鋼鉄の聖女 ―― 帝国幼年戦記 ―― 効率厨の人事部長、戦場の幼女になる ――
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
第二章「魔導適性検査」 後方都市レーフェルトの聖アンナ修道院へ移送されたエルナは、魔導局の検査を受ける。古語の四行詩を詠唱された瞬間、意識が〈管理者〉の領域に引き込まれ、再会する。〈管理者〉は「魔導の素質は祈らせるための鎖だ」と宣告するが、エルナは「鎖は梯子になる」と言い返す。 検査結果は計測上限突破。組織全体を震撼させる数値を前に、エルナは「気絶しそうな弱い幼女」を演じ、組織に対する印象操作を続ける。最終的に、王立アルフェンハイム魔導士官学校・初等部・特待生枠への入校が決定。〈管理者〉の鎖は確実に締まったが、エルナの計算では、それはむしろ望ましい梯子だった。
本文
第二章 魔導適性検査
1.護送列車
大尉の手帳に名前が書きつけられてから、わずか四日。私を含む孤児四名と、シスター・マリアの引率による移送命令書が、孤児院の朱錆びた鉄門に貼り出された。
軍の処理速度としては、異例の速さだったらしい。シスター・マリアは「神様のご加護よ」と何度も胸の前で十字を切ったが、私に言わせれば、これは大尉という一個の優秀な歯車が、組織の中で如何に効率よく稟議を回したかを示す、ささやかな実例にすぎなかった。神は、書類のハンコを押してくれない。押すのはいつも、生身の中間管理職である。
移送当日。私たちは灰色の軍用トラックに揺られ、リンデン市の南郊外にある小さな貨物駅へと運ばれた。駅舎は半ば焼け落ち、ホームの屋根は黒く煤け、線路の枕木の隙間からは雑草がしぶとく顔を出していた。それでも、戦時下のこの国では、ここはまだ「機能している駅」の部類に入るのだという。
ホームには、私たちのほかにも、何組かの一団がいた。包帯を巻いた負傷兵、後送される将校、書類の束を抱えた事務官。そして、目深に黒い帽子を被った、見るからに「魔導局」と書かれていそうな、痩せた男たち。彼らの首元には、銀色の小さな金属片が下げられている。あれが識別票か、あるいは魔導器具の一種か。私は、目立たぬ範囲で観察を続けた。
やがて、煤煙を吹き上げながら、貨物列車が滑り込んできた。蒸気機関車――いや、よく見ると、その先頭部にはボイラーのほかにもうひとつ、銀色のガラス球を埋め込んだ奇妙な装置がついていた。球の中で、青白い光が、心臓のようにゆっくりと脈動している。私は息を呑んだ。あれは、明らかに「魔導機関」だ。前世の物理法則だけでは説明のつかない、この世界独自のエネルギー機関である。
観察、と私は自分に言い聞かせた。観察し、分類し、仮説を立て、検証する。前世で私が四十年磨いてきた、ただひとつの武器である。魔法と呼ばれているものの正体が、純粋なファンタジーなのか、それとも何らかの物理現象に名前を貼り替えただけの「未解明の科学」なのか。その判別は、私の生存戦略に直結する重要事項だった。
「エルナ、お手々はシスターから離さないでね。怖くないからね」
シスターの大きな手が、私の小さな手を包んだ。冷たかった。彼女もまた、戦地から後方へ移動するこの旅に、内心では強い不安を感じているのだろう。けれど彼女の口は、決して「怖い」と言わない。子どもたちの前では、最後まで「神様のご加護」を語り続けるつもりらしい。
私は、その手をきゅっと握り返した。これは、計算上、最も合理的な行動だった。シスター・マリアは、いまや私にとって最大の擁護者である。彼女が「私を可愛い」と感じている限り、軍と教会と国家が交錯する複雑な書類仕事の中で、私という一個の幼女の「人格的保証人」が確保され続ける。手を握り返すという三秒の労力で、その保証契約が更新される。費用対効果としては、申し分のない取引だった。
