忘れないために結ぶ
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
真昼山の山頂に、ひとりの子どもが降り立った。 名はハル。泣きそうなほど眩しい朝日を見上げたその瞬間、世界は“きれいすぎる”方向へ盛られてしまう。音は響きすぎ、匂いは良すぎ、善意は増えすぎる。 原因は神界の「泣かせない係」。 生活感のあるお役所みたいな職員室で、主犯神アマネが今日も宣言する。 「おねぇちゃんに、まかせて!」 涙ゼロを目指すあまり、世界を盛りすぎて大パニック。ゆれりんが鳴れば朝礼集合、盛っては直して反省会。なおし係まで巻き込まれ、業務はいつも過多になる。 一方、地上では麓の共同保護の家「結び家」が、飯と湯と順番で今日も回る。 パニックは去らない。だけど生活に編み込めば、笑って眠れる。 泣かせないおねぇちゃんと、泣く暇のない日常が出会う、ドタバタほのぼのハイファンタジー。
本文
角の朝は、静かだった。
板は板。釘は一本。木札は一枚。輪は一つ。箱は閉じてる。欠けの石は欠けたまま。
静かだ。静かって言うな。胸の中で静か。
静かなのに、今日の困りは“静かに増える”種類だった。
待たない。溜まらない。口も太らない。
でも、みんなの手の中だけが少しずつ重い。
昨日、欠けの前で待つのはやめた。
木皿に置きっぱなしもやめた。
“今じゃない”は胸にしまう。
そこまでは出来た。
問題は、その次だ。
「……胸にしまうと、忘れる」
レンカが小さく言って、すぐ口を押さえた。
「言うな」
ユリネが即座に刺す。
「……胸の中で忘れる」
「胸の中でも困る」
板番のおばさんが腕を組んだ。
「忘れるのは、当たり前」
雑だ。雑だけど合っている。
当たり前と言われると、みんな少しだけ肩を落とせる。落とせると、余計な知恵が太りにくい。
若い人が、手の中の小さい鍵を見せた。
「夕方、箱が開くときに入れたいんだけど」
「入れたいは持っとけ」
ユリネが短く言う。
「置くな」
「……はい」
別のおばさんは、布を握っていた。
「湯屋番に返したい手ぬぐい」
「返すのは返せ。朝に置くな」
「じゃあ忘れる」
「忘れる前提で箱を増やすな」
直し屋の留め具もいる。
朝市で間違って持ってきた木皿もいる。
箱の前で拾った針金もいる。
みんな“夕方の予定”を手の中に抱えていた。
抱えるのはいい。
でも抱えると、手が塞がる。
手が塞がると桶が持ちにくい。
桶が遅れると井戸が遅れる。
井戸が遅れると、洗いも干し場も重くなる。
生活は、予定に足を引っ張られると急に軽くなくなる。
ミナギが口を開けた。
「じゃあさ、角に“夕方箱”——」
「作るな」
ユリネが切った。
「えっ、でも忘れないように」
「忘れないための箱が増えると、今度は箱を忘れる」
「それはやだ」
「だろ」
タケルが真顔で欠けの石を見た。
欠けは便利じゃない。便利じゃないから太らない。
でも便利にしようとすると、すぐ役目が増える。
役目が増えると、朝が重くなる。
コトが笑顔のまま、一歩だけ前へ出た。
一歩だけ。増やさない距離。
「置かないで忘れない方法、だね」
言い方が軽い。軽いのに、場がちゃんとそこを見る。
ハルが籠の持ち手を指でつついた。
「……結ぶ」
ユリネが反射で、
「言う——」
まで言って止まった。
止まったのが助かる。
ハルの“結ぶ”は、増やす結ぶじゃない。思い出す結ぶだ。
「何を」
若い人が聞く。
確認だけの声だ。断定じゃない。こういう声は場を荒らさない。
ハルは、自分の籠の持ち手の端を見せた。
細い紐が通っている。
その端に、ひと結び。
小さい結び目。
言われないと見落とすくらいの大きさだ。
「……指が当たる」
ハルが言う。
「当たると、あ、ってなる」
「それだけ?」
レンカが首を傾げる。
「……それだけ」
ハルは頷いた。
「それだけで、思い出す」
板番のおばさんが、短く言った。
「置かない。結ぶ」
その一言で、場の空気が少し整う。
置くは場所を呼ぶ。結ぶは自分に戻る。
その違いは大きい。
でも、ここからが危ない。
結ぶ、は簡単だ。
簡単だと、人はすぐ増やしたがる。
「じゃあ二回結べば絶対忘れないよね!」
ミナギが言いかけて、ユリネに見られて口を押さえた。遅い。
「二回結ぶな」
ユリネが言う。
「一回でいい」
「なんで」
「ほどけないと次が面倒だ」
タケルが真顔で補助した。
