鋼鉄の聖女 ―― 帝国幼年戦記 ―― 効率厨の人事部長、戦場の幼女になる ――
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あらすじ
鋼鉄の聖女 ―― 帝国幼年戦記 効率厨の人事部長、戦場の幼女になる 神を信じない。祈りは、知性の敗北宣言である—— 大手商社で「人を切る」ことに徹した人事部長・四十歳は、ある夜、終電のホームで一人の男を救おうとして命を落とす。目覚めた先は、架空の西欧風世界。ロイテンブルク帝国との戦争が続く劣勢の王国、最前線近くの孤児院。肉体は五歳の幼女。名前は、エルナ・シュタイナー。 前世から持ち越したのは、四十年分の知識と、「祈らない」という意地だけだった。 神ならぬ存在〈管理者〉は、苦境の果てにエルナが祈ることを期待し、魔導の素質という「鎖」を与えて、戦場の奥へと引き込もうとする。だがエルナは、その鎖すら「梯子」に変えると誓う。軍を動かし、組織を読み、同期の子どもたちと静かな共存を築きながら、前世の人事部長は、今日も祈らずに生き延びる。 感情より合理性、信仰より分析、神より知性——それが私の流儀だ。
本文
第一章 最適化された死
1.人事考課の前日に
合理性、というものを私は何より愛していた。
無駄を削ぎ落とし、最少のコストで最大の成果を引き出す。投入した資源に対して期待されるリターンが見合わなければ、いかに情緒的に正しく見えようと、その判断は誤りである。それが私の信念であり、四十年生きてきた末に磨き上げた、ささやかな職業倫理でもあった。
大手商社の人事部長――そう言えば聞こえはいいが、要するに私の仕事は「人を切る」ことだった。リストラ対象者の選定、退職勧奨面談、再就職支援プログラムの設計。会社という名の生き物から、ぶら下がった重しを冷静に切り離す作業を、私は十年以上にわたって担ってきた。
冷酷だと罵られたことは一度や二度ではない。だが私に言わせれば、感情に流されて延命措置を続け、最終的に会社ごと沈めて何百人もの社員を路頭に迷わせる方が、よほど残酷である。痛みは早く、小さく、的確に。それが救済というものだ。少なくとも、私はそう信じていた。
その日の面談相手は、入社二十二年目の中堅社員だった。仮にA氏としておこう。営業から内勤に異動し、内勤からさらに閑職へと押し流され、今は資料室の片隅で過去の契約書をスキャンしているような男だ。年収は同年代の中央値を大きく上回り、業績への貢献はほぼゼロ。経営の観点から見れば、これほど明確な「整理対象」もない。
私は規定どおりの台詞を、規定どおりの順序で、規定どおりの抑揚で口にした。会社の現状、市場環境、A氏のキャリアに対する評価、用意された早期退職パッケージの内容、再就職支援会社の紹介。台本はすでに頭に焼き付いており、相手の顔色を観察しながら、最適なタイミングで次の選択肢を提示することができた。
「あなたには信仰がないのか」
面談がいよいよ大詰めにさしかかったとき、A氏は突然そう呟いた。書類に伏せられていた視線を上げると、彼の目には、これまで見たことのない、奇妙に澄んだ光が宿っていた。怒りでも哀願でもない。何か別のものに憑かれているような、底の見えない静けさだった。
「数字、効率、最適化。あなたの言葉にはそれしかない。人間というのは、本当はそういうものではないでしょう。あなたのような人には、いつか必ず罰が下る」
私はマニュアル通りに微笑んだ。信仰心、宗教、神。そのいずれも、私の人生における優先順位リストの最下層に位置するキーワードだった。神が公平だというのなら、なぜ世界には先進国と発展途上国があり、なぜ生まれによって人生の難易度がここまで違うのか。神とは、説明のつかない不公平を正当化するために人類が発明した、最古かつ最も非効率なフィクションである。私はそう結論づけていたし、その結論をいまさら覆す気はなかった。