車内は、改造された旅客車だった。座席は木製で、塗装の剥げかけたベンチが向かい合わせに並んでいる。窓の外を、廃墟と化した畑地、半壊した農家、そして黒い焦げ跡の残る教会の尖塔が、ゆっくりと流れていった。同じ車両の隅では、若い兵士が三人、煙草を分け合っていた。彼らの軍服の右袖には、見慣れぬ紋章――銀の翼に剣をあしらった意匠が縫い付けられている。
翼と剣。それは、おそらく、この世界における「空を飛ぶ兵士」――すなわち、魔導による飛行戦闘員の徽章だろう。私は、その意匠を、頭の片隅にしっかりと記録した。情報は、いつどこで役立つかわからない。子どもの記憶力は、四十年生きた大人のそれより、はるかに鋭利だった。新鮮な紙に書きつけるように、すべての光景が、私の脳裏に滑り込んでくる。
列車は、丸一日と半日かけて、王国南部から中央部の都市レーフェルトへと辿り着いた。レーフェルトは、戦線から離れた古都であり、城壁の内側には、まだかろうじて「日常」と呼べる空気が残っていた。市場には果物が並び、街路には子どもの笑い声が響いている。私が前世で見慣れた都会の喧騒には程遠いものの、それでも、煙草の煙と硝煙が支配する南部の街とは、明らかに別世界だった。
2.聖アンナ修道院
聖アンナ修道院は、レーフェルトの北の丘の上にあった。
石灰岩を積み上げた、見上げるほどに高い壁。壁の内側には、回廊と中庭、図書館、医療棟、孤児院棟、そして礼拝堂までが整然と配置されていた。前身は数百年前の修道院だったらしいが、現在は王国が半ば接収し、戦時下の「保護施設」として運用されているようだった。要するに、教会と国家のハイブリッド経営である。聞きようによっては由緒ある言い方だが、実態はおそらく、修道女たちが半ば公務員のように働く、節税対策の整った福祉法人だった。
到着して最初に通されたのは、医療棟の一室だった。白い前掛けをした老齢の修道女が、私の体温を測り、瞳孔を覗き込み、関節の可動域を確認し、最後に薄い金属板のついた装置を、私の額に押し当てた。装置の中央では、針が小刻みに揺れていた。針の揺れ方を見て、修道女は「ふむ」と短く唸った。
「シスター・マリア。この子の魔素反応、ちょっと高めですね。栄養状態を考えれば、信じがたい数値です。よく食べさせて、よく眠らせて、それから三日後、魔導局の方をお呼びしましょう」
「魔素」。「反応」。それらの単語が、私のメモリに次々と書き込まれていく。魔素――この世界の魔導現象を支える、基礎的なエネルギー単位ないし媒介物質。それは大気中、もしくは生体の中に偏在しており、個人の素質によって、その吸引・放出効率が異なる。針が揺れる、ということは、おそらく簡易的な検出器であって、本格的な測定は別の機器で行われる。前世の科学用語に翻訳するなら、これは「生体内魔素濃度の初期スクリーニング」だ。
仮説、と私は心の中で頷いた。仮説の段階で構わない。検証は、これからゆっくりと進めていけばよい。なにしろ、私には時間がある。少なくとも、〈管理者〉が次の悪戯を仕掛けてくるまでの、暫定的な時間が。
修道院での三日間は、私の前世通算で言っても、十年ぶりに近いほど穏やかな時間だった。朝六時の鐘で起き、礼拝堂で短い祈り(私は唇だけ動かす)。麦のお粥と、薄いミルクと、小さなチーズ片の朝食。その後は、年長の子どもたちと一緒に、文字の読み書きと簡単な計算を学ぶ時間がある。私はわざと、「最初は読めなかった文字を、たちまち覚える賢い子」を演じた。完全に天才を装うのは目立ちすぎる。「素質はあるが、まだ未成熟」と評価される位置取りこそが、最も生き残りやすい。
昼食後の自由時間に、私は図書館に潜り込み、児童向けの棚から、最も平易に書かれた魔導入門書を抜き出した。「やさしいまどう 子どもむけ 第二版」――表紙には、笑顔の少女が、掌の上に小さな炎を浮かべている挿絵があった。あまりにもおあつらえ向きな入門書である。これも、誰かの善意か、それとも〈管理者〉の余興か。判別しにくい問題だが、利用させてもらう側に異論はなかった。
