合唱M1:声を出さない練習
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
学校の片隅に置かれた「応援ポスト」。 HELP(困ってる)とTHANKS(助かった)を、誰でも匿名で入れられる。 返事も誰でも書ける。極稀に先生も書く。ただし、ひとつだけルールがある。 “追伸だけは必ず書くこと。” 中学も、高校も、大学も。 頑張り方に迷う誰かの紙に、知らない誰かの言葉が届く。 励ましじゃなくて、明日を軽くする「やり方」が、追伸に残る。 学園青春×短編連作 匿名お悩み相談(手紙) じんわり回復+時々クスッ 更新:週1は守ります。基本14時に届きます。たまに増えます。
本文
中学の教室、高校の廊下、大学の掲示板のそば。
どこにでも現れる「応援ポスト」には、毎週ちがうHELPが届く。
返事を書くのは、同級生かもしれない。先輩かもしれない。先生かもしれない。
共通しているのはひとつだけ。
“追伸だけは必ず。”
文化の日の学校には、音がまだ出ていなかった。
祝日なので授業はない。けれど、合唱の掲示だけは廊下に増えていた。
音楽室予約表。
クラス練習日程。
パート分けの仮表。
伴奏者と指揮者の名前。
歌詞カード配布について。
文化祭の赤と青が片付いてから、校舎は少し静かになったはずだった。なのに、今度は静けさの中に「これから声が出る予定」が貼られている。
声はまだ聞こえない。
でも、廊下の紙がもう少しだけ緊張していた。
応援ポストの前にも、朝からHELPが貼られていた。
【HELP】
合唱の練習が始まります。
でも、声を出す前から苦手です。
歌が下手とか以前に、みんなの前で最初の一音を出すのが怖いです。
声を出さない練習ってありますか。
その隣には、別の紙。
【HELP】
パート分けで、どこに入ればいいか分かりません。
高い声も低い声も自信がありません。
「とりあえず歌ってみて」と言われるのが一番怖いです。
まだ歌ってないのに、もう逃げたいです。
合唱は、声を合わせる行事だ。
けれど、声を合わせる前に、自分の声を出さなければならない。
そこが最初の山だった。
板の前にいた子が、音楽室予約表を見上げた。今日は祝日なので、予約欄は細くしか埋まっていない。部活と、有志練習と、実行側の確認。けれど来週からは、放課後の欄がぎっしりになるらしい。
「合唱って、歌う前が一番怖い」
「分かる。最初の声、誰かに見られてる感じする」
「聞かれてる、じゃなくて?」
「見られてる。声なのに」
「声、見える日あるよね」
「怖いこと言うな」
笑いは小さかった。
文化祭のときの笑いより、少し低い。合唱の話になると、廊下の声も自然と小さくなる。まだ歌っていないのに、もう音量を気にしているみたいだった。
最初の返事は、太い字で貼られた。
【返事】
声を出さない練習はあります。
まず、歌わないで準備する。
・歌詞を目で追う
・息を吸う場所に印をつける
・立つ位置だけ決める
・口を開けずにリズムだけ取る
・隣の人と「最初は小さく」で合意する
声は、急に出すものじゃなくて、出る場所を先に作るものです。
追伸:一音目の前にも、練習はちゃんとあります。
一音目の前。
その言葉で、HELPを書いた子が少し顔を上げた。
合唱の練習は、声を出したところから始まると思っていた。だから、声を出せない自分は、スタート地点にも立てていない気がしていた。
でも、一音目の前にも練習があるなら、まだできることがある。
次の返事は、丸い字だった。
【返事】
パート分けが怖い人は、「決定」より先に「試し置き」にする。
言い方の例。
「今日は仮でここに立ちます」
「高いところが苦しかったら相談します」
「一回だけ隣で聞かせてください」
パートは人格ではありません。
合わなければ調整する場所です。
追伸:声の置き場所は、最初から正解じゃなくていい。
声の置き場所。
その言い方は、文化祭で使った「仮係」に少し似ていた。
合唱にも仮があっていい。
仮ソプラノ。
仮アルト。
仮低音。
言葉にすると少し変だけれど、変だから軽くなる。名前をつけると、怖さの輪郭が少しゆるむ。
三枚目の返事は、細い字で、余白が多かった。
【返事】
合唱は、声を大きくする競争ではありません。