昨日の布で学んだやつだ。学んだことが生活に戻るのはいい。
直し屋の人が、こり、こりしながら角を通った。
通りながら一言だけ落とす。
「結ぶなら、本人が触る場所」
短い。短いから増えない。
本人が触る場所。
それだけで十分だった。
若い人が、鍵を持つ手と反対の腰紐の端をつまんだ。
ひと結び。
小さい。
それだけで、鍵はポケットへ戻る。
手が空く。
手が空くと桶が持てる。
桶が持てると、朝は朝の順番へ戻る。
今日はそれでいい。
「わ、みんな結んでる」
子どもが寄ってきた。
こうなる。
結び目は子どもの目を引く。目を引くと、触りたくなる。触りたくなると、遊びになる。増やすな。
「触るな」
ユリネが短く言った。
短いのに、子どもの手が止まる。止まれるなら勝ちだ。
シノがぼそり。
「……自分のだけ」
「そう」
コトが拾う。
「人のを結ぶと、誰の用か分からなくなる」
子どもは少し考えてから、自分の服の端をつまんだ。
「ぼくも?」
「お前は用がある時だけ」
ユリネが言う。
「いまは」
タケルが真顔で続ける。
「背中に手」
「……はい」
子どもは素直に背中へ手を回した。
それでいい。
結ばないで守れるなら、その方が軽い。
案の定、“結び係”も出た。
「結べない人、結んであげるよ」
善意だ。善意はすぐ走る。
「結ぶな」
ユリネが切る。
「えっ、でも不器用な人いるし」
「不器用は不器用のまま一回やれ」
「言い方」
「言うな」
コトが笑う。
「上手い結び目じゃなくていいんだよ。ある、でいいの」
ある、でいい。
それなら比べない。
比べないと、並ばない。
板番のおばさんが地面を指でとん、と叩いた。
「本人の手だけ」
「一回だけ」
「結べないなら、胸で持て」
三つ。
三つだけ。
増やすためじゃなく、戻すための三つだ。
それで足りた。
みんな、自分の紐にひと結びだけ作って、角を離れた。
離れると角が軽い。
軽いと朝市の匂いが先に来る。
匂いが先に来ると、朝は朝の顔へ戻る。
昼。
結び家は生活を回した。
井戸は欠けまで。
干し場は空ばさみ。
朝市は内と外。
箱は閉じてる。
板は見るだけ。
輪は箱にならない。
欠けの前は空いている。
誰も、思い出すために立ち止まらない。
立ち止まらなくていいように、手の近くに小さい合図だけがある。
夕方。
結び目が効いた。
腰紐の結び目に指が当たる。
そこで、あ、と思う。
思い出したら、角へ寄る。
寄るけど、溜まらない。待たないからだ。
若い人は鍵を持ってきた。
箱は一回だけ開いた。
板番のおばさんが見る。
入れたら終わり。
湯屋番の手ぬぐいも戻った。
ハルが小さく、
「……手ぬぐい」
一回だけ言う。
湯屋番が頷いて受け取る。
渡したら終わり。
直し屋の留め具も戻った。
朝市の木皿も戻った。
針金も戻った。
どれも、そこで話が太らなかった。
返したい気持ちは胸に置いたまま、返す手だけが動いた。
誰かが拍手しそうになって、やめた。
それもよかった。
今日は褒める日じゃない。
増やさないで戻せたことが、そのまま今日の形だからだ。
夜。家。
鍋が鳴っている。
ごっちゃ煮スープの湯気が上がる。
湯気は増えていい。増える湯気は生活の勝ちだ。
ミナギが椀を取ろうとして、
「順番」
ユリネが一言。
「……はい」
ミナギが引っ込める。引っ込められるなら大丈夫だ。
レンカが小さく笑った。
「今日、置かなかったね」
「待たなかった」
タケルが真顔で言う。
「結び目、一回で足りた」
ハルが頷く。
「……手が覚えた」
シノがぼそり。
「……触らないで守れた」
コトが笑って、椀を配る。
いつもの順番だ。
いつもの順番なのに、少しだけ違う。
今日は、誰かが大声で正解を言わなくても、昼と夕方までちゃんと戻れた。
ユリネが短く言う。
「飯! 湯!」
湯のあと、家へ戻る頃には、角はもう暗かった。
板は板。
釘は一本。
木札は一枚。
輪は一つ。
箱は閉じてる。
欠けの石は欠けたまま。
見えるものは、ほとんど増えていない。
それなのに、朝より出来ることだけが少し増えていた。
置かないで戻す。
待たないで回す。
人の手を借りすぎず、自分の手で思い出す。
大きな決まりは増えていない。
札も、箱も、欄も増えていない。
増えたのは、小さい結び目ひとつぶんの手順だけだ。
それで足りる朝まで、ようやく来た。
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