本によれば、魔導は大きく三つの要素で構成される。第一に「魔素」――環境および生体に偏在するエネルギー。第二に「術式」――言語や図形を媒介として、魔素の動きを規定する論理構造。第三に「術者の意志」――術式に方向性と強度を与える、いわば「コンパイラへの入力」のような役割を果たす因子。
なるほど、と私は静かに頷いた。これは、ファンタジーというより、もはやプログラミングである。魔素という資源を入力として、術式というコードを通し、術者の意志という実行コマンドで起動する。前世のソフトウェア開発の比喩で十分に説明がつく。だとすれば――私の得意分野ではないか。誰よりも正確に変数を管理し、誰よりも無駄のないコードを書き、誰よりも例外処理を徹底する。それは、私が前世で部下に何百回と説教してきたことそのものである。
私は本を閉じ、図書館の窓から差し込む陽光を浴びながら、自分の小さな掌をそっと開いた。〈管理者〉は、私に「祈り」を強要するための舞台として、戦時下の幼女を選んだ。だが、その舞台の上には、皮肉なことに、私の前世の経験と最も親和性の高い「魔導」という変数が、最初から仕込まれていた。これは敵失か、それとも、もっと深い意図のある罠か。いずれにせよ、私は喜んでこの変数を、自分の生存方程式の主要項として組み込ませてもらうつもりだった。
3.魔導局の検査官
三日目の午後、約束どおりに、王国魔導局の検査官が到着した。
一人ではなかった。三人組だった。先頭を歩くのは、五十がらみの瘦せた女性。鋼色の制服に、深紅の襟章、左胸には三つの金星。階級は中佐、ということになるのだろう。彼女に従う形で、若い男性技官が二人。それぞれが、革張りの大きな鞄を抱えていた。
「王国魔導局、適性審査部第四課、ヴァレリア・フォン・アッシェンバッハ中佐です」
中佐は、修道院の応接室で、簡潔に名乗った。声は低く、抑揚に乏しかった。前世で言うところの、官僚タイプである。長く役所勤めをしてきて、感情をすり減らし、最終的に「規則」だけを信仰するようになった人種。私は、その横顔を一目見ただけで、それを理解した。話の通じる相手だ、と。少なくとも、神秘主義者よりは、はるかに。
「リンデンベルク大尉からの上申書、確認しました。空襲後三日間生存、瓦礫からの救出例。生存率〇・三パーセント以下の事例。さらに、初期スクリーニングで魔素反応がC級閾値を超過。これらの条件を勘案し、繰り上げ検査の対象として認可されました」
言葉の節々が、見事に役所言葉だった。私は思わず、前世の懐かしさで頬が緩みそうになるのを、堪えなければならなかった。「閾値超過」「上申書」「繰り上げ認可」。あの〈管理者〉が用意した「戦時下の幼女」という最悪の境遇に、唯一吹いてくれた追い風があるとすれば、それはこの、世界共通の「お役所言葉」というやつだろう。
検査会場として割り当てられたのは、修道院の地下にある、古い穀物倉だった。石壁には、苔の生えた円環状の彫刻がいくつか刻まれており、おそらくは数百年前の魔導儀式に使われていた施設なのだろう。技官たちが鞄から取り出したのは、見たことのある機器と、見たことのない機器の混合だった。電子計のような目盛り板、ガラス管に詰められた色付きの液体、銀の線が編み込まれた円形の絨毯、そして、私の額に当てるための、銅製の冠。
「怖くないよ、エルナ。じっとして、目を瞑って、深呼吸を三回。それから、これから読み上げる四行詩を、心の中で繰り返してくれればいい。声には出さなくてかまわない」
中佐は、銅の冠を私の額に被せながら、不器用なほど淡々と言った。子どもをあやす言葉の選び方を、彼女はあまり知らないらしい。私はむしろ、その不器用さを好ましく感じた。媚びない大人は、長期的に最も信頼できるパートナーになり得る。