「Aさん。私は罰を恐れません。私が恐れるのは、誤った判断によって、多くの人を不幸にすることだけです。今日の決定が、あなたにとっても、長い目で見ればよい結果につながると信じています」
A氏は何も言わず、ただ深く頭を下げ、書類にサインし、面談室を出て行った。完璧な処理だった、と私は手帳に小さくチェックマークを入れた。次の予定は、十五分後の役員会議。資料はすでにタブレットに同期されている。私は冷めかけたコーヒーを一口だけ含み、廊下へと出た。
2.プラットホームの白い線
その日の終電は、いつものように混んでいた。
会議は予定どおりに終わり、夕食は社員食堂で十二分。退勤は二十三時二十分。駅までの徒歩八分。乗り換え一回。帰宅予定時刻、零時十七分。明日の人事考課に必要なデータは、移動中にスマートフォンで最終確認するつもりだった。私は自分の一日を、十五分単位のブロックに分割して管理する習慣を持っていた。崩れることのない秩序。それが私の精神安定剤だった。
駅のホームに上がる頃には、酔客と疲れ切ったサラリーマンの匂いが、生暖かい風となって階段を吹き下ろしていた。アナウンスが、次の電車の到着を告げている。私はホームの先頭から三両目、二番目の扉の前にできた列の、ちょうど五人目に並んだ。乗車時間と乗り換え動線を計算し尽くした、最適なポジションだ。
視界の隅で、何かが揺れた。
顔を上げる。ホームの白線の内側、私から三歩ほど離れた位置に、見覚えのある背中があった。よれたグレーのスーツ、薄くなった後頭部、片手にはくしゃくしゃの紙袋。今日の午後、面談室を出ていったあの男――A氏だった。
彼の足は、ゆっくりと白線を越えていた。一歩、また一歩。誰もそれに気づいていない。皆、スマートフォンに視線を落としているか、酔いに半ば瞳を閉じているかのどちらかだった。線路の先からは、すでに電車の警笛と、空気を切り裂くような走行音が近づいてきていた。
私の脳内では、瞬時にコスト計算が走った。一人の中年男の自殺。鉄道会社の損害賠償、遺族への波及、明朝の遅延による経済損失。連鎖的に発生する数千、数万の不便。比較対象は、私自身の身体的リスク。線路への転落、骨折、最悪の場合は――。
計算は、〇・二秒で終わった。
答えは「介入する」だった。経済合理性で言えば、止めた方が安く済む。それ以上の理由は、私には必要なかった。私の脚は、すでにアスファルトを蹴っていた。
A氏の腕を掴み、後ろへ引き戻す。瘦せた身体は驚くほど軽く、勢い余って私の方が前のめりになった。彼が振り向く。その目には、面談室で見た静けさはなく、ただ茫然とした困惑だけがあった。「あなた、なぜ」――彼の唇がそう動いた気がした。
白いヘッドライトの光が、世界を真っ二つに切り裂いた。
衝撃。音。痛みのようなもの。それらは順序を喪い、ただ強烈な「白」に塗りつぶされていった。私はA氏が無事にホームへと尻もちをつくのを、視界の端で確認した気がした。確認できたつもりだった。だが、それが事実だったのか、それとも願望が見せた幻だったのか、私には永遠に分からないだろう。
なぜなら、次に意識を取り戻したとき、私はすでに、人間ではなかったからだ。
3.無貌の声
暗闇でも光でもない、奇妙な「空白」の中に、私は浮かんでいた。
身体の感覚はない。それなのに、思考だけは異様にクリアだった。あれは死だな、と私は分析した。状況を整理する。ホームから線路に転落、もしくは電車に接触。即死、あるいは数分以内の失血死。家族はいない。両親はすでに鬼籍に入っており、独身、子供なし。会社の業務は副部長が引き継ぐ。引き継ぎ資料はクラウド上に整備済み。死後の手続きにかかる関係者の負荷は、おおむね最小化されているはずだ。
悪くない死に方だ、と私は結論を下した。一人の命を救い、自らの死亡コストも最小化した。経済合理性の観点から見て、合格点をつけてよい結末である。
