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下町の英雄

小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品

📅 公開日: 2026/7/16 📚 シリーズ: ブリムストーンと、執事の少女。 📝 1,858文字 ✅ 全年齢

あらすじ

ブリムストーンと、執事の少女。 - 下町の英雄

本文

業務内容は、と少女は胸の内で諳んじる。この街でいちばん強くて、いちばん愚かな主に、朝を運ぶこと。そして、いつか必ず、この人に本当の朝を連れてくること。

 その日がいつ来るのか、少女はまだ知らない。

 この物語の始まりに立つ二人は、いつだって、いちばん大事なことを、まだ知らないでいるものである。

 午餐会の前に、この主にはもうひとつ、大事な「務め」があるのだという。

 ――下町の酒場で、昼から飲むこと。

 ゴルモアの下層、通称「灰路地」。魔力灯の届かぬ路地裏に、汗と麦酒と揚げ油の匂いが煮こごっている。上等な燕尾服など、ここでは的にしかならない。クロエは外套の襟を立て、主の三歩後ろを歩いた。

 前を行く大男は、低い鴨居に体を屈めてくぐると、酒場の床板を軋ませて、両手を広げてみせる。

「よう、みんな! 三代目のうつけが遊びに来たぞ!」

「うおおおヴィンスの旦那だ!」

「今日はどのツラ下げて来やがった!」

「涎ツラだよ、いつもの!」

「うるせえ、今日は水浴びしてきたから男前だ」

「浴びせられたんだろ! そっちのちっこい執事さんによ!」

「……なんで知ってる」

「顔に書いてらあ!」

 どっと、笑いが弾ける。

 これから向かう午餐会の、刃物を隠したあの笑いとは、まるで質が違う。腹の底から、歯を見せて笑う声だ。この笑いのために来ているのだと、少女は知っている。

 主はカウンターに銀貨を叩きつけた。

「店主、この階のぶん、ぜんぶ俺のツケだ。麦酒でも小便でも好きに頼め」

「小便は自前で頼むぜ旦那!」

「違いない!」

「旦那、ツケって言うがよ、あんた払ったことしかねえじゃねえか」

「うるせえ。夢があるだろ、ツケって響きは」

 また、笑い。

 ――お分かりいただけただろうか。この人は、下町では英雄なのだ。着飾った蛇どもに嗤われる同じ男が、ここでは王のように迎えられる。同じ一日の、同じ顔で。

 クロエは壁際に控え、麦酒の泡にまみれた騒ぎを眺めた。この光景を、もう何十回見たか分からない。それでも、慣れない。慣れたくない、と言うべきか。

 みなに麦酒を振る舞いながら、主自身の手にあるのは、古い琥珀色の蒸留酒がひとつきり。それを、節くれだった大きな掌で包むように持って、ちびちびと舐めている。

 他人には浴びるほど奢っても、己の喉へ流すのは昔から変わらぬ一銘柄だけ。こういうところに、大富豪の三代目の育ちが、隠しきれずに滲むのだった。

 ――安酒を奢るのは、施しじゃねえ。

 ヴィンセントは杯の縁を舐めながら、ぼんやりと思う。ここで飲む一杯は、耳の値段だ。人間、酔えば口が軽くなる。軽くなった口から、こぼれ落ちてくるものがある。

 役人が握りつぶした話、表沙汰にできない痛み、腐った奴らの名前。灰路地の困りごとは、そのままこの街の膿の在り処だ。だから俺は、笑われながら、ここで耳を澄ましている。……まあ、酒が旨いってのも、否定はしねえがな。

 果物売りの老婆が、皺だらけの手で主の袖を引いた。

「旦那、聞いとくれよ。うちの宿六がまた賭場で溶かしてねえ」

「ん。どこの賭場だ」

「東の『三日月』だよ」

「あー、あそこはイカサマだ」

「やっぱりかい!」

「サイコロに仕込みがある。振り子の親父の、右手のときだけな」

「詳しいねえ、旦那……あんたまさか」

「通っただけだ。三回ほど」

「三回も溶かしたのかい」

「勉強代だ。おかげで仕込みが分かった。……ま、俺が話つけといてやる。宿六は自分でどうにかしろ」

「違いないやね!」

 ぽん、と老婆の肩を叩く。あの大きな手が。

 困った者の口から、腐った奴らの名前がぽろぽろ落ちてくる。金をばらまく気の良い旦那の顔をして、この人は膿を数えている。分かっている。分かっているのだ、と少女は思う。

 ――だから、次の一言も、この男は聞き逃さなかった。

「……旦那。あんた顔が広いんだろ。うちのが、うちの子が、帰ってこないんだ」

 声の主は、若い女だった。洗い場勤めの手が、赤くひび割れている。にぎやかな酒場の中で、そこだけ、音が消えたように見えた。

「いつからだ」

「先の月。市の帰りに、ふっつり」

「歳は」

「八つ。……八つだよ、旦那。ひとりで遠くへ行ける歳じゃない」

「役人には」

「行ったさ! 何度も! みんな『家出だ』の一点張りでさ……うちだけじゃないんだ。西の長屋のトビも、水売りんとこのミナも」

「――港のほうに、行かなかったか」

 主の声が、変わった。

 へらへらした酔漢の皮が、半分だけ、剥がれる。眠たげな目の底に、井戸の底のような色がよぎった。

「港……そういや、下の子がね、大きな箱をいっぱい積んだ荷馬車を、倉のほうへ見たって……」

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作者について

カクナ・ノゾム

カクナ・ノゾム

カクナノゾムと申します。 趣味の小説を細々と書いてます。 面白いことは間違いないので是非是非ご一読くださいませ。

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