円形の絨毯の上に、私は素足で立たされた。冠の重みが、額にずしりと食い込む。中佐は四行詩を読み上げ始めた。それは、おそらく古語で書かれた、極めて初歩的な「魔素同調文」――術式の最も基礎的な型を、被験者の生体に「試着」させるためのテストコードだった。
目を瞑り、深呼吸を三回。私は、心の中で、中佐の四行詩を繰り返した。
4.再びの空白
その瞬間、私は再び、あの空白の中に立っていた。
倉の冷たい床も、銅の冠の重みも、消えていた。代わりに、暗闇でも光でもない、奇妙な「無」が、四方から私を包み込んでいる。死ぬ前と全く同じ景色だ、と私は冷静に思った。違う点があるとすれば、足元に、自分の小さな両足の輪郭がうっすらと見えていることだった。
《――ほう。再会だな》
声が降ってきた。あの〈管理者〉のものに、間違いなかった。けれど、前回よりも、わずかに「位置」のある声だった。私の正面、少しだけ上方。意識を集中させれば、なんとなくそこに、影のような輪郭が浮かんでいる気がする。
「適性検査の最中に呼び出していただけるとは、お忙しいところ恐縮です」
《呼び出したのではない。お前が、自ら触れたのだ。あの『四行詩』とやらは、未熟な術士の意識を、魔素界の浅瀬へと一時的に接続する儀式だ。本来であれば、五歳児の意識は、その閾を超えられぬ。お前は、超えた》
《前世の四十年分の自我が、子どもの魂の上に「重し」として乗っている。だからお前の意識は、本来の年齢では届かぬ深度に、容易く沈み込む。これは、私の想定の中にあった、最小限の副作用にすぎぬ》
「想定済みでしたか。ご丁寧なことです」と私は皮肉を返した。「ということは、私が魔導の素質を持つことも、最初から織り込み済みだったわけですね」
《当然だ。お前の魂の輪郭は、私が私の指で、わざわざ削り直してやった。戦場でなおも祈ろうとせぬ強情者には、戦場で「使える力」を持たせてやらねば、教育の機会が早々に失われる。瓦礫の下で死なれては、私の観察記録が一行で終わってしまうではないか》
私は、唇のない口で、笑った。今度は、笑わずにはいられなかった。なるほど、〈管理者〉という存在は、想像していたほど一枚岩ではないらしい。彼は、私に「祈らせる」という究極の目標と、「観察を継続させる」という運用上の制約との間で、ささやかな妥協を強いられている。その妥協の結果が、私の身体に宿った魔導の素質である。私にとっては、なんとも美味な贈り物だった。
「お言葉ですが、〈管理者〉殿。あなたが私に力をくださるたびに、私は祈らずに済む手段を一つずつ手に入れることになります。これは、教育としては、いささか方針がぶれているのではありませんか」
《――そう思うか》
〈管理者〉の声に、再びあの薄い微笑が混ざった。それは、こちらの計算を一段先で読まれた者にだけ分かる、ぞっとするような響きだった。
《魔導の力を持つ幼女が、戦時下で「使われない」と本気で思っているのか。お前に与えた素質は、お前を救う盾にはならぬ。お前を、より深く戦場へ引きずり込むための、鎖になる》
《人は、戦場の真ん中で、味方の血と、敵の悲鳴と、自らの傷の痛みの中で、ようやく祈るものだ。お前は、後方の事務机ではなく、最前線へと送られる。私は、その日が来るのを楽しみにしている》
私は、一瞬、言葉を失った。なるほど、これは、痛いところを突かれた、と認めるしかなかった。〈管理者〉の指摘は、悲しいほどに合理的だった。魔導の素質を持つ幼児は、戦時下の劣勢国家にとって、貴重な戦略資源である。中佐の階級と、検査機材の物々しさが、その事実をすでに雄弁に物語っている。私は、自分の身体に与えられた「ギフト」によって、ほぼ確実に、より危険な場所へと押し出されることになる。