《――合格点、とは。実に傲慢な物言いではないか》
声がした。耳ではなく、思考の中枢に直接書き込まれるような、奇妙な声だった。男性とも女性ともつかず、子どもの笑い声のようにも、老人のため息のようにも聞こえる。ひとつではなく、無数の声が同時に発話しているような違和感があった。
「どなたですか」
声の出ない口で、私は問うた。すると空白の中に、何かの輪郭がぼんやりと浮かび上がってきた。人の形ではなかった。光でも、闇でもない。ただ、「そこに何かがいる」という事実だけが、五感を介さずに突きつけられる、そういう存在感だった。
《名は、お前たちの言語では発音不能だ。便宜上、〈管理者〉とでも呼ぶがよい》
「神様、とは仰らないんですね」
《信仰なき者に、神を名乗っても無意味であろう。お前のような魂は近年、急増している。輪廻の流れが滞り、来世への移送プロセスに著しい遅延が生じている。これは由々しき事態である》
〈管理者〉の口調には、上司への苦情を述べる中間管理職のような、独特の疲労感が滲んでいた。私は思わず、唇のない口で苦笑しそうになった。なるほど、神とやらの世界にも、業務効率化の課題はあるらしい。
「であれば、話は早いと思います。私を速やかに次の段階へお送りいただければ、そちらの業務負荷も軽減されるはずです。私としても、無の中で漂い続けるのは時間の無駄ですので」
《――その態度だ》
〈管理者〉の声から、唐突に温度が抜け落ちた。
《お前は、自らの死を最後まで「成功した取引」として処理しようとしている。命を救ったから、引き継ぎを残したから、合格点をつけてよいと。死すらも、お前にとっては帳簿の一行に過ぎぬのだ。豊かな国、安定した社会、整備されたインフラ。それらに守られ、命の重みを直視せずに済んだ甘えが、お前のその傲慢を育てた》
「お言葉ですが」と私は穏やかに反論した。「私は私の境遇を選んで生まれたわけではありません。与えられた条件下で、最善を尽くしただけです。それを傲慢と呼ばれるのは、いささか不当ではないでしょうか」
《よかろう。ならば実験をしてやろう》
〈管理者〉の声に、ぞっとするような微笑が混ざった。
《お前を、もう一度この世界に戻してやる。ただし、お前の言うところの「与えられた条件」は、こちらで再設定させてもらう。豊かな国も、整ったインフラも、平和も与えぬ。戦時下の、貧しい国の、力なき幼子。それでもなお、お前が今のように「合格点」を口にできるかどうか。私は静かに観察させてもらおう》
「待ってください。それは罰でしょう。輪廻の流れを整えるという当初の目的から、明らかに逸脱しています」
《罰ではない。教育である。お前は、信仰なき者がいかに脆く、いかに小さき存在であるかを学ぶことになる。そのとき、お前の口から自然と祈りの言葉が漏れたなら――そのときこそ、私は神を名乗ろう》
私は、何かを言い返そうとした。だが、すでに思考の輪郭はぼやけ始めていた。空白が崩れ、視界の縁から、見たこともない景色が滲み出してくる。冷たい床。湿った空気。古い革と硝煙の匂い。そして、遠くから響く、機関銃の連射に似た音。
最後に〈管理者〉は、囁くように言い添えた。
《せいぜい、最適化に励むことだ。お前の愛する合理性とやらが、戦場でどれほど通用するか。私は、楽しみにしている》
4.孤児院の朝
目を開けたとき、最初に意識したのは、頬に当たる粗い毛布の感触だった。
次に、左の耳の奥で響く、低くくぐもった砲声。そして、頭上から覆い被さるように見下ろしてくる、痩せた女性の青い瞳。彼女の額には深い皺が刻まれ、ほつれた金髪の下から、黒ずんだ修道服の襟がのぞいていた。
「ああ、よかった。意識が戻ったのね、エルナ」
女性の発した音は、明らかに日本語ではなかった。にもかかわらず、私の脳は、その意味を瞬時に理解した。〈管理者〉によるサービスの一環らしい。せめてもの慈悲、というところか。私は皮肉な気分で、自分の手を見ようとした。
