天候の調薬師
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
それは、誰かの願いが灯した小さな奇跡。
本文
天候の調薬師
路地裏の奥、看板もない小さなアトリエ。天井には一枚だけ古びたガラスの天窓があり、そこから落ちる光だけが、この店の唯一の灯りだった。
名を明かさぬ調薬師は、いつもその光を頼りに薬を量る。彼が扱うのは、飲めば数時間だけ「自分を包む天気」が変わるという、不思議な薬。晴れを欲しがる者、雨を求める者、理由はさまざまで、調薬師はただ黙って耳を傾け、瓶に色をのせていく。
その朝は、朝から嵐だった。雨粒が天窓を叩き、扉が乱暴に開く。
「一瞬で疲れが吹き飛ぶ薬をちょうだい」
そこに立っていたのは、王都で名を知らぬ者のない女戦士。連日のダンジョン攻略で鎧は傷だらけ、瞳の奥には隠しきれない疲労がにじんでいる。鋭い眼光で調薬師を睨みつけたが、その足元はわずかに揺らいでいた。
調薬師は棚から一本の小瓶を取り出す。琥珀色の液体が、天窓の光を受けてゆらりと輝いた。
「これを」
差し出された瓶を、女戦士は迷わず飲み干す。そして扉を開け、嵐の中へと歩み出た。
外は相変わらずの土砂降り。けれど彼女を中心とした半径一メートルだけ、そこにぽっかりと春の陽だまりが生まれていた。柔らかな陽射し、頬をなでる優しい風。まるで別の季節が、彼女だけのために切り取られたようだった。
女戦士は剣を下ろし、軒下のベンチに腰を下ろす。まぶたが自然と落ち、久しぶりの深い眠りに引き込まれていった。荒々しかった呼吸が、次第に穏やかなものに変わっていく。
数時間後。
目を覚ました彼女の顔から、疲労の色はすっかり消えていた。肩の力が抜け、足取りも軽い。すれ違いざま、彼女は小さく礼を告げ、晴れ間の見え始めた通りへと去っていった。その背中は、来た時とは別人のように軽やかだった。
調薬師はその後ろ姿をしばらく見送り、店の奥へと戻った。
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それから数日後の夜、アトリエを訪れたのは、天文台勤めの若い研究者だった。分厚い雲が街を覆う季節が続き、彼はもう半年近く、望遠鏡越しに星を見ていないという。
「明日、遠くの町へ異動になる。最後の夜くらい、空を見たい」
声は静かで、けれど言葉の端には隠しきれない未練が滲んでいた。調薬師は棚の奥から、夜露のように澄んだ青銀色の小瓶を選び出す。ラベルはなく、ただ薄い霜がガラスの表面を包んでいた。
彼がそれを飲み干し、扉を開けると、頭上の雲がまるで両手で払われたように割れていく。路地の幅ぎりぎり、彼を包む範囲だけに、満天の星が広がった。天の川が細く帯を描き、流れ星がひとつ、ふたつと尾を引いて消えていく。石畳に反射する光は、まるで足元にも星が降り積もったかのようだった。
研究者はしばらく声もなく空を見上げていた。冷たいはずの夜気は、不思議と頬に優しい。彼はポケットから手帳を取り出し、目に映る星の並びを、震える手で写し取っていく。
「この一枚があれば、新しい町でも、ここで見た空を思い出せる」
星空はきっかり二時間で薄れ、いつもの曇天へと戻っていった。それでも彼の足取りは、来た時よりずっと軽かった。
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数日、また数週が過ぎる。アトリエの扉は、晴れを求める者、涙雨を欲する者、思い出の夕焼けを恋しがる者を、次々と迎え入れては送り出した。
調薬師は誰に対しても多くを語らない。ただ黙って話を聞き、その人に合った色を選び、瓶を渡すだけだ。
けれど本当のところ、彼が売っているのは天気そのものではないのかもしれない。剣を握り続けた戦士に必要だったのは、強い薬ではなく、誰にも邪魔されない穏やかなひととき。星を諦めかけていた研究者に必要だったのは、満天の星そのものより、もう一度顔を上げてみようと思える一瞬だったのだろう。
調薬師はいつも、天窓を見上げてから店じまいをする。今日の光は、夕暮れの橙色から、夜の静かな紺色へと移ろっていくところだった。彼は小さな鍵を回し、次の朝もまた、誰かのための天気を仕込み始める。
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