14話 佐和さんが広げる
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
風待町シリーズ ~寺~ - 14話 佐和さんが広げる
本文
山門の石へ、陶器の音が小さく置かれた。
こと。
それから、ちん。
大きな音ではない。けれど、昼を少し過ぎた寺の山門では、そのくらいの軽さでも門の内へ残る。志波文江は縁側の端で洗った布巾を畳みながら、目だけ門のほうへ向けた。門柱の影に、女の人がひとり立っている。
黒崎佐和だった。
近所で見かける時と同じように、背筋がすっとしている。けれど今日は、両手に紺の風呂敷包みを抱えていた。置いた時に音がしたのは、その中身のせいらしい。
「こんにちは」
先に声を出したのは佐和だった。門の中をのぞきこみすぎない、ちょうどいい声の置き方をする。
「こんにちは」
台所の勝手口から美琴が出てくる。まだ濡れた手を布巾で拭きながら、風呂敷包みと佐和の顔を見て、それから山門の石の上へ目を落とした。
「あら」
「急にすみません」
佐和は少しだけ笑って、風呂敷の結び目へ手をかけた。
「使うならどうかなと思って」
紺の布が開く。結び目のきしむ音のあと、新聞紙にくるまれた丸いかたまりがいくつも出てくる。ひとつ、ふたつ、みっつ。紙の端が少し破れていて、その隙間から白い湯のみの縁が見えた。
「湯のみですか」
「ええ」
佐和はうなずいた。
「最初はうちの二、三個だけ持ってこようと思ってたんですけど、向かいで話したら、じゃあうちのもってなって」
そこで新聞紙の包みをもうひとつ寄せる。
「その隣でも、しまいっぱなしなら使ってもらったほうがって」
美琴は思わず笑ってしまった。
「広がりましたねえ」
「広がっちゃいました」
佐和の言い方に悪びれたところはない。広げようとして広げたのではなく、声をかけたら少しずつ増えただけ、という顔だった。その増え方が、いかにもご近所のものらしい。
文江はそこで縁側から立ち上がった。山門まで来る足取りはゆっくりしているのに、着く頃にはもう場の形が少し決まっている。
「重かったねえ」
包みを見れば足りるような言い方だった。
佐和は少しだけ肩を抜いた。
「思ったより」
「そう」
文江は風呂敷の上へ並んだ包みを見た。新聞紙の端の黄ばみ具合や、包み方の手つきで、だいたい近所の家の顔が見えるのだろう。けれど誰のものかを細かく言い当てたりはしない。ただ、美琴へ向けて言う。
「先、置きな」
「はい」
美琴はすぐに風呂敷の端を持った。包みどうしが触れて、また小さく鳴る。
ちん、こと。
「台所で開きますね」
「お邪魔じゃなければ」
佐和が言うと、文江が先に答えた。
「置いたら、湯くらい足すよ」
それ以上の説明はなかった。けれど、それで十分に収まる言い方だった。
台所では、流しの横がすぐに片づけられた。味噌椀の並びを少しずらし、野菜の籠を下へ入れて、濡れ布巾を端へ寄せる。美琴が新聞紙の包みをひとつずつ開くと、中からばらばらの湯のみが出てきた。
白地に藍の線が入ったもの。少し厚手の灰色。ふちにだけ茶色がかかったもの。どれも揃いではないのに、持つと手にちゃんと収まる大きさだった。
「かわいいですねえ」
美琴が言う。
「ばらばらだけど、使いやすそう」
「うちも、来客用って言いながらしまったままになってて」
佐和が少しだけ笑う。
「この前、お寺さんとこ、何かと人が出入りしてるでしょう。先生も来てたし、花も来てたし、子どもらも増えてるし」
「見えてますねえ」
「見えますよ。山門、よく通りますから」
その返しに、美琴はもう一度笑った。ご近所というのはそういうものだ。見ているつもりはなくても、なんとなく見えている。誰かが来て、犬がいて、子どもの声がして、寺の勝手口のあたりが少し賑やかだと、それだけで話の入口にはなる。
文江は流しの横のやかんへ水を足した。
とくとく、と細い音がする。
そのあと火にかける。金具がかすかに鳴って、台所の空気へ湯の気配が混ざり始める。
「洗うよ」
文江が言うと、美琴がすぐに受ける。
「はい。じゃあ、私こっち」
ひとつ洗って、もうひとつ。水の下をくぐるたび、器の色が少しはっきりする。棚の奥で眠っていたものが、流しの上で急に目を覚ますようだった。佐和はその横で、包み紙を畳んでいる。新聞紙のざらついた音が、湯のみの硬い音のあいだに混ざる。
「すみません、こんなに」
「いえいえ」
美琴は湯のみの底を布巾で拭きながら言った。