毛布の下から、ぎこちなく差し出された手。それは、想像していたよりもずっと小さかった。指は細く、爪は短く切り揃えられ、手の甲にはまだ赤子のような薄い脂肪が残っている。だが同時に、指の節には、栄養不良を示すかすかな腫れがあり、手首には古いあざのような痕も浮かんでいた。
幼女の手、だった。
言葉を失う、というのは、まさにこういう状態を指すのだろう。私は数秒間、その小さな手をただ見つめていた。〈管理者〉の宣告が、ようやく現実の重みを伴って、胸の奥に落ちてきた。
「三日も眠っていたのよ。空襲のあと、瓦礫の下からあなたを引きずり出したとき、シスターたちはもう駄目だと言ったの。でもね、あなたは強い子。神様もきっとあなたを見守っていらっしゃる」
女性は私の頭をそっと撫でた。慣れた手つきだった。空襲。瓦礫。シスター。状況を把握するためのキーワードは、すでに十分すぎるほど揃っていた。
ここは、戦時下の、宗教施設。おそらくは孤児院。私の名前は「エルナ」。年齢は、自分の身体の感覚から推測するに、せいぜい五、六歳といったところか。前世の中年男の人格と、まだ生殖年齢にも達していない少女の身体。これ以上ないほど、不釣り合いな取り合わせである。
「シスター」と、私の口は自然に動いた。声は、自分の意思とはかけ離れた、頼りない高音だった。「ここは、どこですか。今は、戦争中、なのですか」
女性――シスターは、少しだけ目を瞠った。私の言葉づかいが、年齢に見合わぬほど整っていたせいだろう。だがその違和感を、彼女はすぐに「賢い子なのね」という微笑みに変換してしまった。
「ここは聖アガタ孤児院。グラステン王国の南部、リンデン市の郊外よ。戦争は……ええ、まだ続いている。ロイテンブルク帝国の軍が、もうそこまで来ているという話もあるわ。でも、心配しないで。神様と王国軍が、私たちを守ってくださるから」
神様と王国軍。私は、心の中で深いため息をついた。この女性の口調から滲み出るのは、信仰心というよりも、信じなければ立っていられないという、追い詰められた者の祈りだった。それは、いずれ崩れることを宿命づけられた、薄い氷のような楽観論である。
頭の中で、すでに別のシミュレーションが走り始めていた。グラステン王国。ロイテンブルク帝国。地名から推測するに、地理的にはおそらく西欧をモデルとした世界。空襲があるということは、航空戦力が実用化された時代以降。前世の歴史で言えば、第一次大戦末期から第二次大戦中盤あたりの技術水準と見るべきか。
帝国軍が「もうそこまで来ている」。劣勢な王国の、南部辺境の孤児院。両親なき幼女。条件は、恐ろしいほどに最悪の側に振り切れている。〈管理者〉の「再設定」は、実に丁寧な仕事ぶりだ。私は、思わず乾いた笑いが漏れそうになるのを、必死にこらえた。今ここで嗤えば、シスターの瞳に映る「賢く哀れな子」のイメージが、ただちに「不気味な子」へと書き換えられる。それは、生存戦略上、避けるべき結果である。
「シスター。お水を、いただけますか」
私は、できる限り「五歳児らしい」音域を意識して、控えめに微笑んでみせた。シスターは慌てて立ち上がり、部屋の隅の素焼きの壺から、欠けた木のコップに水を汲んできた。その水は、思ったほど冷たくはなく、わずかに鉄錆の味がした。それでも、乾ききった喉には、十分に甘露だった。
飲み終えてコップを返すとき、私はようやく、部屋の全景を観察する余裕を得た。石造りの古い建物。剥がれかけた漆喰の壁には、聖人のものらしき色褪せた肖像画が、ひびの入った額に収まったまま掛かっている。窓は板で半分塞がれ、その隙間から差し込む朝陽が、埃の粒を浮かび上がらせていた。部屋の隅では、私と同じくらいの年頃の子どもが三人、固まって眠っている。その小さな寝息は、不揃いで、ときおり咳が混じった。