けれど、と私は、暗闇の中で歯を食いしばった。けれど、それでもなお、私は祈らない。前線に送られようと、傷を負おうと、味方の血を浴びようと。祈りは、現状認識の放棄である。祈りは、合理的判断の対極にある、知性の敗北宣言である。私が、私の前世から、ただ一つだけ、この身体に持ち越したものがあるとすれば、それは「祈らない」という意地そのものだった。
「結構です、〈管理者〉殿。前線、大いに結構。私は、その鎖を、最大限活用させていただきます。あなたが私に「祈らせる」ために用意してくださった舞台は、私が私の合理性で踊るための、ちょうどよい大きさのダンスフロアです」
《――よかろう。せいぜい、踊って見せるがいい。お前のステップが乱れる日を、私は数えて待つ》
空白が、急速に崩れた。私の意識は、再び銅の冠の重みと、石壁の冷気と、中佐たちの息遣いの間に、引き戻されていった。
5.計測不能
目を開けた瞬間、検査室の空気が、明らかに変わっていた。
二人の若い技官が、計測機器の前で凍りついていた。ガラス管の中の液体は、青から赤、赤から紫へと、めまぐるしく色を変え、目盛り板の針はとうに振り切れ、針の先がカチカチと枠を叩く音だけが、地下室にこだましていた。中佐は、両腕を組んだまま、私を見下ろしていた。表情は、変わっていなかった。だが、その瞳の奥には、明らかに「警戒」と呼ぶべき色が、新しく宿っていた。
「……エルナ。気分はどうですか」
「すこし、めまいが、します。中佐様」
わざと、声を細く震わせた。実際、めまいはあった。だがそれ以上に、私は、まだ判断材料が足りないこの局面で、自分を「強そうに」見せる選択肢を、意図的に外したのだった。中佐の瞳に宿った「警戒」は、私への評価が一段引き上げられたサインである。同時に、それは、私が「危険な道具」として扱われ得る可能性が、同じ一段、上がったことも意味する。当面は、「気絶しそうな弱い幼女」として振る舞うのが、最も合理的な姿勢だった。
中佐は、銅の冠を私の額からそっと外し、技官の一人に手渡した。技官の指は、わずかに震えていた。冠は、温かかった。私の額の体温だけで温まるには、明らかに不自然な熱だった。
「シスター・マリア、子供を医療棟に。水分補給と、二時間の安静。それから、私と話があります。応接室で結構です」
中佐の指示は、短く、無駄がなかった。シスター・マリアは慌てて私を抱き上げ、地下から階段を上っていった。彼女の腕の中で、私は半ば瞼を伏せながら、地下室の物音に耳を澄ませた。
「中佐、この数値は……規定の上限を、三段階超えています。S級どころか、計測上限を突破しています」
「機材の故障の可能性は」
「三台すべて、同期しています。故障の可能性は、〇・一パーセント未満です」
「……報告書を司令部に上げます。最優先扱いで」
階段の上り口で、私は、ほんのわずかに、口の端を吊り上げた。シスターには見えない角度だった。やってくれたな、〈管理者〉。あれだけ私を脅しておきながら、結局あなたは、私の値札に、過剰なほどの値段をつけてくれた。「計測上限を突破」――その七文字は、これからの私の人生における、無敵のクレジットカードのようなものだ。
もちろん、無敵のカードは、無敵の請求書とセットで届く。司令部は、必ずや私の身柄を、最も有効と思われる場所――おそらくは、士官学校か、魔導訓練施設、あるいは直接前線――に配置しようとするだろう。それは、〈管理者〉が宣告した「鎖」そのものである。だが、鎖は、使い方次第で、梯子にもなる。
6.スカウト
二時間後、医療棟のベッドの上で、私はミルクと蜂蜜パンを与えられた。蜂蜜は、この時代この情勢では、ささやかな贅沢品である。修道院長自らの差し入れだという。修道院ぐるみで、私という「貴重な保護対象」を労ろうとする姿勢が、痛いほど露骨だった。
パンを半分まで食べ終えた頃、ベッドの脇に、二つの影が立った。アッシェンバッハ中佐と――驚いたことに、リンデンベルク大尉だった。南部から、わざわざ呼び寄せられたらしい。私の検査結果は、想像以上に高速で、組織の上層を駆け上がっているようだった。
