鋼鉄の聖女 ―― 帝国幼年戦記 ―― 効率厨の人事部長、戦場の幼女になる ――

小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品

📅 公開日: 2026/7/15 📚 シリーズ: 鋼鉄の聖女 ―― 帝国幼年戦記 ―― 効率厨の人事部長、戦場の幼女になる ―― 📝 8,880文字 🤖 AI創作支援作品 ✅ 全年齢

あらすじ

第三章「アルフェンハイムの梯子」 シスター・マリアとの別れを経て、エルナはアルフェンハイムへ。防衛資源が優先配分された古都の平和を冷静に分析しながら、王立魔導士官学校の門をくぐる。 食堂で三人の同期と出会う。信仰と知性を兼ね備えた旧貴族の少女・アーデルハイト、人懐っこさの裏に計算を持つ平民の少年・カルロ、そして左足に装具を持ち無口に観察を続ける謎の少女・リーゼロッテ。翌日の魔導基礎実習でエルナは詠唱なしで光球の展開に成功するが、光球のサイズは意図的に抑える。その事実を見抜いていたのは、リーゼロッテだけだった。 深夜の図書室で二人は「同類」と認め合い、そこへアーデルハイトとカルロも加わり、四人が初めて自然に同じ場所に揃う。遠く見下ろす〈管理者〉は「鎖が一本、締まったな」と静かに呟く。

本文

第三章 アルフェンハイムの梯子

1.古都の石畳

王立アルフェンハイム魔導士官学校への入校通知書が届いたのは、レーフェルトに移って十八日目のことだった。

白い封蝋には、翼と剣を組み合わせた王国の紋章が押されていた。シスター・マリアは、それを受け取った瞬間に頬を上気させ、「神様のお導きよ」と三度繰り返した。私は、その紋章を見ながら、裏面に記された文字を、逆さまのまま読んでいた。六歳になる前に「入校手続き開始につき、保護者相当者の署名を要す」という行政文書を受け取る者が、世界の平均的な子ども時代からどれほど外れているか。〈管理者〉の「再設定」は、念が入りすぎている、と私は改めて思った。

出発の朝、シスター・マリアは私を抱きしめて、長い間、離さなかった。彼女の修道服は、石鹸と古い蝋燭の匂いがした。「手紙を書くのよ、エルナ。必ず返事を出しますから」と彼女は言った。私は「はい、シスター」と答えた。その約束が果たせるかどうかは、戦況次第である、という言葉は、呑み込んだ。呑み込みながら、私は、彼女の背中を、前世の私が一度も覚えたことのないやり方で、そっと叩いた。

アルフェンハイムへの旅程は、汽車と馬車を乗り継いで、二日と半日かかった。王国の北中部に位置するその都市は、前線からの距離においても、格式においても、レーフェルトとは別の層に属していた。城壁の内側に踏み込んだ瞬間、私は思わず足を止めた。

石畳は、磨き込まれた白大理石の混じった石英岩で葺かれており、朝陽を受けて鈍く光を放っていた。街路の両側には、何百年もかけて成長した菩提樹が、連なりに連なって葉を繁らせており、その梢の間を、青い鳥が二羽、縫うように飛んでいった。あちこちの窓には花が咲き、カフェの椅子には老人が座り、石造りの噴水では子どもが足を浸していた。同じ王国の、同じ戦時下とは、信じがたいほどの、平和な景色だった。

平和な景色は、合理的に説明できる、と私は分析した。アルフェンハイムには、国内最古の魔導研究機関と、複数の王家の別邸が集中している。経済価値と政治価値の高い都市ほど、防衛リソースが優先的に割り当てられる。戦時の資源配分における、普遍的なルールである。前線の孤児院とここを比較して「不公平だ」と感じる感情は、確かに存在していた。だが私は、その感情を一段下に置き、まず「この平和が維持されている構造的な理由」を理解することを優先した。感情は後で整理する。今は、情報だ。

王立アルフェンハイム魔導士官学校は、丘の中腹に建っていた。八角形の塔が四隅に立ち、中央に大きなドームを持つ、堂々たる建物だった。壁面のあちこちに、魔導文字と思われる幾何学的な浮き彫りが施されており、近づくと、それらが微かに青白く脈動しているのが分かった。警備員に通知書を提出し、鉄の門をくぐる。その瞬間、空気の質感が、僅かにだが、はっきりと変わった。肌の表面が、産毛を立てるように、微かに震えた。これが「魔素の濃度」か、と私は直感した。学校全体が、魔導エネルギーの密度の高い場所に、意図的に設置されているらしい。よく考えられた立地選定である。

