第二章 名乗らぬ子①
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
明治九年、神田。 型どおりの教え方にすがる気弱な仮教員・宮田誠一は、生徒一人ひとりの事情に触れるうち、手本だけでは掬えないものがあると知る。 元寺子屋の女師匠・いねの見守りを受けながら、迷いながらも、自分なりの「教える」を探し始める。 ※本作は、生成AIを利用しています。
本文
一 呼び名
夏めいてきた朝の教場は、障子を開け放しても、子供らの熱気でじきにむっとする。誠一は今朝も誰より早く来て、机を拭き、手控えを二度さらった。拭き掃除の要る季節でもないのだが、これをやらぬと、どうにも一日の据わりが悪いのである。表を行く納豆売りの声が、墨の匂いにまじって流れてきた。
出欠を調べるのは、朝いちばんの誠一の仕事である。出席簿の名を上から順に読み上げ、呼ばれた者が、はい、と返す。それだけのことが、存外そろわない。
「大野、留吉」
返事が、ない。
顔を上げると、当人は席にいる。日に灼けた、こしらえの頑丈な子で、教場の悪戯の相談なら、たいてい輪の真ん中にいる。その留吉が、我関せずの顔で前を向いていた。隣の子に肘でつつかれて、ようやく、
「……へい」
と、出入りの職人のような返事をした。教場のあちこちで、笑いが弾けた。
「大野だってよ」
「留、おめえ、いつから大野になったんだっけなあ」
「うるせえやい」
口では威勢よく返したが、耳のふちが赤かった。誠一が、静かに、と言うと、二度目でどうにか静まった。
大野留吉〈おおのとめきち〉。出席簿の上では、去年からそういう名である。だが町内では、いまだに炭屋の留で通っているらしい。名を呼ばれてから返事までの、あの妙な間を、誠一はこのひと月で、もう幾度も聞いていた。
ふだんの留吉は、間の抜けた子ではない。読本の唱和なら教場でいちばん声が出るし、悪戯の知恵の回りようは、こちらが感心するほどである。その留吉が、姓を呼ばれるときにだけ、返事の在り処を探すような顔になるのだった。
その日の手習いは、めいめいの姓名を書かせた。読み書きのはじめに、まず己の名を、というのが手本の順序である。
机の間を回っていくと、どの子の半紙にも、大小さまざまの名が並びはじめていた。墨だらけの手で頬を掻いて、頬のほうまで名前にしてしまった子がいる。安藤まつは、紙を惜しむのか、隅から詰めて小さく書いていた。安藤、の字がわずかに傾いで、まつ、の字の肩を抱くようになっている。うまい字ではないが、良い字だと誠一は思った。
留吉の半紙だけが、白かった。当人は、墨ばかりを磨っている。硯の海が、使い道のないまま、艶々と黒く光っていた。
「どうした」
「……」
「留吉、の二字は、この間もう書けていたろう」
「名めえのほうは、いいんだよ」
筆の尻で、留吉は半紙の上のほうを突いた。姓の入る場所である。
「大野、だ。大きいに、野原の野」
「知ってらい」
ふてくされたように、そっぽを向く。知っていて、書かないのである。もっとも、睨むような目が戻っていく先は、誠一ではなく、半紙の白いところだった。
「炭屋の留、って書いちゃいけねえのかい」
ふざけた調子では、なかった。近くの子が、くすくすと笑う。留吉は笑ったほうを一睨みして、また半紙へ向き直った。本気で訊いたのである。
「手習いは、届け出た姓名で書く決まりだ。……炭屋は屋号で、姓とは、その、別のものだから」
「なんで別なんだい。うちは炭屋だぜ」
「なんで、と言われても……」
言いさして、あとが続かなかった。定まったから定まったのだ、と言うよりほかにない。それが答えの中でいちばん弱い部類だということは、誠一にも分かっていた。留吉は、ふうん、とだけ言って、また墨を磨りはじめた。磨るほかに、することがないのである。
「……定めの姓で、届けも済んでいる。その決まりのとおりに、書きなさい」
言いながら、月謝帳の末尾で筆をためらわせる、自分の手を思い出した。誠一は、咳払いをひとつして、隣の机へ移った。
結局、手習いの終わりまで、留吉の半紙の上のほうは、白いままだった。
昼の職員室で、誠一は手習いの一件を話した。炭屋の留と書いてはいけないのか、と本気の顔で訊かれたこと。決まりだから、としか答えられなかったこと。隠しても仕方がないので、そのまま話した。いね先生は、今日も繕い物をしながら、ふんふんと頷くだけだった。
「いね先生は、大野の……留吉の家を、ご存じでありますか」
いね先生は、顔も上げずに、ああ、と笑った。
「あの子はねえ、あたしが寺子屋をやってた時分から、炭屋の留だよ。留の字を手ほどきしたのも、あたしなんだから」
「炭屋、というのは」
「あの家の屋号さね。留のお祖父さんの、そのまた前からの看板でね。町内じゃ、名前より通りがいい。長屋の衆に大野さんはどこだと訊いたって、誰も出てきやしないよ」
いね先生は針を布に刺して、土瓶から麦湯を注いでよこした。夏場の職員室の茶は、いつの間にか麦湯に替わっている。こういうことは、この人が黙ってやるのである。
「留の字を覚えたてのころはねえ、そりゃあ嬉しがってさ。手習いの帰りに、店の炭俵へ片っ端から書いて、お父っつぁんに大目玉を食ったんだよ。売り物に落書きするやつがあるかい、ってね」
教え子の話をするとき、この人の五十八の顔には、ふっと若い時分の師匠の顔がのぞく。いね先生は繕い物を取り上げて、糸切り歯で糸を切った。
「それがある日、お上の帳面の上でだけ、大野になった。……子供にしてみりゃ、狐につままれたようなもんだろうねえ」
「名は、決まりですから。慣れるより、ほかにないでしょう」
言ってから、誠一は湯呑みに目を落とした。われながら、薄い言葉だった。書くたびに宮の字でためらう者の言うことでは、なおさら、なかった。
いね先生は、それについては何も言わなかった。ただ、思い出したように顔を上げた。
「そういえば宮田先生、冬場の炭の払いが、まだだったろう。ついでのときに、届けておくれでないかい。炭屋は、留の家だから」
帳面の始末は、誠一の役である。断る理由は、なかった。
立ち上がりぎわ、教場の壁が目に入った。今日の手習いの清書が、幼い字で並んで貼り出してある。数えるまでもなく、一枚足りなかった。
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