昔々、酒の肴の話
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
それは、彼方から届いた、ちょっと不思議な物語。ショートショート
本文
昔々、あるところに、おじいさんとおばあさんがいました。
夏になると、おじいさんには何より楽しみにしている時間がありました。
夕暮れ時、縁側へ腰を下ろし、庭を渡る風を感じながら、よく冷えた瓶からグラスへ、黄金色の飲み物をゆっくりと注ぐのです。
しゅわしゅわと細かな泡が立ち上り、夕日に照らされてきらきらと輝きます。
「いやぁ、この一杯のために今日一日働いたようなもんじゃ」
おじいさんは満足そうに笑いました。
縁側には、小皿が一枚。
その上には、ほんの少しだけ塩辛がのっています。
たったそれだけなのに、おじいさんは塩辛をほんの少し箸でつまみ、それからビールをひと口。
「うまい」
また塩辛を少し。
またビールをひと口。
それを何度も繰り返していました。
そんなある日、一人の旅人が家の前を通りかかりました。
「こんばんは」
「おや、旅の人か」
おじいさんは手を振ります。
「夕涼みにはちょうどいい風じゃ。よかったら一杯付き合わんか」
旅人は恐縮しながら縁側へ腰を下ろしました。
おじいさんは新しいグラスを取り出し、冷えたビールを注ぎます。
旅人はそっと飲んでみました。
「おいしい……」
「じゃろう」
旅人は小皿を見つめます。
「それは何ですか」
「酒の肴じゃ」
「肴?」
「酒と一緒につまむもんじゃよ」
旅人は塩辛をほんの少し口へ入れました。
「しょっぱい!」
思わず顔をしかめます。
おじいさんは大笑いしました。
「それでええんじゃ」
「え?」
「しょっぱいから、また飲みとうなる」
旅人はビールをひと口。
「あ、本当だ」
「じゃろう」
旅人は不思議そうに尋ねます。
「でも、どうしてそんな少ししか食べないんです?」
「一気に食べたら、なくなるじゃろ」
「なくなりますね」
「だから少しずつ食べる」
「ずいぶん我慢強い食べ物なんですね」
おじいさんは吹き出しました。
「そういう見方もあるのう」
旅人は感心したように頷きます。
「僕たちの時代のお酒は、考えるだけで好きな味になります」
「ほう」
「体にも一番いい状態になります」
「便利じゃのう」
「だから酒の肴というものがありません」
「そうか」
「お酒だけで完成しているんです」
おじいさんは少し考えて言いました。
「それもええが……」
「なんです?」
「酒の肴は、味だけじゃないんじゃ」
旅人は首をかしげました。
「話の種になる」
「話の種?」
「『この塩辛はうまい』とか」
「『ちょっとしょっぱい』とか」
「『もう少し食べるか』とか」
「そんな話をしながら飲むんじゃ。」
旅人は少し笑いました。
「食べ物が会話を作るんですね」
その時でした。
台所から、おばあさんの元気な声が聞こえてきます。
「茹で上がったよー!」
おじいさんは、ぱっと顔を輝かせました。
「おっ、来た来た!」
おばあさんは大きなざるを抱えて縁側へやってきました。
ざるには、茹でたての枝豆が山のように盛られています。
湯気と一緒に、青々とした香りがふわりと広がりました。
「今日は出来がいいよ」
「待っとった」
おじいさんは嬉しそうに枝豆を取りました。
おばあさんも縁側へ腰を下ろします。
「お客さんもいるんだね」
「そうじゃ」
「それなら、私もご相伴にあずかろうかね」
おばあさんはグラスを受け取り、三人で乾杯しました。
旅人は枝豆を手に取ります。
「これはどうやって食べるんですか」
「こうじゃ」
おじいさんは器用にさやを押して、豆を口へ放り込みました。
旅人も真似します。
ぽん。
「あっ!」
豆が勢いよく飛び出して、おじいさんの膝へ転がります。
三人は思わず笑いました。
「最初はみんなそうなる」
旅人はもう一度挑戦します。
今度は成功です。
「おいしい!」
「じゃろう」
「でも、一つずつ取り出すんですね」
「そうじゃ」
「面倒じゃありませんか」
おばあさんが笑いました。
「その面倒がいいんだよ」
「え?」
「一粒食べて、一口飲んで、また話して」
「気がつくと、枝豆がなくなってる」
旅人は山盛りだったざるを見ます。
本当に、いつの間にか半分になっていました。
「歴史の授業で習いました」
旅人は急に思い出したように言いました。
「昔の人は、枝豆を食べ始めると止まらなくなったそうですね」
「その通り」
「しかも、食べ終わると、豆よりさやの方が山になっていたとか」
「その通り」
「さらに、お酒を飲んでいる人は、自分が何本目なのか分からなくなっていたとか」
おじいさんは咳払いをしました。
「……それは歴史が少し盛っとる」
おばあさんは声を立てて笑います。
「昨日も『今のが一本目じゃ』と言いながら、実際は三本目だったじゃない」
「ありゃ数え直したんじゃ」
「何を?」
「人生を」
旅人は笑いすぎてビールを吹き出しそうになりました。
夕風が縁側を吹き抜けます。
風鈴が、ちりん、と涼しげな音を鳴らしました。
旅人は空になったざると、山になった枝豆のさやを見比べます。
「僕たちの時代には、お酒はあります」
「でも」
「酒の肴をつまみながら、どうでもいい話で笑う夜はありません」
「枝豆のさやを山ほど積み上げることも」
「塩辛いと言いながら、また一口飲むことも」
「きっと、便利になる途中で置いてきてしまったんでしょうね」
おじいさんは静かにグラスを掲げました。
「それなら、今日は置いて帰らんようにしなさい」
旅人も笑ってグラスを掲げます。
おばあさんも一緒に乾杯しました。
三つのグラスが、小さく心地よい音を立てました。
その夏の夕暮れも、縁側には風鈴の音と笑い声が流れ、足元には、山のような枝豆のさやが積み重なっていたのでした。
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