「エルナ。気分はどうだ」と大尉。
「大丈夫、です。蜂蜜パン、おいしいです」
大尉の口の端が、わずかに、本当にわずかに、緩んだ気がした。私はそれを、感情の発露ではなく、「予定どおりに駒が動いている」ことへの満足の表情だと解釈した。私と彼の間には、すでに奇妙な共犯関係が築かれつつある。私が「使える子」であり続ける限り、彼は私に投資し続ける。私が彼の期待を裏切らない限り、彼は私の盾となる。これは、紛れもなく、利害の一致である。
「エルナ」と中佐は、椅子を引き寄せながら言った。「今日の検査の結果、あなたには、王国でも極めて稀な魔導の才能があることが分かりました。これは、誇るべきことです。同時に、責任を伴うことでもあります」
「責任、ですか」
私は、できる限り無垢に首をかしげた。中佐は、ほんの一秒だけ言い淀んだ。彼女もまた、五歳児に向かって「国家への責任」を語ることに、最低限の良心を持ち合わせている人間だったらしい。安心したが、ここで安心して油断するつもりはなかった。
「ええ。あなたのような才能は、国の宝です。けれど、宝は、磨かなければ光りません。私たち王国魔導局は、あなたに、特別な学校を用意したいと考えています。子どもたちが、安全な環境で、無理なく、けれども本格的に、魔導の使い方を学べる場所です」
中佐の言葉から、「軍属」「徴用」「兵器」といった露骨な単語は、すべて慎重に取り除かれていた。前世の人事責任者として、私はそれを高く評価した。役所の中の良心派は、こういう言葉の選び方で見分けがつく。そして、こういう人間は、こちらが「自発的な意志」を見せることで、最大の譲歩を引き出せる相手でもある。
「中佐様。エルナが、その学校に行ったら、いつか、戦争を、はやく終わらせる、お手伝いも、できますか」
中佐の眉が、わずかに動いた。大尉は、ほんの一瞬、視線を私から外し、窓の方を見やった。彼の唇の端には、抑えきれない苦笑のようなものが、確かに浮かんでいた。
「……ええ、エルナ。きっと、できますよ」と中佐は、ようやくそれだけ答えた。「あなたが、強く、賢く育てば」
私は、こくりと頷いた。よし、と内心で頷き直した。今この瞬間、彼女と大尉の脳裏には、「戦争を終わらせるために、進んで力を貸そうとする健気な幼女」のイメージが、深く刻み込まれた。これは、極めて強固な認知バイアスとなって、今後の私の扱いを規定し続けるだろう。私の決断の遅れも、私の不器用さも、私の戦場での失敗ですらも、その「健気さ」のフィルターを通して解釈されることになる。前世の人事評価で言うところの、「期待値の事前操作」である。
大尉が、ようやく口を開いた。
「中佐。具体的な配属先は」
「王立アルフェンハイム魔導士官学校、初等部、特待生枠。来月の初頭から入校とします」
王立、アルフェンハイム、魔導士官学校。私の脳内で、新たな駒が一つ、盤面に置かれた。「学校」と呼ばれてはいるが、実態は明らかに、軍属予備士官の養成機関である。子どもをそこへ送り込むということは、つまり国家が、私を「将来の魔導士官」として、長期的なキャリアパスの上に乗せたことを意味する。
悪くない。むしろ、上出来だ。前線への直送ではなく、訓練期間の確保。教育という名目での、後方都市での生活。同年代の「素質ある子ども」たちとのネットワーク構築。書物と教官という、情報の集積点へのアクセス権。私の生存戦略にとって、これ以上望ましいパッケージはなかった。
もちろん、士官学校とは、最終的に士官を輩出する場所である。卒業後の私を待つのは、ほぼ確実に、戦場である。〈管理者〉の予告した「鎖」は、すでに私の足首にしっかりと巻きついている。だが、巻きついた鎖を、最短距離で「梯子」に変換することが、私の役目だった。前線に立つ日まで、私は、可能な限り強く、可能な限り賢くなる。そして、可能な限り、祈らずに済む手段を、増やしていく。