M1は、声を出す前の整列回です。
・立つ
・見る
・息を合わせる
・聞く
・小さく出して戻す
最初から響かせなくていい。
追伸:小さい声で戻ってこられる場所があると、次に少しだけ出せます。
小さい声で戻ってこられる場所。
廊下にいた何人かが、黙ってその一文を読んだ。
合唱の怖さは、出した声が戻ってこない感じにもある。出してしまったら、教室中に広がって、誰かの耳に入り、どこかで評価される。戻せない。取り消せない。
でも、小さく出して戻す練習なら、まだ怖さが少し細くなる。
その日の午後、音楽室の前には数人が集まっていた。
祝日なので正式な練習ではない。声出しをするわけでもない。合唱のプリントを見て、音楽室の使い方を確認して、パート分けの前に立ち位置だけ見ておく日だった。
音楽室には、独特のにおいがある。
木の床。
古い楽譜。
ピアノのふた。
椅子の脚についた小さい傷。
黒板には五線が引かれていて、端に小さく「予約表は廊下」と書いてあった。先生の字だ。先生は説明を少しして、すぐ職員室へ戻った。現実装置みたいに時間だけ置いていく。
残った生徒たちは、歌詞カードを手に立っていた。
歌わないのに、立っている。
それだけで少し変だった。
「今日、声出さないんだよね」
「出さない」
「本当に?」
「たぶん」
「出さない練習って逆に緊張する」
最初のHELPを書いた子は、歌詞カードを握っていた。
紙の端が少し曲がる。
歌詞は読める。
曲も聞いたことがある。
でも、ここで自分の声を出す想像をすると、喉が急に細くなる。喉の中に、小さな門番が立つ。通行止めです、という顔で。
今日は声を出さない。
そのはずなのに、怖い。
怖いのは、声そのものではなく、声を出すことが決まっている未来なのかもしれない。
その子は、返事に書いてあった通り、歌詞を目で追った。
一行目。
二行目。
息を吸いそうな場所に、小さく丸をつける。
歌わない。
丸をつけるだけ。
それでも、紙の中に少し道ができた。
隣の子が、同じ歌詞カードをのぞき込んだ。
「そこ、息?」
「たぶん」
「私、もっと前で吸いそう」
「じゃあ違うかも」
「違ってもいいんじゃない? 今日、声出さないし」
今日、声出さないし。
その言葉が、妙に効いた。
声を出さない練習は、失敗しても音にならない。音にならないから、間違いが少しやわらかい。
別の場所では、パート分けが怖い子が、音楽室の後ろに立っていた。
ソプラノ、アルト、低音。
紙にはそう書いてある。でも、自分の声がどこに入るのか分からない。高い声は出る日と出ない日がある。低い声は落ち着くけれど、低すぎるところは苦しい。どこに立っても、違う気がする。
「とりあえず、こっち立ってみる?」
誰かに言われて、足が止まった。
とりあえず。
その言葉は、軽く見えて重いときがある。とりあえず立った場所が、そのまま決定になるかもしれない。そこで歌えなかったら、できない人に見えるかもしれない。
短い負けだった。
でも、文化祭の係表を思い出した。
仮。
保留。
戻り道。
それから、今日の返事。
今日は仮でここに立ちます。
高いところが苦しかったら相談します。
その子は、声を出す前に言った。
「今日は仮でここに立つ。高いところが苦しかったら相談する」
言ってから、少し恥ずかしくなった。
手順をそのまま読んだみたいだったからだ。
でも、隣の子は普通にうなずいた。
「いいと思う。私も仮」
「仮?」
「仮アルト」
「そんな言葉ある?」
「今できた」
仮アルト。
それだけで、立つ場所が少し軽くなった。
音楽室の黒板には、誰かが小さく書き足した。
【今日やる】
・歌詞を目で追う
・息の場所に印
・立つ位置を仮で見る
・声は出さない
・出しても小さく戻す
【今日やらない】
・本決定
・大声
・できる人探し
・誰の声がいいか評価
今日やらない、がまた戻ってきた。
文化祭で何度も助けられた言葉だ。合唱にも効くらしい。行事は違っても、手順はときどき同じ姿で帰ってくる。
廊下の掲示板には、音楽室予約表の横に、小さなメモが増えた。
【合唱M1メモ】
声を出す前に、声の場所を作る。
音楽室、廊下、教室。
どこで声を出すかも練習の一部。
音楽室から出ると、廊下が少し響いた。
