湯屋の順番が“呼ばれる”必要
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
真昼山の山頂に、ひとりの子どもが降り立った。 名はハル。泣きそうなほど眩しい朝日を見上げたその瞬間、世界は“きれいすぎる”方向へ盛られてしまう。音は響きすぎ、匂いは良すぎ、善意は増えすぎる。 原因は神界の「泣かせない係」。 生活感のあるお役所みたいな職員室で、主犯神アマネが今日も宣言する。 「おねぇちゃんに、まかせて!」 涙ゼロを目指すあまり、世界を盛りすぎて大パニック。ゆれりんが鳴れば朝礼集合、盛っては直して反省会。なおし係まで巻き込まれ、業務はいつも過多になる。 一方、地上では麓の共同保護の家「結び家」が、飯と湯と順番で今日も回る。 パニックは去らない。だけど生活に編み込めば、笑って眠れる。 泣かせないおねぇちゃんと、泣く暇のない日常が出会う、ドタバタほのぼのハイファンタジー。
本文
湯屋は、湯気が合図のはずだった。
湯気が出ている。中が温い。開いている。
それで足りる、はずだった。
今日は足りない。
足りないって言うな。胸の中で足りない。
夕方、湯屋の前。
入口の釘に、湯札が揺れている。でかい数字。短い字。いつものやつ。
それなのに、入口が詰まっていた。
「……止まってる」
ハルが小さく言った。
「言うな」
ユリネが即座に刺す。
「……胸の中で止まってる」
「胸の中なら勝手にしろ」
詰まりの正体は、列じゃない。
“待ち方”だ。
湯札を取った人が、入口から離れない。
離れないから、次の人も離れない。
離れない背中が三つ重なると、入口が入口じゃなくなる。
「いま、四だったよね?」
「いや、五が先じゃない?」
「え、でも五、どこ?」
「見えない」
見えない。
湯気のせいで、釘の札が見えにくい。
見えにくいと、不安になる。
不安になると近づく。近づくと見えない。最悪の循環。
レンカが息を吸って、口を押さえた。えらい。
「……呼んだ方がいいのかな」
「言うな」
ユリネが刺す。
「……胸の中で、呼びたい」
「胸の中なら勝手にしろ」
呼びたい、は危ない。
呼ぶと声が増える。
声が増えると、湯屋は湯屋じゃなくなる。
でも今日は、呼ばないと戻らない。ここが詰まりの芯だ。
入口の端で、湯屋番のおばさんが腕を組んでいた。
顔が「分かってる」。分かってる顔は強い。強いけど刺さらないとき、すごく助かる。
「近い近い」
おばさんが短く言った。
「すみません、札が見えなくて」
若い人が言う。言い方が確認。断定じゃない。助かる。
「見えないなら、呼べばいいんだよ」
おばさんが言った。
呼べばいい。
簡単な言葉ほど、増える入口になる。
案の定、別の人が食いついた。
「じゃあ呼んでください! 番号で!」
「番号ならいいよね」
「名前はやめてね」
「じゃあ、鐘みたいなの鳴らせば」
「鳴らすな」
ユリネが反射で刺した。
鳴らす、は効きすぎる。
効きすぎる合図は、人を丸ごと動かす。
丸ごと動くと、また詰まる。
タケルが真顔で言った。
「呼ぶのは一回」
「一回」
ハルが小さく復唱する。復唱は作法になる。
「呼ぶ人は一人」
「一人」
レンカが口を押さえながら復唱した。言えるなら止まれる。
おばさんがにやっと笑った。
「そうそう。呼ぶのは一人。呼び声は一回。返事は……」
返事、が出ると増える。返事が増えると、また湯屋が口だらけになる。
「返事は、手」
ユリネが短く言った。
「手?」
「手を上げる。声は増やすな」
おばさんが頷いた。
「よし。じゃあ私が呼ぶ」
呼ぶ人が決まると、背中が少し離れた。
離れると入口が息をする。息をすると、湯気が逃げない。逃げない湯気は勝ちだ。
おばさんは釘の札を見て、短く言った。
「次、五」
一回。
一語。
それだけ。
五の札を持っていた人が、黙って手を上げた。
声は出ない。出ないから、湯気の中でも刺さらない。
おばさんが顎で示す。
「どうぞ」
五が入る。
入口が一歩空く。
空いた入口に、四が寄りかける。寄るとまた詰まる。ここで止める。
「近い」
おばさんが短く言った。
四が一歩下がる。下がれるなら勝ち。
次。
「次、六」
六が手を上げる。
声は出ない。
それだけで、入口の背中が一本になる。
……一本になった瞬間に、別の混線が来た。
“呼ばれたい”が増えると、“呼ばれたくない”も出る。
脱衣所の奥から、ひそひそ声。
「番号呼ばれるの、恥ずかしい」
「分かる」
「でも見えないし」
恥ずかしい、は刺さる。
刺さると、呼ぶ声が強くなる。強くなると増える。
だから、恥ずかしいは増やさないで沈める。
コトが小さく言った。
「呼ぶのは番号だけ。誰かは言わない」
「番号でも誰かだよ」
ひそひそが返る。
「だから返事は手。声を出さないと、誰か分かりにくい」
コトの言い方が、生活の逃がし方だ。刺さらない。