「エルナ。一つ、確認しておきたい」
大尉が、ベッドのすぐ脇まで、椅子を引き寄せた。眼鏡の奥の灰色の瞳が、再び、私を「観察対象」として捉えていた。シスター・マリアが、まるで本能的に、私の手を握り直した。彼女は、自分の保護下にある幼女に、これ以上「責任」を背負わせまいとしているらしかった。私は、シスターの掌の温もりを、計算外の余白として静かに受け止めた。
「お前は、検査の最中、何を見ていた。中佐の朗読する四行詩の向こうに、何かが見えたか」
来るべき質問が来た、と私は思った。これは、彼が私に対して、最も知りたかった核心である。あれだけの数値を叩き出した子どもの「内側」で、何が起きていたのか。普通の幼児であれば、答えることのできない問いだ。だが、私は普通の幼児ではない。私は、ここで、最後の一手を打つことに決めた。
「……お部屋が、ありました」と、私は慎重に言葉を選んだ。「とても、ひろい、お部屋です。天井も、床も、ありません。そこに、声がいました。エルナを、ずっと、見ている、声です。瓦礫の下の声と、おなじでした」
大尉の眼鏡の奥で、灰色の瞳が、ゆっくりと細まった。シスター・マリアは、口元を片手で押さえ、ほとんど泣き出しそうな顔をしている。中佐は、無表情のまま、すべての言葉を脳裏で書き留めているようだった。
「その声は、何と言っていた」
大尉の問いは短かった。私は、瞼をひと呼吸だけ伏せ、それから、できる限り澄んだ瞳で、彼を見上げた。
「『祈るな』、と」
言ってから、私は、心の中で、ほんの少しだけ、自分の悪戯を笑った。〈管理者〉が、もしどこかでこのやり取りを「観察」しているのなら、さぞや渋い顔をしていることだろう。彼の発した言葉を、文字通りひっくり返した嘘である。〈管理者〉は祈らせたい。私は祈らない。それを、軍属の上官たちにわざわざ「声からの託宣」として伝える。私は私の意志を、神ならぬ声からの「命令」に偽装することで、共有可能な「使命」として、彼らに譲り渡したのだ。
「祈るな、と。続きは、ありませんでした。ただ、それだけ。エルナは、よく分かりません。けれど、忘れては、いけない、気が、しました」
部屋の中に、奇妙な沈黙が落ちた。シスター・マリアは、ついに堪えきれず、両手で顔を覆い、肩を震わせ始めた。「ああ、神様……」と彼女は呟いた。だが、その「神様」は、私の答えに対する反論ではなく、むしろ深い同情の言葉のようだった。神に向かって「祈るな」と告げる声を聞くなど、この敬虔な女性の人生哲学からすれば、想像することすら難しい暴力だ。彼女の中で、私という存在は、いま、「神の試練を背負わされた、可哀想な、奇跡の子」として、最終的に確定したらしい。
大尉は、しばらく無言だった。彼の中では、複数の解釈が、同時並行で走っているのが見て取れた。第一の仮説――子どもの妄言。第二の仮説――被験者の幻覚。第三の仮説――敵性魔導士の精神干渉。第四の仮説――何らかの本物の啓示。彼は、それぞれの仮説の確率を、目に見えぬ天秤の上で、慎重に計っているようだった。
「中佐」と彼はようやく口を開いた。「この子の発言、いずれも記録に残されますか」
「もちろん。逐一」
「であれば、提案を一つ。報告書の表題に、こう記載いただきたい。『計測上限突破事例、エルナ・シュタイナー。仮称・聖なき少女』」
聖なき少女。私は、その単語が宙に放たれた瞬間、思わず本当に瞬きをした。シスター・マリアが顔を上げ、信じられないものを見るように大尉を凝視した。中佐の頬すら、わずかに引き攣った。「聖なき」――聖人や聖女と呼ばれることの多いこの世界において、それは、明らかに侮蔑か、さもなくば、ぞっとするほど畏怖の響きを伴う言葉だった。
「リンデンベルク大尉、それは、いささか不謹慎では」