貧しさは、空気そのものに染み込んでいた。前世の私が見慣れた、清潔で温度管理された日本の街並みからは、想像することすら難しい質感の貧しさだった。それでもなお、シスターの瞳には、奇妙なほど穏やかな光が宿っていた。彼女は神を信じている。神に愛されていると信じている。だからこそ、この瓦礫の中に留まり、子どもたちに水を分け与えることができるのだろう。
その光を、私は美しいとは思わなかった。むしろ、非効率な光だ、と思った。彼女がここから逃げ、後方都市の安全な施設に身を寄せれば、より多くの子どもを長期的に守れる可能性がある。にもかかわらず、彼女は留まる。「神様が守ってくださる」という、検証不可能な仮説に基づいて。それは私の知る合理性とは、根本的に相容れない選択だった。
だが――と、私は冷たい部分でつぶやいた。今の私もまた、彼女に守られる側の人間なのだ。そして、この身体は、自力で食料を調達することも、武器を扱うことも、戦線を離脱することもできない。〈管理者〉の言うとおり、私は「力なき幼子」である。そして「合理性」は、まずもって、自分の置かれた現実を冷徹に直視するところから始まる。
5.最適化の宣言
その日の昼、孤児院の中庭で、私はようやく一人になる時間を得た。
古い井戸の縁に腰掛け、私は両足をぶらつかせた。ぶら下げた靴は、革のサンダルというよりは、布を巻き付けただけのような粗末な代物で、紐の結び目がほどけかけていた。私はそれを器用に結び直した。前世で覚えた手の動きが、小さな指の上にも、奇妙にきちんと残っていた。
空は、不気味なほどに青かった。砲声はやんでいたが、東の地平線には、消し残った煙の柱がいくつも立ち上っている。あの煙の下では、私と同じくらいの子どもたちが、今日も瓦礫の下敷きになっているのだろう。前世であれば、テレビ画面の向こう側の出来事として、紅茶を飲みながら眉をひそめれば済んだ景色だ。だが今、それは私の現実の延長線上にあった。
私は頭の中で、淡々と整理を始めた。
第一に、長期的目標。前世の常識から逆算するに、戦争はいずれ終結する。問題は、それまでにこの身体を生き延びさせること。第二に、中期的目標。劣勢の王国南部から、より安全な地域へと身を移すこと。そのためには、孤児院単独での疎開ではなく、軍や国家機関の関与する避難ルートに乗る必要がある。第三に、短期的目標。栄養状態の改善と、自分の知性を「使える資源」として認識させること。可愛らしさは、この時代この場所においても、一つの戦略資源である。
第四に、忘れてはならぬ留意事項。〈管理者〉とやらの観察である。
あの存在は、私が「祈り」を口にすることを期待している。苦痛と恐怖に押し潰され、神にすがる瞬間を待っている。であれば、私が取るべき態度はひとつだ。最後まで、祈らないこと。あらゆる困難を、信仰ではなく、知性と判断と行動によって乗り越えること。それこそが、〈管理者〉に対する、私なりのささやかな反逆である。
私はそっと、自分の小さな掌を見下ろした。皺一つない、滑らかで、頼りない手。だが、この手の中には、四十年分の知識と、数えきれない人事処理で磨かれた判断力が宿っている。物理的な弱さは、戦略によって補える。一人で勝てない戦いは、他者を巻き込むことで勝ち筋を作る。これは私が、前世で何度も成功させてきた基本パターンだった。
「エルナ。お外にいたの。風が冷たいわ、中にお戻りなさい」
背後から、シスターの声がした。私は振り返り、できる限り無邪気に見えるように小首をかしげた。前世では決して身につけることのできなかった仕草が、この身体には自然と備わっているらしい。便利なものだ、と私は冷静に評価した。
「シスター。ひとつ、お尋ねしてもいいですか」
「なあに、エルナ」
「この街には、軍の人は、まだ残っていますか。隊長さん、みたいな、偉い人が」
