井戸当番が“見落とす”
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
真昼山の山頂に、ひとりの子どもが降り立った。 名はハル。泣きそうなほど眩しい朝日を見上げたその瞬間、世界は“きれいすぎる”方向へ盛られてしまう。音は響きすぎ、匂いは良すぎ、善意は増えすぎる。 原因は神界の「泣かせない係」。 生活感のあるお役所みたいな職員室で、主犯神アマネが今日も宣言する。 「おねぇちゃんに、まかせて!」 涙ゼロを目指すあまり、世界を盛りすぎて大パニック。ゆれりんが鳴れば朝礼集合、盛っては直して反省会。なおし係まで巻き込まれ、業務はいつも過多になる。 一方、地上では麓の共同保護の家「結び家」が、飯と湯と順番で今日も回る。 パニックは去らない。だけど生活に編み込めば、笑って眠れる。 泣かせないおねぇちゃんと、泣く暇のない日常が出会う、ドタバタほのぼのハイファンタジー。
本文
井戸の朝は、音が先だ。
ぎい。きゅ。ぽちゃん。
それが揃うと、胸が勝手に「回る」に落ち着く。
今日は、揃ってない。
「……音、変」
ハルが小さく言った。
「言うな」
ユリネが即座に刺す。
「……胸の中で、変」
「胸の中なら勝手にしろ」
水場に近づくにつれて、音が増えていく。
桶の縁が当たる音。足が石畳を擦る音。声が重なる音。
増えるのはいつものことだ。増え方が“雑”だと、今日は危ない。
井戸の横に、当番の人がいた。
腕まくり。桶の列。ロープの端。
ちゃんと立っているのに、目があちこちへ飛んでいる。
「次の人、どうぞー」
当番の人が言って、すぐ別の方向を見る。
見る方向は、干し場へ行く道。朝市へ行く道。子どもが走り出しそうな方向。
当番の目は忙しい。忙しい目は、ひとつ見落とす。
見落としたのは、線だった。
欠け桶が、いない。
いつも“ここまで”を黙って教えてくれる、欠けた縁の桶。
いないと、水の高さが人の気分になる。気分は増える。増えると混ざる。
「……欠け桶、どこ」
レンカが言いかけて、口を押さえた。えらい。
「言うな」
ユリネが刺す。
「……胸の中で、どこ」
「胸の中なら勝手にしろ」
当番の人は、気づいてない。
ロープを引く手は動いているのに、目印が消えていることに気づかない。
気づかないまま、次の桶が満ちる。
そして最初の事故は、だいたい小さい。
ざば。
水が縁を越えた。
越えた水が、石畳を一段だけ濡らす。濡れると滑る。滑ると焦る。焦ると声が増える。
「うわっ」
若い人が半歩ずれて、転びはしない。転びはしないのが救い。
でも半歩ずれると、後ろの桶が揺れる。揺れるとロープが鳴る。鳴り方が変わる。
「……こぼれた」
当番の人がやっと気づいた。
気づいたのは水で、線じゃない。
水に気づくと“拭く手”が増える。拭く手が増えると、また混ざる。
「拭きます! 私、拭きます!」
レンカが言いかけて、止めた。えらい。
止めたまま、目がきらきらしてる。危ない。善意は走る。
「拭くな」
ユリネが短く言った。
「えっ、でも滑る」
「滑るのは分かる。だから順だ」
タケルが真顔で、道を一本だけ作る。
濡れた石畳の端を避ける線。
避ける線があると、踏まない。踏まないと、拭き手が増えない。
「通るのは外。汲むのは中。しゃがむのは本人だけ」
真顔の短文は強い。強いのに刺さらない。
人が半歩ずつずれて、濡れた場所が“ただの端”に戻る。
当番の人が汗を拭いて言った。
「ごめん、今日、どこまで入れてたっけ」
どこまで。
その言葉が出ると、次が来る。
「足りない?」
「多い?」
「公平にしないと」
「升で量る?」
公平。升。量る。
全部、増える入口だ。入口が開くと、井戸が“秤屋”になる。
秤屋は秤屋でいい。井戸は井戸でいてほしい。
ミナギが口を開けかけた。
「公平ってさ」
「言うな」
ユリネが刺す。
「……胸の中で公平」
「胸の中でも言うな」
コトが一歩だけ前に出て、当番の人の目線を井戸へ戻す。
声は増やさない笑顔で、短く。
「見る場所がないから、口が増えるんだね」
「見る場所?」
当番の人が眉を寄せる。確認の顔だ。助かる。
ユリネが短く言った。
「見る」
それだけ。
言うだけで、周りの口が一瞬止まる。止まると、次の一手が置ける。
タケルが真顔で、水面の位置を指で示した。指先だけ。増えない。
「ここまで、って目が欲しい」
「目?」
「欠け桶」
ハルが小さく言った。
欠け桶。言い切りじゃない。探すための単語。これがちょうどいい。
レンカが息を吸って止めて、言い直した。
「……探す。走らないで探す」
「よし」
ユリネが短く頷く。止まれるなら勝ち。
欠け桶は、すぐ近くにいた。
子どもが、ひっくり返して椅子にしていたのだ。
椅子にした子どもは悪くない。目印は座り心地がいい顔をしているのが悪い。
「それ、ここまでのやつ」
コトが優しく言う。
