴れる。暴れる前に笑っておく。正しい。
帰り道、ミナギが肩を落とした。
「俺、今日さ、水が多いって聞いて、勝手に“余り”を作った」
「余りは悪じゃない」
ユリネが否定しない。
「余りの置き場がないのが悪い」
「置き場……」
「置き場は作るな。回せ」
最後の一言で、ミナギが笑った。笑えるなら勝ち。
結び家の玄関に戻る。
桶は二つだけ。
道が空いている。
空いていると、足が滑らない。滑らないと、泣かない。今日も勝ちだ。
レンカが洗の札の桶を見て、うずうずしながら言った。
「これ、全部で床拭ける?」
「全部拭くな」
ユリネが即答する。
「全部拭くと、また汲みたくなる」
「ばれた」
レンカが笑って、素直に雑巾を一枚だけ取った。
一枚だけ。
一枚だけが、生活を救う。
コトは湯の札の桶を鍋の横に置いた。
湯気はまだない。
でも、湯の準備があると、夜が軽い。
タケルが柱の札を見上げる。
五枚。
五枚だけ。
五枚だけで回っているのが、妙に頼もしい。
ハルがぽつりと言った。
「……水が多い日は、順番も多い」
「多くするな」
ユリネが返す。
「順番は、置く」
置く、の言葉が静かに落ちる。
台所から匂いが立ち始めた。
水の話は、最後に飯へ戻るのがいちばんいい。
戻れるなら、回っている。
レンカが雑巾を絞って、最後にだけ大きく息を吐いた。
「今日、滑らなかった!」
「滑らないのが勝ちだ」
ユリネが頷く。
そして、合図はいつも通り。
ユリネが短く言った。
「飯! 湯!」
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