「不謹慎、ではあります。だが、正確です」と大尉は淡々と続けた。「神に祈るな、と告げる声を聞く子。神に守られたのではなく、神とは別の何かに『観察されている』子。教会の用語で語るには、適切な呼称が存在しません。であれば、率直に、聖なき少女、と」
「……検討します」と中佐は短く返した。けれど、彼女がメモ帳のページを繰り、その単語をすでに書き留めようとしていることは、私の目には明らかだった。役所の人間は、刺激的な表題を内心では好む。それが、後の予算獲得において、極めて強力な武器になることを知っているからだ。
私は、毛布の中で、そっと両手を組み合わせた。組み合わせはしたが、もちろん、祈ったわけではない。前世のサラリーマンが、決算報告書の提出を見送るときに無意識に行う、ささやかな緊張のポーズ。それを、五歳児の身体に翻訳して、再現してみせただけだった。
聖なき少女、エルナ・シュタイナー。今日のこの瞬間、王国の機構の中に、奇妙な「ラベル」を貼り付けられた一人の駒が、新たに登録された。神に祝福されたわけでもなく、悪魔に呪われたわけでもない、ただ「祈らない」というだけの、小さな駒である。盤面の中心から見れば、その駒は、まだあまりにも端に位置している。だが、駒には駒の動き方があり、端には端の戦い方がある。私は、それを誰よりもよく知っていた。
窓の外で、レーフェルトの夕暮れの鐘が、低く鳴り始めた。明日、私は、シスター・マリアと別れる。来月、王立アルフェンハイム魔導士官学校、初等部、特待生枠としての、入校手続きが待っている。同年代の「素質ある子ども」たち。私と同じく、誰かの都合で「使える駒」として選別された、まだ何も知らない子どもたち。
彼らとの出会いが、私にとって新たな同盟者の獲得となるのか、それとも、新たな競合相手の出現となるのか。それは、まだ分からない。けれど、どちらに転んでも構わない、と私は思った。私は私の合理性を貫く。私の知性で、最後まで「祈らない」という一点を守り抜く。それさえ続けていれば、〈管理者〉の用意した舞台は、必ずや、私の踊りのために整えられたダンスフロアへと、姿を変えていくはずだ。
大尉は、最後にもう一度だけ、私と目線を合わせた。
「エルナ。アルフェンハイムでは、お前のような子どもが、もう何人か待っている。皆、お前と同じく、特異な事例だ。仲良くやれるとも限らぬ。むしろ、ぶつかることの方が多いだろう。それでも、お前は、お前の頭で、考え続けろ。誰かに『考えるな』と言われたときこそ、最も警戒しろ。よいな」
それは、士官の命令、というよりは、不器用な大人が、不器用なやり方で、子どもに渡す、ささやかな餞別のような言葉だった。私は、思いがけず、わずかに胸の奥が温まるのを感じた。これは、計算の外側にある温度だ。前世であれば、私はこの種の感情を、業務上の判断を歪める「ノイズ」として、即座に切り捨てていた。だが、五歳児の身体は、そのノイズを、不器用なまま受け止めてしまうらしい。
「はい、大尉様。エルナ、ちゃんと、考えます。約束、します」
約束。それは、前世の私が、最も嫌った種類の言葉だった。検証不能で、罰則なく、感情だけで結ばれる、口頭の合意。だが、今、私はそれを、自分の意志で口にした。誰でもない、この灰色の瞳の男に向かって。それが、私の二度目の人生における、初めての「祈らない約束」だった。
遥か頭上の、雲の向こうの、見えぬ場所で。〈管理者〉が、ほんのわずか、息を呑むような気配が、確かにあった。あるいは、それはやはり、ただの風の音だったのかもしれない。けれど私は、この日のことを、いつまでも忘れまいと、自分の中の帳簿に、太く一本、線を引いた。
明日からは、また新しい計算が始まる。聖なき少女、エルナ・シュタイナーの、本格的な戦争は、まだ始まってすらいない。
―― 第二章 了 ――
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