受付の若い事務員が、私の通知書を二度見して、三度見した。

「……エルナ・シュタイナー様、ですね。特待生枠、でいらっしゃいますか」

「はい、そうです。よろしくお願いいたします」

事務員は、もう一度書類を確認し、ゆっくりと立ち上がった。「こちらへどうぞ」と彼女は案内を始めたが、私の頭の高さをちらと見て、廊下の先の石段の角度を測り、おそらく「この子が一人で歩けるだろうか」と逡巡したらしかった。私は、先に歩き出してやった。石段の幅は、この身体にはいささか大きすぎたが、一段ずつ丁寧に登れば問題ない。問題のないことで立ち止まるのは、時間の無駄である。

2.特待生たちの顔合わせ

特待生のための居室は、初等部の東翼にまとめられていた。全部で六室。そのうち私が案内されたのは、突き当たりから二番目の部屋だった。

室内は、質素だが清潔だった。木製のベッドと、小さな書き物机、窓際の本棚には初等部の教科書が三冊。壁には王家の紋章の額が一枚。前世のビジネスホテルのシングルルームと比べれば狭く、修道院の子ども部屋と比べれば遥かに広い。どちらの基準で見るかによって評価が変わるが、私にとっては「一人になれる空間が確保された」という事実だけが、重要だった。一人になれる空間は、情報処理の速度を著しく高める。前世でも、最も重要な人事判断はいつも、一人の個室で、静かに行っていた。

荷物を机の上に置き終えた頃、廊下から複数の足音が聞こえてきた。私は窓の外を向いたまま、耳だけで情報を収集した。二人分の足音。一方は規則正しく、重心が安定している。もう一方は、小刻みで、足を引きずるような独特のリズムを持っていた。そして、第三の足音。廊下の向こうの方から、緩やかに近づいてくる、もっと軽い足音。

夕食の合図の鐘が鳴り、私が食堂へと向かうと、そこには三人の子どもが、それぞれ離れた席に座っていた。

一人目は、窓際の席に背筋を伸ばして座る、七歳くらいの女の子だった。淡い金髪を後ろで固く結い、胸元には小さな銀の十字架。整えられた制服の前ボタンは、上から最後の一つまで、一切の乱れなく留められていた。彼女は私が入ってきた瞬間、目を上げ、真っ直ぐにこちらを見て、短く頭を下げた。「アーデルハイト・フォン・ゲッシュヴィント」と彼女は名乗った。発音が丁寧で、姓の前に「フォン」がついている。旧貴族の出だろう。

二人目は、部屋の中央の席で、ぼんやりと食器を眺めていた、六歳くらいの男の子だった。赤みがかった茶色の癖毛が、寝癖か意図的なものか判別しかねるほど跳ね、制服の袖は両方ともにロールアップされていた。彼は私の視線に気づくと、にかりと笑い、「カルロ。カルロ・ヴァレンツィだ」と言った。姓には「フォン」がない。平民の出か、あるいは帝国系の移民の血筋か。その笑い方には、人懐っこさと、何かを試すような計算の両方が、器用に混ざっていた。

三人目は、入口に最も近い角の席に、椅子の背もたれに体重を預けるように座っていた。年齢は七か八か。肌は薄く、髪は白に近い亜麻色、瞳は右と左で色が違った。右が灰緑、左が明るい琥珀。足元を見ると、左足に、細い金属製の装具が巻かれているのが分かった。廊下で聞いた「引きずるような足音」の主は、この子だったらしい。彼女は名乗らなかった。私と目が合っても、ただ窓の外に視線を流した。無視ではなく、関心がないのだ、と私は判断した。

「あの子は、リーゼロッテ・ハイン。特待生の中で、一番早く来ていたらしいよ」とカルロが耳打ちしてきた。声が大きい、と私は心の中で評価した。五歳の私が聞き取れたのだから、リーゼロッテ本人にも確実に届いたはずだ。だが彼女の表情は、揺れなかった。情報の遮断が、長く続いた孤立から身につくものか、それとも生来の性質か。どちらにせよ、彼女は今のところ、最も「読みにくい」人物である。

私は、空いた席を一つ選び、静かに腰を下ろした。食堂の壁には、歴代の卒業生たちの肖像画が並んでいた。厳めしい顔、軍服、勲章、銀の徽章。皆、どこかの戦場で死んでいるか、あるいは今まさに戦っているのだろう。私たちは今日ここに座り、数年後にはあの肖像画の列に加えられる予備軍として、王国の機構に登録されている。合理的な施設設計だ、と私は思った。生徒に向かって毎日「お前たちの先輩はこうだった」と語り続ける、無言の動機付け。前世のコンサルタント会社の廊下に並ぶ、成功事例のパネルと、まったく同じ構造である。

「エルナちゃん、でしょう」とアーデルハイトが口を開いた。「魔導局の書類に、あなたの名前が載っていました。計測上限を突破した、とか。本当ですか」

機密情報が、子どもに漏れている。それは、この組織の情報管理の甘さを示す、ひとつのデータだった。同時に、アーデルハイトという少女が、その書類にアクセスできる立場にあったか、アクセスできる人間の近くにいたことを意味する。