シスターは、わずかに眉をひそめた。五歳児が口にするには、奇妙な質問だったろう。だが彼女は、それを「賢い子の不安」として受け止めることを選んだようだった。彼女の中の私のイメージは、まだ「神に愛された、賢く健気な孤児」として、固定されつつある。実に好都合な認知バイアスだった。
「ええ、いらっしゃるわ。市庁舎に駐屯部隊の本部があって、若い大尉様が指揮していらっしゃるの。明日にも、孤児院に物資を届けに寄ってくださると伺っているわ。怖い方じゃないから、安心していいのよ」
大尉。物資。明日。私の脳内では、すでに次のシナリオが組み上がりつつあった。三日寝込んでいた幼女が、目覚めた直後に流暢な言葉で軍の到着を尋ねる。それだけで、観察眼のある将校なら、何かおかしいと感じるはずだ。問題は、その「おかしい」が、どの方向に解釈されるかである。
不気味な異常児として警戒されるか。あるいは、戦時下のプロパガンダにとって都合のよい「奇跡の子」として、保護対象に格上げされるか。私が狙うべきは、もちろん後者である。神を信じない人間が、神の象徴として担ぎ上げられる。皮肉ではあるが、それくらいの皮肉は、生き延びるための税金として、喜んで支払おう。
私は、シスターに向かって、これまでで一番無邪気な笑顔を作ってみせた。
「よかった。それなら、エルナ、安心しました。早く元気になって、シスターのお手伝いをしたいです」
シスターの瞳が、感極まったように潤んだ。三日間生死をさまよっていた子どもが、目覚めて最初に口にしたのが「お手伝いをしたい」という言葉だ。彼女の中の「神に愛された孤児」像は、これでまた一段、補強されたはずである。私は心の中で、そっと収支表にプラスを書き込んだ。
6.鋼鉄の大尉
翌朝、孤児院の正門前に、二台の灰緑色のトラックが停まった。
幌のついた古びた軍用車だった。エンジン音は、整備の行き届かないディーゼル特有の不機嫌な唸りを立てており、排気管からは黒い煙が断続的に吐き出されている。だが、それでもなお、この街においては「最も近代的な機械」と呼んで差し支えない代物だった。一台目の助手席から、一人の士官が降りてきた。
歳の頃は三十前後。背は高くはないが、肩幅が広く、踵から首筋まで一本の鋼鉄棒を通したような、姿勢の良い男だった。黒に近い濃紺の軍服。左胸には、王国軍の銀の十字章。右の頬には、古い刀傷がひと筋、顎へと走っている。眼鏡の奥の灰色の瞳は、感情を読み取らせない種類のものだった。
「グラステン王国軍第十二歩兵連隊、第三大隊指揮官、カスパー・フォン・リンデンベルク大尉である。物資を持参した。受領者は」
大尉の言葉は短く、無駄がなかった。慌てて出迎えに走ったシスター・マリアが、息を整えながら名乗りを上げる。私は、その三歩ほど後ろから、目立たぬように一行を観察していた。トラックの荷台から降ろされる木箱は、十二。中身は、麦粉、塩漬け肉、毛布、医薬品といったところか。子どもが三十人ほどいる施設に対する補給としては、ぎりぎり「最低限」の量である。
大尉が、ふと、視線を私の方へと向けた。一秒、二秒。眼鏡の奥の瞳が、こちらを「観察対象」として捉えるのが分かった。前世で私が、退職勧奨面談の相手を初めて部屋に招き入れたときの目つきと、よく似ていた。情報を集め、選別し、結論を下す。そのための視線である。
「シスター。その子は」
「ああ、エルナです。先週の空襲で、両親を亡くしました。瓦礫の下から、奇跡的に助かった子で……三日間眠ったままでしたが、昨日ようやく目を覚ましたんです。とても賢くて、健気な子ですよ」
大尉の眉が、わずかに動いた。先週の空襲――それは、彼の部隊が応戦したはずの戦闘である。記録に残らぬ「民間人の死者」の一人として処理されたであろう私という存在が、目の前にぴんと立っていることへの、純粋な情報処理上の驚きだった。同情ではない。困惑でもない。ただの、データの再入力。
