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泥水が似合いだと

小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品

📅 公開日: 2026/7/21 📚 シリーズ: ブリムストーンと、執事の少女。 📝 1,867文字 ✅ 全年齢

あらすじ

ブリムストーンと、執事の少女。 - 泥水が似合いだと

本文

クロエは、この時間が好きだった。

 誰にも見せない本当の姿を、隣で見ていられる。世界中が「無能」と嗤う人の、本当の値打ちを知っている。それは執事にだけ許された、ささやかな特権だ。――同時に、この時間がいちばん、苦しい。値打ちを知る者が、自分ひとりきりだということが。

 整備の済んだ糸巻きが、ひとつ、またひとつと武具架へ戻っていく。

 行き先は、夕刻のうちに決まっていた。名無しの紙会社が借りた、南の倉。卓に置いた十六の名前を、この人はあれきり一度も口にしない。口にせぬまま、もう胸の底に刻み終えていることを、クロエは知っている。

 その横顔を見ながら、クロエは思う。この人はまた、ひとりで覚えるのだ。ひとりで読み上げ、ひとりで背負って、そして朝になれば、涎を垂らした穀潰しに戻る。

 ――言うなら、今だ。

「ご主人様」

「ん」

「本日、議長のお言葉を賜って、確信いたしました」

「なにをだ」

「あなたの実力を正しく示せば、この街でだって、正当な評価は得られます。ブリムストーンの正体があなただと知れば、誰もあなたを無能などと――」

「クロエ」

 遮る声は、静かだった。

「その先は、言いっこなしだ」

「……なぜですか」

 声が震えた。分かっている、とクロエは思う。この問答は、もう何十回目かだ。それでも性懲りもなく、問うてしまう。

「なぜ、笑われる側に立ち続けるのですか。なぜ手柄を捨て、名を捨て、泥を被ってまで――」

「そりゃ、お前」

 主は糸巻きを架に戻し、こちらを振り向いた。眠たげな目が、笑っている。

「俺には、この泥水が似合いなのさ」

 ――似合いなんかじゃねえ、とは言わない。

 ヴィンセントは思う。似合いだと言っておくのが、いちばん角が立たない。本当のところは、少しばかり違う。名乗った途端、ブリムストーンは「英雄」になる。英雄には、敵が正面から来る。

 正面から来る敵は、必ず、まず弱いところを狙う。……たとえば、目の前の、この小さな執事を。レンの忘れ形見を、また同じ目に遭わせるくらいなら、俺は一生、穀潰しでいい。泥水は、慣れてる。

 もう二十年も、飲んでる。――だが、それを言葉にしてやることだけは、してやれない。言えば、この娘は、もっと深く踏み込んでくる。踏み込ませるわけには、いかねえんだ。

「――似合って、いません」

 気づけば、少女の口をついて出ていた。

「ぜんぜん、似合っていません。あなたは、もっと――」

「もっと?」

「もっと……もっと、です!」

「語彙どうした、筆頭執事」

「うるさいです!」

 主は目を丸くして、それから、ひどく困ったように頭を掻いた。大きな手が伸びてきて、少女の頭に、ぽん、と乗る。

「――ベーコンの礼だ」

「……夕食に、出していませんが」

「明日の分の前払い」

「明日の分は、まだ交渉中です」

「前払いってのはな、交渉を有利にする賄賂のことだ」

「執事は買収されません」

「知ってる。だから頭に乗せるだけにしてる」

 ずるい人だ、とクロエは思う。肝心なことは何も答えず、こういうときだけ、手つきが優しい。頭に乗った掌の大きさと重みだけが、言葉にしてくれない答えの、かわりのように熱い。

 主は漆黒のコートを羽織り、黒鉄の面を着けた。

 だらしない中年の輪郭が消え、夜の輪郭が立ち上がる。武具架の前に立つその背中は、あの午餐会の広間にいた誰よりも、まっすぐだった。

「管制、頼む」

「――はい。良い狩りを、ご主人様。……それと、お体に、ご無理は」

「聞こえん」

「聞こえておいでのくせに」

「歳でな。都合の悪い音から順に、聞こえなくなる」

「では大きな声で申し上げます。ご・む・り・は――」

「行ってくる」

 天窓が開き、ワイヤーが霧の夜へ伸びる。

 黒い影が、音もなく攫われていった。ゴルモアの毒々しい光の海の上を、天の火がひとすじ、流れ星をさかしまに、昇っていく。

 クロエは管制卓に着き、ヘッドセットの通信環に指を添えた。水晶球に、霧の街が映る。

 この街は、腐っている。法は死に、正義は値札つきで売られ、七つの子供が番号で呼ばれる。そしてこの街でただひとり、それを許さない人は、名乗ることさえ許されずに夜を飛ぶ。

 いつか、と少女は思う。いつか必ず、あなたが胸を張って昼を歩ける日を、私が連れてくる。あなたが自分に下しているその判決を、覆すのは私だ。

 ――その誓いが、どれほど遠く、どれほど高くつくことになるのか。管制卓の少女は、まだ知らない。知らぬまま、彼女の指は、迷いなく回線を撫でるのである。

 私、クロエ・アルジェント、十三歳。職業、筆頭執事。

 本日の残業内容――天の火の管制、および、いつか来るその日の、下ごしらえ。

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作者について

カクナ・ノゾム

カクナ・ノゾム

カクナノゾムと申します。 趣味の小説を細々と書いてます。 面白いことは間違いないので是非是非ご一読くださいませ。

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