「ここまで?」
子どもが首を傾げる。
「水の高さ、これ」
タケルが真顔で欠けを指した。
子どもはぱっと顔を明るくして、桶を抱え直した。
「じゃあ返す!」
「返すのはいい。走るな」
ユリネが短く言った。
「走らない!」
子どもが言い直して、てくてく戻ってくる。言い直せるなら勝ち。子どもの勝ちは早い。
欠け桶が井戸の横に戻る。
戻った瞬間、空気が一段だけ静かになる。
見えるものが一つあるだけで、口が減る。減ったって言うな。胸の中で減る。
……なのに、当番の人が、まだ迷っている顔をしていた。
「ごめん、今日、誰が最後に欠けまでやった?」
当番の人が言った。
見落としは欠け桶だけじゃない。
当番の“引き継ぎ”も、見落としている。
引き継ぎが薄いと、当番は当番で泣く。
泣く前に止める。止めるのは責めじゃない。生活の手順だ。
「聞く前に、見る」
タケルが真顔で言った。
昨日の言葉が、井戸にも刺さる。
当番の人が、欠け桶の欠けを見た。
欠けの位置まで水が入っている桶と、入っていない桶がある。
見れば分かる。分かると、声が増えない。
「……欠けまで、やってない人がいる」
当番の人が小さく言った。
責めの言い方じゃない。確認の言い方。助かる。
ユリネが短く言った。
「じゃあ、欠けまで」
「はい」
当番の人が頷く。
ここで、また善意が割り込む。
「私、揃えてあげようか?」
揃える。危ない。
他人の桶に手が入ると、責任が増える。責任が増えると、預けが生える。預けは直し屋で懲りた。
「触るな」
ユリネが短く言った。
「えっ、でも早い」
「早いって言うな」
「……胸の中で早い」
「胸の中でも言うな」
コトが柔らかく言い換える。
「本人の手だけ。欠けは見るだけ。声は一回」
「一回」
当番の人が復唱して、口をきゅっと結んだ。復唱できるなら勝ち。
当番の人は、やり方を変えた。
大声で呼ばない。
番号も作らない。
ただ、欠け桶を指でとん、と叩く。小さい音。呼び笛にならない音。
そのあと、短く言う。
「欠けまで」
一語。
一語で足りると、井戸が井戸に戻る。
人が自分の桶を見て、自分の手で引いて、自分の桶を欠けまでにする。
欠けまでになったら、次へ行く。
次へ行く背中が増えると、列が細くなる。細くなると、濡れが増えない。
さっきこぼれた水の端を、当番の人が自分で足の裏で確かめた。
滑りそうな場所だけ、避ける線の外へ誘導する。
拭かない。増やさない。
それで十分になる。十分って言うな。胸の中で十分。
しばらくして、井戸の音が揃ってきた。
ぎい。きゅ。ぽちゃん。
揃うと、当番の人の肩が落ちる。
落ちると、見落としが減る。減ったって言うな。胸の中で減る。
レンカが小さく言った。
「……欠け桶、いないと怖いね」
「言うな」
ユリネが刺す。
「……胸の中で怖い」
「胸の中なら勝手にしろ」
当番の人が苦笑いした。
「ごめん、見落としてた。次から、最初に欠け桶を置く」
「決まりにするな」
ユリネが即座に刺す。
「えっ」
「決まりが増えると守れない。今日は“思い出す”でいい」
刺さらない硬さ。生活向き。
当番の人は頷いて、言い直した。
「……胸の中で、思い出す」
周りが少し笑った。刺さらない笑いが水場を丸くする。
帰り道、レンカがぽつりと漏らす。
「あの角の板みたいに、井戸にも“見える一言”欲しいね」
合図欲しいが、形を変えて出た。
欲しいは危ない。増やしたくなる。増やすと、また守れなくなる。
でも“必要”は、今日の見落としが教えてしまった。
「言うな」
ユリネが刺す。
「……胸の中で、見える一言」
レンカが言い直して、口を押さえた。えらい。
まだ作らない。まだ説明しない。
でも胸の中に芽が立つ。芽は、今は胸の中で十分。
家に戻ると、汲んだ水が台所の隅で待っていた。
鍋に入れる。野菜を入れる。豆を入れる。
ぐつ、ぐつ。
湯気が上がる。湯気は増えていい。増える湯気は生活の勝利だ。
ミナギが椀を取ろうとして、
「順番」
ユリネが一言。
「……はい」
ミナギが言い直す。言い直せるなら勝ち。
タケルが真顔で言った。
「今日の井戸、線が無いと混ざるな」
「言うな」
ユリネが刺す。
「……胸の中で混ざる」
「胸の中なら勝手にしろ」
ハルが小さく頷く。
「……欠け、見えると戻る」
シノがぼそり。
「……手、増えなかった」
レンカが小さく宣言して、すぐ自分で口を押さえた。
「今日、走らなかった!」
「言うな」
「……胸の中で、えらい」
「褒めるな。増える」
「……胸の中で褒める」
刺さらない笑いが湯気に混ざって、台所が軽くなる。
見落としはあった。
でも順番で戻した。
戻したなら、明日も回る。
ユリネが短く言う。
「飯! 湯!」
作品統計
📚 本を探すなら「よみどき」(あいぺんが運営する本の発見サイト)
130万冊を超えるコミック・小説・書籍の順位と値段を毎日みて、いま読むものを決められます。