私は、この男は使える、と直感した。同類の匂いがする。情に流されず、必要なものを必要な順序で処理する種類の人間。前世であれば、間違いなく出世コースに乗せて、五年後には役員候補として磨き上げていただろう。そして、こういう人間は、こちらが「合理的に有用」であると示すことができれば、感情ではなく計算に基づいて、確実に手を差し伸べてくれる。
私は、深く息を吸い、一歩前へ進み出た。
「大尉様。エルナと、申します。お忙しいところ、物資をお運びくださり、ありがとうございます」
声は震えていた。意図的に、ではない。子どもの肉体は、大人の前に立ったとき、生理的に緊張する。だが私は、その震えを「あえて利用する」ことを選んだ。怯えを完全に隠す賢い子よりも、怯えながらなお礼を尽くす健気な子の方が、観察者の脳裏に強く刻まれる。これは前世の交渉術における基本である。
大尉は、片膝をつき、私と目線を合わせた。意外な行動だった。彼の中で、私はすでに「ただの孤児」から、「特異な観察対象」へと格上げされている。
「エルナ。年齢は」
「五つ、です」
「五歳児が、私を『大尉様』と呼び分けたな。階級章を読めるのか」
来た、と私は内心ほくそ笑んだ。意図的に滑り込ませた、たった一語の不自然さ。彼は見逃さなかった。優秀な人事担当者は、履歴書の隙間に書かれていないものを読む。優秀な士官は、子どもの言葉尻の隅から、敵の偵察兵の存在を嗅ぎ取る。同じことだ。
「お父様が、本に載っていた絵を、見せて、教えてくれました。襟の星の数で、偉さが分かる、と」
即興で組み立てた嘘だった。だが、父親の趣味として軍人録の挿絵を子に見せる、というのは、この時代この地域においては十分にあり得る話である。ありえそうな嘘は、真実より強い。これも前世の常識だ。
大尉は、しばし無言で私を見つめた。眼鏡のレンズの奥で、灰色の瞳が何かを測量している。やがて彼は、ゆっくりと立ち上がり、シスター・マリアに向き直った。
「シスター。物資の搬入が終わり次第、報告書を一枚書く。本日この施設で確認した『生存者リスト』だ。エルナという名の幼女を、その筆頭に記載する」
「あの、それは、どういう……」
「戦時下において、空襲の瓦礫から三日後に救出された幼児は、統計上、ほぼ全員が死亡する。例外は、過去十年で確認されている限り、二件のみだ。生存率にして〇・三パーセント以下。この子は、その例外に該当する」
大尉は、淡々と数字を並べた。シスターは、それが意味するところを掴みかね、ただ目を瞬かせるばかりだった。だが私には分かった。この男は、私を「奇跡の子」と呼んだのだ。ただし、宗教的な意味ではなく、純粋に統計的外れ値という意味で。皮肉なほど、私の趣味に合った形容だった。
「司令部は、この種の事例を欲しがっている。前線の士気が低下している今、『神に守られた子』の存在は、ささやかな宣伝材料になる。シスター、この子を後方の聖アンナ修道院に移送することを、上申しよう。あちらの方が、医療も食糧も整っている」
ビンゴ、と私は心の中でつぶやいた。第一目標、達成。後方都市への避難ルートの確保。しかも、軍の正式な手続きを通じての、合法的かつ優先度の高い形で。所要時間、目覚めてから二十四時間以内。前世での新規事業立ち上げと比較しても、相当に優秀な速度である。
だが、油断はできない。大尉が私を「使える」と判断した理由は、生存率の数字だけではない。彼は、五歳児が階級章を読むことの異常さを、確かに認識していた。私という存在の、不気味な側面を、彼は決して見落としていない。それでもなお、彼は私を「有用」と判定した。つまりこの男は、不気味さをも込みで「使える資源」として処理できる種類の合理主義者である。最も警戒すべき相手であり、同時に、最も頼るべき相手でもある。
大尉は再び、私の方へと視線を落とした。
「エルナ。一つだけ、答えよ。瓦礫の下で、お前は何を考えていた」