誰も歌っていないのに、床や壁が音を待っているようだった。合唱の時期の廊下は、残響を先に覚える。まだ声が入っていない箱みたいに、空っぽなのに少し鳴る。
その空っぽの音が怖い子もいた。
【HELP】
声を出していないのに、廊下にいるだけで緊張します。
音楽室の前を通ると、自分の声を試される気がします。
合唱の空気に入るだけで疲れます。
歌う前から疲れているのは変ですか。
返事は、すぐに貼られた。
【返事】
歌う前から疲れるのは変じゃない。
合唱は、音だけの行事ではありません。
予約表、歌詞カード、立ち位置、廊下の残響、誰かの咳払い。
全部が「これから声を出す」に見える日があります。
そういう日は、音楽室の前を通るだけで一回練習。
入らない日も、入口の確認になります。
追伸:声を出していない疲れも、合唱の入口で起きています。
合唱の入口。
文化祭の入口とは違う。
でも、やっぱり入口だった。
入る前に止まる人がいる。見るだけの人がいる。戻る人がいる。入口を通れただけで、今日は十分な人もいる。
夕方、応援ポストにはTHANKSが貼られた。
【THANKS】
今日は声を出しませんでした。
歌詞を目で追って、息を吸いそうな場所に丸をつけました。
歌ってないのに練習したと言っていいのか不安だったけど、一音目の前にも練習がある、で少し楽になりました。
丸が三つ増えました。
その下に、別のTHANKS。
【THANKS】
パートを仮で置けました。
「今日は仮でここに立つ。苦しかったら相談する」と言いました。
仮アルトという言葉ができました。
本決定じゃないと思ったら、立つだけならできました。
さらに、廊下で止まっていた子からのTHANKS。
【THANKS】
音楽室には入りませんでした。
でも予約表を見ました。
中から声は聞こえなかったけど、廊下の響きで少し緊張しました。
音楽室の前を通るだけでも入口の確認、と言ってもらえて助かりました。
音楽室には入りませんでした。
でも予約表を見ました。
その二行は、小さいけれど大事だった。
合唱の練習は、歌えた人だけのものではない。歌う前で止まった人もいる。音楽室の前で足が止まった人もいる。予約表を見るだけで帰った人もいる。でも、そこにも入口はあった。
最後に、白い返事が一枚貼られた。字はゆっくりで、紙の上に静かに立っていた。
【返事】
合唱のM1は、声を出す回ではなく、声の前に場所を作る回です。
歌詞を見る。
息の印をつける。
仮で立つ。
今日やらないことを決める。
音楽室の前を通る。
小さく出して、戻せる場所を知る。
声は、ひとりで急に飛び出すものではありません。
紙と、床と、隣の人と、息の場所に支えられて出てきます。
追伸:声を出さない練習は、声が出る前の自分を置いていかないためにあります。
声が出る前の自分。
その言葉を読んで、HELPを書いた子は歌詞カードをもう一度見た。
丸が三つある。
まだ歌っていない。
まだ上手でも下手でもない。
でも、丸はある。
立つ場所も仮で決まった。
今日やらないことも黒板に書いた。
音楽室予約表の前を通るだけで疲れた人も、疲れたと書けた。
文化の日に、派手な文化らしいことは何もしていないかもしれない。
歌もまだ響いていない。
けれど、声のための場所は少しできた。
文化は、完成したものだけではない。声を出す前に、息の場所を探すこと。怖い一音目の前に、戻れる紙を置くこと。仮のパート名で立ってみること。音楽室の前で止まった足を、失敗と呼ばないこと。
そういうものも、たぶん文化の日に拾っていい。
帰り際、音楽室の前を通ると、誰かが黒板を消し忘れていた。
【声は出さない】
【でも練習】
その二行だけが残っていた。
誰かが消そうとして、少し迷った。
「消す?」
「明日まで残していいんじゃない」
「先生に怒られる?」
「端っこなら、たぶん」
「端っこ文化」
小さく笑って、そのままにした。
音楽室の扉が閉まる。
廊下には、まだ声はない。
でも、声の前にあるものが少しだけ増えた。
歌詞カードの丸。
仮アルト。
予約表を見る足。
小さく戻せる場所。
それなら、合唱の一日目はここからでいい。
追伸:まだ声にならない息にも、練習の名前をつけていい。
頑張る人ほど、追伸に救われる。
追伸は週1以上、基本は14時更新