シノがぼそり。
「……湯気、味方」
「味方にするな」
ユリネが刺す。
「……胸の中で、隠れる」
シノが言い直す。言い直せるなら勝ち。
湯気は隠してくれる。隠れるなら恥が減る。減ったって言うな。胸の中で減る。
湯屋の中は、いつも通りの湯だった。
ふわ、と熱い。
熱いと、肩が落ちる。
肩が落ちると、早い顔が抜ける。
抜けた顔は、呼ばれても慌てない。慌てないと詰まらない。
ところが、呼び方の作法は、入口だけじゃ足りない。
上がり湯の桶が、通路の真ん中に出た。
誰の桶か分からない。分からないと触れない。触れないと避ける。避けると狭い。狭いとまた詰まる。
「桶、どなたの」
おばさんが一回だけ声を出した。
一回で止まる声。
端のほうで手が上がる。声は出ない。
持ち主が自分で桶を引く。
終わり。終わると増えない。
レンカが湯の縁で、息を吐いた。
「……呼ばれると、離れられるね」
「言うな」
ユリネが刺す。
「……胸の中で、離れられる」
「胸の中なら勝手にしろ」
離れられる、は大きい。
入口から離れられる。
釘から離れられる。
離れられるから、湯屋が湯屋のまま。
でも、作法は油断すると崩れる。
“呼ばれる”が便利に見えてしまうからだ。便利って言うな。
若い人が、湯の縁で言いかけた。
「じゃあさ、札じゃなくて、最初から呼び順を……」
「増やすな」
ユリネが短く切った。
「えっ」
「決め事が増えると守れない」
「……胸の中で、守れない」
若い人が言い直して、湯に沈んだ。沈むのは増えていい。湯の沈みは生活だ。
おばさんが、湯気の向こうで笑った。
「札は札。呼びは“見えないときだけ”」
見えないときだけ。
それくらいの雑さが、湯屋にはちょうどいい。
その頃、別の場所でも“呼びたさ”が芽を出していた。
---
申請受付審査室。
チヨが机に突っ伏している。
突っ伏しているのに、今日は泣いてない。泣いてないのが怖い。
「……呼び出しが欲しい」
チヨが言った。
「何を」
ナギが淡々。
「欄が増えそうになったら、呼び出し……」
「増やすな」
マドカが廊下から刺す。
「呼び出すと、人が集まる」
ナギが淡々。
「集まると、欄が増える」
チヨが机に額を当てた。
「……呼ばれるの、便利なのに……」
「便利って言うな」
三人同時に言って、なぜか少し笑った。刺さらない笑いだけが救命具。
---
湯屋に戻る。
上がり口の釘に札が戻される、かたん、の音がする。
音がすると、次が分かる。
分かるのに、湯気で見えない時がある。
見えない時だけ、呼ぶ。
それで足りる。足りるって言うな。胸の中で足りる。
ところが、最後のひと詰まりが来る。
“出るときだけ”が、脱衣所の手前で渋滞を作る日がある。
今日はその日だった。
脱衣所の入口で、みんなが同じタイミングで動いてしまう。
同時は詰まる。詰まると湯気が濡れ布に落ちる。濡れ布が床を湿らせる。湿ると滑る。滑ると焦る。焦ると声が増える。
「すみません!」
「ごめん!」
「ちょっと!」
声が増えかけた瞬間、レンカが息を吸った。
止まれる呼吸。最近の救命具。
「……出るときだけ」
レンカが小さく言った。
言い方が震えてない。強い。
おばさんがすぐ拾う。
「出るときだけ。呼ぶのも一回」
「呼ぶ?」
「“出ます”は一回でいい」
出ます、が一回。
返事は手。
それだけで、人の足が半歩ずれる。
半歩ずれると道が太る。太ると出られる。出られると渋滞がほどける。
タケルが真顔で壁際を指した。
「止まるなら壁。道は一本」
一本。
一本と言われると、人は勝手に一本になる。不思議だが、生活はそういうものだ。
結び家が湯屋を出るころ、入口の空気はもう柔らかかった。
呼ぶ声は一回。
手が上がる。
札が戻る。
湯気が逃げない。
レンカが夜風を吸って、ぽつり。
「呼ばれるって、助かるね」
「助かるって言うな」
ユリネが刺す。
「……胸の中で助かる」
「胸の中なら勝手にしろ」
家に戻ると、鍋が鳴っていた。
湯屋の湯気とは違う、飯の湯気が上がる。
湯気は増えていい。増える湯気は生活の勝利だ。
ミナギが椀を取ろうとして、
「順番」
ユリネが一言。
「……はい」
ミナギが言い直す。言い直せるなら勝ち。
タケルが真顔で言った。
「今日、呼ぶのが必要だった」
「言うな」
ユリネが刺す。
「……胸の中で必要」
「胸の中なら勝手にしろ」
ハルが小さく頷く。
「……見えないときだけ、で止まった」
シノがぼそり。
「……湯気、隠れた」
コトが笑う。
「合図欲しい、って言うより、呼ばれたい、ってこともあるんだね」
「言うな」
「……胸の中で、呼ばれたい」
コトが言い直して、刺さらない笑いが湯気に混ざった。
ユリネが短く言う。
「飯! 湯!」
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