質問の意図は明白だった。三日間瓦礫の下にいた五歳児が、まともな思考をしていたはずがない。だがもし、何らかの「答え」を返せたなら――それは大尉にとって、この子を司令部に売り込むための、追加のセールスポイントになる。私は数瞬、瞳を伏せ、いかにも子どもらしい逡巡を演じた。そして、ゆっくりと顔を上げた。
「……暗くて、痛くて、ずっと、声を聞いていました。誰かの、低い、声、です。神様、ではないと、思います。神様は、もっと、優しいはずだから。だから、エルナは、その声に、負けないように、ずっと数を、かぞえていました」
完璧な配球だった、と自分でも思った。神を否定せず、しかし神に媚びもしない。神ならぬ「声」を出すことで、神秘性に薄く色を付ける。そして「数をかぞえていた」という、五歳児には不釣り合いな冷静さ。シスター・マリアは「ああ」と小さく息を呑み、両手を胸の前で組み合わせた。彼女の中では、私はもう完全に「神に選ばれた子」として確定したらしい。
大尉だけが、無表情のまま、何も応えなかった。ただ、眼鏡の奥の灰色の瞳が、ほんの一瞬、ぎらりと光を宿した気がした。それは、戦地で「使える兵器」を見つけたときの士官の眼差しに、限りなく近い色だった。
「シスター、追加で申し上げる」と、大尉は淡々と言った。「移送に際しては、王国魔導局の検査も併せて要請する」
「魔導局、ですか」シスターは目を丸くした。「あの、エルナはまだ、検査適齢ではないはずでは」
「規定上は七歳から、だな。だが、近年は前線の損耗が激しい。五歳児であっても、適性さえあれば、繰り上げ検査を受ける例が増えている。この子は……」大尉は再び、私を見下ろした。「素質があるかもしれぬ。瓦礫の下で三日間生き延びた身体には、何かしらの加護が宿っていることが多い。確認しないわけにはいかぬ」
魔導局。魔導適性検査。私の頭の中で、すでに描かれていた地図に、新たな線が一本、太く書き加えられた。この世界には、魔法が、存在する。しかも、軍事的に管理運用される、明確な技術体系として。前世の物理法則に、追加で「魔導」という未知の変数が組み込まれている世界。そう理解すれば、空襲という航空戦が成立する時代に、なお宗教施設が前線近くに残されている奇妙な情勢にも、説明がつく。
そして、魔導適性は、子どもの方が高いことが多いのだろう。だからこそ、戦時下で「素質ある子ども」が、繰り上げで検査され、運用されている。それは、私が前世で散々批判してきた、児童労働の極端な変奏曲にすぎない。だが、批判は後回しだ。今の私にとって、その情報は、「使える可能性」の宝庫だった。
もし、この小さな身体に、魔導の素質が宿っていたなら。前世の四十年分の知性と、この時代の魔導技術を掛け合わせれば、いったいどれほどの「最適化」が可能だろうか。私は、自分の唇の端が、ほんのわずかに吊り上がるのを感じた。だが、すぐにそれを引き締め直し、不安げに首をかしげる五歳児の表情に戻した。
空のどこか、雲の向こう側。〈管理者〉が、私を見下ろしている気配が、はっきりとあった。怒っているのか、嗤っているのか、それとも単に呆れているのか。私には判断がつかなかった。だが、たとえどんな表情を浮かべていようと、私の答えは変わらない。
祈らない。すがらない。最後の最後まで、自分の頭と判断で、生き延びてみせる。
たとえあなたが、神でも、神ならぬ何かでも、構うものか。
大尉が、胸ポケットから万年筆を取り出し、軍用手帳を開いた。彼の手によって、何かが書きつけられる、その小さな音が、私の運命の歯車が初めて噛み合う音のように、奇妙にくっきりと耳に届いた。エルナという名の幼女は、その瞬間、戦時下の王国の機構の中に、確かに「登録」されたのだ。
空のどこかで、〈管理者〉が小さく笑った気がした。あるいは、それはただの風の音だったかもしれない。
いずれにせよ、私の二度目の人生は、ここから本当に始まる。
―― 第一章 了 ――
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