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第一章 宿題をせぬ子②

小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品

📅 公開日: 2026/7/12 📚 シリーズ: 易知学校 手習い記 📝 2,157文字 🤖 AI創作支援作品 ✅ 全年齢

あらすじ

明治九年、神田。 型どおりの教え方にすがる気弱な仮教員・宮田誠一は、生徒一人ひとりの事情に触れるうち、手本だけでは掬えないものがあると知る。 元寺子屋の女師匠・いねの見守りを受けながら、迷いながらも、自分なりの「教える」を探し始める。 ※本作は、生成AIを利用しています。

本文

 二 井戸端

 その日の夕方、誠一は学校の筆墨の払いに、紙屋まで足を運んだ。表通りには人力車が行き交って、店先に早々とランプを灯す家もある。用を済ませて、ふと、いつもとちがう道を帰る気になったのは、いね先生の言葉が耳に残っていたからかもしれない。

 一本裏へ折れると、町の音が変わる。どぶ板の路地に西日が差して、どこかで魚を焼く煙がたなびいていた。

 井戸端に、見覚えのある小さな背中があった。

 まつだった。背に、二つばかりの子をおぶっている。足元ではもう一人、四つか五つの女の子が、欠けた茶碗で水遊びをしている。まつは釣瓶〈つるべ〉を両手でたぐっては、手桶に水をあけた。桶がいっぱいになると、よいしょ、と背中の子を揺すり上げ、妹に何か短く言いつけて、提げていく。荷の重さに、慣れきった足取りだった。

 長屋の奥へ入ると、ほどなく竈〈かまど〉の煙が立ちのぼった。米を研ぐ音がして、赤子のむずかる声がして、それをあやす、まつの声が聞こえた。教場で聞くどの声よりも、大人びた声だった。

 ――居眠りも、するはずだ。

 誠一は、路地の入り口に立ち尽くしていた。おさらいは、と机の前で問うた自分の声を思い出すと、顔から火が出そうだった。

「先生様で、ございますか」

 振り向くと、道具箱を担いだ男が立っていた。日に灼けて、頬のこけた男である。目元が、まつによく似ていた。

「まつの、父でございます。娘がいつも、お世話さまで」

 男は道具箱を下ろすと、地べたへ膝をつかんばかりに頭を下げた。誠一は慌てて両手を出した。

「いや、あの、どうか、お手をお上げください」

「月謝のことでございましたら……申し訳ございません。必ず、必ずお納めいたしますんで」

「いえ、私は、その」

「女房が、去年の暮れに亡くなりまして」

 男は、俯いたまま言った。

「それからは、家の中がどうにも回りませんで。あっしは夜明け前に出て、日が暮れて帰る。下の子らの世話も、飯の支度も、みんな、まつが……。いっそ学校をやめさせて、と思ったことも、ございます。ですが女房が、あの子だけは学校へと、そればっかり言っておりましたもんで」

 言葉は、そこで途切れた。男は道具箱の紐を、意味もなく握っては、緩めた。

 誠一は、言うべき文句を持っていた。規則に照らせば、達しを出さねばなりません。滞りが続けば、除籍ということにも――教場でなら、口が勝手に言ってくれたはずの文句である。

 どうしても、出てこなかった。

「……今日は、通りかかっただけです。まつは、その」

 言いかけて、何を言うつもりなのか、自分でも分からなくなった。

「まつは、読本を持つ手つきの、たいへんよい子です」

 われながら、間の抜けた言い草だった。それでも男は顔を上げて、ええ、ええ、と二度うなずいた。しわだらけの目元が、すこし緩んでいた。

 下宿に帰って、行灯を点しても、誠一はながいこと筆を持たなかった。

 文机の上には、書きかけの届けがある。生徒除籍の願い。書き出しの数行で止まったまま、もう幾晩にもなる。規則のとおりに書けば、半刻とかからぬ書き付けである。

 誠一は、代わりに手控えの帳面を引き寄せた。明日教えることを、書き写しはじめる。いつもの晩の、いつもの支度である。手順をひとつずつ紙に置いていくと、ざわついた心が、すこしずつ静まっていく。師範学校を出たわけでもない、我流の継ぎ接ぎの身には、こうして書き写した型に頼るよりほかになかった。いずれ講習所の講習を受けて、考査に通って、仮教員の「仮」の字を取る。そうすれば、先生と呼ばれるたびに背中の強張るこの心地も、すこしは楽になるだろうか。

 筆を止めて、誠一は思った。手控えは、明日の授業のことなら、なんでも教えてくれる。だが、まつをどうすればいいのかは、どの頁にも書いていないのだった。

 届けは、文箱の底へ仕舞った。破りはしなかった。ただ、今夜は書かない、と決めた。それだけの晩だった。

 翌る朝、まつはすこし遅れて教場へ来た。目の下の隈はそのままで、それでも襟だけは、きちんと直してあった。誠一と目が合うと、叱られる前の子の顔になって、身を縮めた。

 誠一は、帳面に印をつけなかった。

「安藤」

「……はい」

「昼のあと、すこし残りなさい」

 まつの肩が、びくりと動いた。近くの子らが、それ見たことか、という顔で振り返る。誠一は読本を開きながら、なるたけ何でもないふうに続けた。

「おさらいを、教場で済ませてゆくといい。家では、手の回らぬ日もあるだろう。分からぬところは……私が見るから、な」

 まつは、目をまるくして誠一を見た。それから、聞き違いでないことを確かめるように一呼吸おいて、こくりとうなずいた。

「……はい」

 蚊の鳴くような声だったが、昨日までの、頭だけ下げるあの返事とは、違う音がした。

 廊下で、いね先生とすれ違った。何も言われなかった。ただ、湯呑みを載せた盆を抱えたまま、目尻の皺をすこし深くして、行き過ぎた。

 唱和が始まる。子供らの声は、あいかわらず出だししか揃わない。それでも今朝は、その中に、まつの声が聞き分けられた。

 除籍の届けをどうするのか、答えはまだ、誠一の中にない。月謝の欄は、明日も空白のままだろう。ただ、読本を掲げる手のひらは、昨日ほどには汗ばんでいなかった。

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鞍雲

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