13話 軽トラの助手席
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
風待町シリーズ ~寺~ - 13話 軽トラの助手席
本文
軽トラの助手席は、日向に置くと少しぬるい。
山門をくぐってきた車が車庫の前で止まり、志波恒一が運転席から降りた時、志波湊が最初に見たのはそこだった。ドアが半分だけ開いていて、助手席のビニールの面が夕方の光を受けている。つるっとして、少しだけ沈みそうで、何より高さがちょうどよさそうに見えた。
湊はすぐに駆け寄った。
「のる」
言うのが早い。
恒一は荷台のほうへ手をかけながら、振り返りもせずに返す。
「まだ降ろしてへん」
「のる」
「同じことを二回言うても、軽トラは増えんよ」
増えないが、湊はもう助手席のドアに手をかけていた。金具がかちゃりと鳴る。指先へ伝わる冷たさは少しだけで、すぐ下のビニールのぬるい手触りのほうが勝った。
「これ、いい」
「見れば分かる」
声がしたのは後ろからだった。智明が庫裏のほうから出てきて、軽トラと湊を見た瞬間、だいたい話を読んだ顔になる。
「何してる」
「助手席です」
湊が答える。
「見れば分かる。そうじゃなくて、何でそこへ行く」
「のる」
「だめだ」
早かった。けれど湊も早い。もう片足をステップへ乗せている。犬がその横で前足をかけ、どっちが先かみたいな顔で見上げていた。
恒一がようやく荷台から手を離す。
「止まっとるし、ええやろ」
「よくない」
「動かん」
「そういう話じゃない」
智明が言っているあいだに、湊は助手席へ半分入りこんだ。座る、というよりは、収まった、に近い。ビニールの面へお尻が落ちて、靴底がステップへこつんと当たる。座面の端に置かれていた軍手がずれて、ドアポケットの古い手ぬぐいが少し見えた。
ひななら「何で家のものがそこにあるんですか」と言いそうな並びだった。智明も似たような顔をした。
「だから、もう家の置き場にするなって言ってるだろ」
たしかに助手席には、軍手と手ぬぐいのほかに、空になった紙袋まで押しこんである。荷台へ積むほどではない、でも外へ置きっぱなしにもしたくないものが、しれっと寄っている。
湊はそれを別に変だと思っていない顔で、助手席の前を見た。
「いい」
「何が」
「ここ」
短い。けれど湊の中では十分だったらしい。高い。ぬるい。正面が広い。犬が見える。門も見える。家なのに少し違う。そういうもの全部をまとめて「いい」で済ませている顔だった。
犬が下から前足をもう一度かける。助手席の端へ鼻先を伸ばし、湊の膝を嗅いで、それからビニールの匂いを嗅ぐ。
「犬まで乗る気か」
智明が言う。
「こいつも、ええ席やと思っとるんやろ」
恒一が笑う。
「笑いごとじゃない」
そう言いながらも、智明は先に犬を下ろした。首輪はないので、胸の前へ手を入れて押し戻すだけだ。犬は素直に降りる。素直に降りるぶんだけ、余計に面倒だった。
「湊、降りろ」
「まだ」
「まだ、じゃない」
「のってる」
「見れば分かる」
そこで恒一が吹き出した。智明の眉が少し寄る。湊は助手席の前の取っ手へ手をかけて、しっかり収まる姿勢になっている。もう乗る前の顔ではなく、乗っている顔だった。
茶の間から、湯のみを置く音がした。こ、と小さい音。たぶん文江か美琴だろう。家の中はもう夕方の流れに入っているのに、車庫の前だけが少し引っかかっていた。
「湊」
智明が言う。
「軽トラは席じゃない」
「席ある」
「あるけど、そういう意味じゃない」
「でも、座る」
「座るな」
「座ってる」
言い返しの速さだけで、もう半分負けている。恒一はそこで口を挟まず、荷台の端へもたれて様子を見ていた。最初に動かした人間ほど、途中で手を引く顔をする。
湊は助手席のビニールを掌でなでた。
「つるつる」
その一言で、智明は少し黙った。触ったのだろう。たしかに、日向の助手席は少しぬるくて、つるつるしている。軽トラそのものの話ではなく、そういう手触りの話へ行かれると、止める言葉が少し細くなる。
「……動く時はだめだぞ」
先に出たのが、その線だった。
湊はすぐに顔を上げる。
「じゃあ、とまる」
「止まってる時だけでも、勝手に乗るな」
「のっていい?」
「聞くな」
「だめ?」
「今は、降りろ」
そこだけは戻した。戻したが、きれいには勝てない。湊は少し考えてから、ようやく助手席から降りた。靴底がステップへ触れて、こつ。次に地面へ降りて、砂利がしゃり、と鳴る。
犬がその空いた席を見た。
「おまえもだめ」
智明が先に言うと、犬は耳だけ動かした。
そのあと、茶の間へ入っても話は少し続いた。卓の端に湯のみが三つ並び、台所から味噌の匂いが来る。湊は座布団へ座ったまま、まだ助手席のほうを見ている顔だった。見ていないのに見ている時の顔だ。
「そんなに良かったか」
智明が聞く。
「いい」
「何がいい」
「高い」
「それだけか」
「つるつる」
それも足された。
恒一が湯のみを持つ。
「前、見えるしな」
「だから乗せるなって言ってる」
「乗せるいうても、今は家の前や」
「そこがだめなんだよ」
智明は言って、少しだけ疲れた顔になる。軽トラが家の前にあるから、家のものみたいに扱われる。助手席へ軍手が入り、手ぬぐいが入り、紙袋が入り、子どもが乗りたがる。そういう混ざり方が嫌なのだろう。嫌なのは分かるが、もう混ざり始めてもいる。
台所から美琴が声をかけた。
「ごはん前に荷台のだけ下ろしてくださいね」
「ほら」
智明がすぐに言う。
「車は仕事だ」
「うん」
湊はうなずいた。
「でも、助手席」
「切るな」
そこで恒一がまた笑う。いつもの揉め方だった。大きくならない。けれど収まりもしない。家の真ん中で、少しだけ転がり続ける。
夕飯のあと、外はもう少し暗くなった。軽トラのドアは閉まり、車庫の前は昼より静かだ。智明は最後に車の鍵を持って台所へ入った。流しの横、小さい器の並ぶ端へ、鍵を置く。
こと。
金属が器に当たる、小さく硬い音だった。
湊がその音で振り向く。
「かぎ」
「そうだ」
「またのる」
「乗らない」
「また」
「だめだ」
すぐ返ってくる。
智明は器の中の鍵を一度だけ見た。小さい器へ入ると、軽トラの鍵まで家のものみたいな顔になる。それがまた少し気に入らないらしく、指先で向きを直す。
「置き場まで決まってきたな」
恒一が後ろから言う。
「決めてない」
「決まっとる」
「決めてない」
同じやり取りのまま、台所の灯りが鍵へ落ちる。小さい器の底で、金属がもう一度だけ、かすかに鳴った。
誰もまだ、その鍵を奥へしまわなかった。
作品統計
📚 本を探すなら「よみどき」(あいぺんが運営する本の発見サイト)
130万冊を超えるコミック・小説・書籍の順位と値段を毎日みて、いま読むものを決められます。