「こういうの、出てきた時がいちばんうれしいです。使えるものが増えるのって、だいたい助かるので」
「増えるの、好きですねえ」
「好きですねえ」
あっさり認めるから、佐和もつられて笑う。
文江は笑わずに、洗った湯のみを順に卓の盆へ並べた。
こ、こ、と小さな音が続く。形も色も違うのに、盆へ並ぶとそれなりに一緒の顔になる。
「見分けつくね」
文江が言う。
「ばらばらだからですか」
「うん」
たしかにそうだった。揃いではないから、どれがどれかすぐ分かる。来た人の手にどれを渡すかも、少し考える楽しさがありそうだった。
やかんが先に小さく鳴いた。
台所の外では、犬が敷居の手前で伏せている。湯のみが増えても動じない顔で、ただ湯の匂いのほうへ鼻先を向けていた。
「犬も、もうすっかりいますね」
佐和が言う。
「いますねえ」
美琴が受ける。
「学校の子も来るし、ひなちゃんもいるし」
「ひなちゃん、だいぶ混ざりましたね」
「ええ。帰りそびれてごはん食べていくくらいには」
そこで佐和が目を丸くした。
「それはもう、だいぶですね」
「だいぶです」
明るいやり取りのあいだに、文江は急須へ茶葉を入れていた。多すぎず、少なすぎず。今日みたいな日は、一人分でも二人分でもなく、少し余るくらいがちょうどいい。
「佐和さん」
文江が呼ぶ。
「はい」
「どれがいい」
盆の上の湯のみを軽く顎で示す。佐和は少し迷って、白地に藍の線が入ったものを指した。
「じゃあ、それ」
「そう」
文江はそれを盆の手前へ置いた。自分のぶんは厚手の灰色、美琴にはふちの茶色いもの。誰のものとも決まっていなかった湯のみが、そこで最初の置き場をもらう。
茶の間へ盆が運ばれると、場が少し落ち着いた。
卓の端に湯のみが三つ。湯気はまだ立っていない。窓寄りの小さい棚には、前に花屋が持ってきた花の水差しがもう片づけられていて、その空いたところへ、洗ったばかりの湯のみが二つだけ先に並べられた。
文江が急須から湯を回す。
とと、と細い音がして、湯のみの内側へ色が落ちる。新しく来た湯のみの縁から立つ湯気は、いつもの湯のみと少し違って見えた。違うのに、茶の間の湯気としてはちゃんと馴染む。
「きれいに入りますね」
佐和が言う。
「器が違うと、ちょっと違って見えるんですかね」
「見えるねえ」
文江が短く受けた。
美琴は茶菓子の代わりに、小皿へ切った甘夏を二房だけのせて持ってきた。物置から出てきた小さい器が、ここでも働く。湯のみが増えたから、小皿も一つ多く出る。
「もう完全に広がってますねえ」
「ほんとに」
佐和は湯のみを両手で持った。まだ少し熱いらしく、指先がふちの近くで止まる。その持ち方が、よそ行きから半歩だけ家へ寄る。
「なんか、すみません。うちだけなら二つで終わったのに」
「いいんですよ」
美琴が言う。
「こういうの、一回動くと早いですし」
「ご近所って、そういうものだよ」
文江が湯のみを置きながら言った。
「誰かが持つと、ちょっとずつ増える」
長い説明ではない。ただ、そのひと言でさっきの風呂敷の重さまで分かる気がした。
佐和は茶をひと口飲んだ。湯のみの底が木へ軽く触れて、こ、と鳴る。
「じゃあ、また何か出たら、一回こっちへ持ってきますね」
言い方は軽かった。けれど、それで線がひとつ開いた。
美琴がすぐに笑う。
「お願いします。置きっぱなしになるより、出たほうが早いですから」
「また増えますよ」
「増えたら、回します」
そのやり取りの横で、文江は棚の上の湯のみをもう一度見た。白いのと灰色のが、少し離して置かれている。誰かが来ても、ひとつふたつならすぐ出せる並びだった。
「それでいいよ」
文江が言う。
誰に向けた言葉かは曖昧だった。佐和にかもしれないし、美琴にかもしれないし、棚の上へ増えた湯のみそのものにかもしれない。
茶の間の外では、犬が伏せ直した。爪が板をひとつ鳴らし、すぐに静かになる。湯のみの湯気はまだ細く立っていて、小皿の甘夏は光の当たるところだけ少し透けていた。
佐和が帰る頃には、風呂敷は軽くなっていた。代わりに茶の間の棚には湯のみが増え、台所の引き出しには包み紙がきれいに畳んで入れられている。
山門まで見送ったあと、美琴が茶の間へ戻る。卓の上には、さっき使った湯のみの輪がまだうっすら残っていた。文江はそれを布巾で拭き、ついでみたいに棚の湯のみの向きを少しだけ直す。
佐和が来た跡だけが、茶の間の棚へ静かに残った。
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