昔々、紙の本
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
それは、彼方から届いた、ちょっと不思議な物語。ショートショート
本文
おばあさんは夜になると、決まって蛍光灯の下に腰を下ろし、古びた紙の束をめくるのが習慣でした。表紙には「小説」と書かれています。若い頃からずっと読み続けている、お気に入りの物語です。
一文字ずつ目で追いながら、時々指先を舐めてページをめくり、気に入った場面には、栞代わりの押し花をそっと挟んでおきます。読み終えるまでに、何日もかかることもあります。それでもおばあさんは、急ぐ様子もなく、毎晩同じ時間に、同じ場所で、静かにページをめくり続けます。
「その紙の束、なんですか」
ある晩、通りかかった旅人が、不思議そうに覗き込みました。彼は、思い浮かべるだけで、あらゆる物語がすぐさま頭の中に流れ込んでくる術を知っていて、この町には偶然立ち寄っただけでした。
「本、というものじゃよ。読みたいところを、自分の指でめくって進むんじゃ」
「え、自分でめくるんですか? そんなの嘘でしょう、今なんて欲しい物語、思い浮かべた瞬間に全部わかるのに」
旅人は本を手に取り、ぱらぱらとめくってみました。
「これ、途中を読みたくても、最初から順番にめくらないといけないんですよね? 効率、悪くないですか」
おばあさんは栞代わりの押し花が挟まったページを、そっと指でなぞりながら答えました。
「効率という点では、そうかもしれんのう。でものう、このページをめくる間だけは、続きが気になって、わくわくする気持ちが長持ちするんじゃよ」
「わくわくが、長持ちする?」
「そうじゃ。全部すぐにわかってしまったら、その"待つ楽しみ"がなくなってしまわんかね。この続きはどうなるんじゃろう、と気を揉みながら眠りにつくのも、なかなか悪くないもんじゃよ」
旅人はきょとんとした顔で、しばらく黙り込みました。頭に思い浮かべるだけで物語のすべてが手に入る自分の暮らしには、「待つ」という時間そのものが、ずっと存在していなかったのです。
「わくわくを、わざと長引かせる……そんな発想、僕らにはなかったです」
「たまには、ゆっくり進むのも悪くないもんじゃよ。それにな」
おばあさんは、栞にしている押し花を、そっとつまみ上げました。
「このページまで読んだ、という印を、自分の手で挟んでおけるのも、なんとも言えず愛おしいものでな。これは、去年の春に庭で摘んだ花じゃ」
旅人は、その色あせた押し花をしばらく見つめていました。物語も、栞も、すべてが頭の中だけで完結してしまう自分の世界には、こんなふうに形に残るものがないことに、ふと気づいたのです。
「僕の頭の中の物語には、押し花を挟む場所が、ないんですよね」
「それは、それで寂しいのう」
おばあさんはそう言って、また一ページ、めくって、旅人はしばらくその指先の動きを眺めてから、静かに頭を下げて去っていきました。
翌晩も、おばあさんはいつもの蛍光灯の下で、同じ本の続きを開きます。押し花のページに指をかけながら、今日はどこまで読み進めようかと、わくわくが止まりません。
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