「機材の故障かもしれません」と私は答えた。「技官の方も、そう言っていました」

「三台同時に、同じ数値で故障することは、まずないと思いますけれど」とアーデルハイトは言った。反論の速度が速い。このやり取りはすでに、彼女にとって「試験」だったらしい。眼差しには、挑戦的な色はなく、ただ純粋に「正確に知りたい」という意志があった。信仰篤い、しかし知性的な少女。扱いを間違えれば、最も厄介なタイプになる。正面から付き合えば、最も信頼できるタイプにもなり得る。

「そうですね」と私は頷いた。「だとすれば、エルナの数値は本物だったということになります。ただ、数値が高いことと、実際の能力が高いことは、別の話だとも思います」

アーデルハイトが、少し眉を上げた。「……そう言える人は、あまりいません。大抵、数値が高いと言われると、自慢するか、あるいは怖がるかのどちらかです」

「エルナは、どちらでもないです。数値は、潜在的な上限を示すものだと理解しています。上限を持っていても、使い方が分からなければ意味がない。だから、ここに来ました」

テーブルの向こうで、カルロが「ほほう」と呟きながらパンを千切った。リーゼロッテは、相変わらず窓の外を見ていた。だが、彼女のスプーンを持つ指が、ほんの少し、力を緩めたのが見えた。私は、それを、彼女が「話を聞いていた」というサインとして受け取った。

3.魔導基礎実習

初等部の授業は、翌朝から始まった。

午前中は読み書き、地理、王国史。午後の第一コマは、魔導理論。そして第二コマが、実習だった。担当教官は、ハルトムート・ドレーゼル教諭。五十半ばの、背の低い、丸眼鏡をかけた穏やかな老人だった。白衣の前ポケットには、常に三本の赤ペンが差さっており、それぞれインクの残量が均等に保たれていた。前世であれば、間違いなく、細かすぎる仕事を愛するベテラン技術者として、私が社内評価シートに「S評価」と書き込んでいたタイプの人間だ。

「本日の実習の目標は、第一基礎術式の安定展開です」とドレーゼル教諭は言った。「第一基礎術式というのは、皆さんが最初に覚える術式で、魔素を掌に集めて、小さな光球を作るというものです。成功すれば、後の全ての術式の土台になります。焦らず、じっくりやっていきましょう」

教諭は、掌を上に向け、ゆっくりと中指と薬指を内側に折り、残りの三指を伸ばした。その指の形が「型」であり、術式の「コンパイルを開始する姿勢」を体に覚えさせるためのものらしかった。続いて彼は、短い詠唱句を、静かに口にした。七音節の、古語で書かれた句。その詠唱が終わると同時に、掌の中心に、白い光の粒が、ぽっと灯った。豆粒ほどの、しかし安定した光だった。

「さあ、皆さんも」と教諭は言い、手順の書かれた板書を壁に貼り出した。「型を作って、息を整えて、詠唱。三つだけ覚えていればいい。三つだけ、繰り返しましょう」

私は、まず板書を一度読んだ。次に教諭の手の形を観察した。三本指を伸ばす型の意味を、私なりに解析した。修道院の入門書によれば、「型」は術式の論理構造を、術者の生体情報に接続するためのインターフェースである。つまりあの三本指は、術式の入力ポートを開くためのキーボードショートカットに相当する。七音節の詠唱は、その入力内容を「コンパイルして実行する」コマンドだ。そして「息を整える」というのは、処理中の過負荷を防ぐためのバッファ処理に当たる。

整理すれば、実に単純な構造だった。問題は、どこに無駄があるかだ。

私の周囲では、アーデルハイトが丁寧に型を作り、カルロが指の形を何度も間違え、リーゼロッテが右手だけで静かに型を構えていた。そして全員が、詠唱句を暗記しようと、口の中で繰り返した。その繰り返しのやり方が、全員異なっていた。アーデルハイトは逐語的に読み込み、カルロは音として丸ごと飲み込もうとし、リーゼロッテは一度だけ読んで、そのまま黙って型を構えた。

私は、型を一度だけ作り、詠唱句を心の中で完全に読んだ。そして、詠唱をしなかった。

詠唱は、初学者にとって「コンパイルと実行を同時に行う」ための外部補助ツールだ。だが、術式の構造が頭の中に完全に展開されているなら、詠唱は実行トリガーとしてすら不要である。私は、型を構えた掌の上に、意識だけで、術式の論理構造を「展開」した。魔素の流れを、掌の中心へと収束させる。収束点に、微弱な「保持命令」を加える。そして、それを固定する。

掌に、光が灯った。

教諭のものより大きく、白よりも青みがかっていた。そして、周囲の誰よりも早かった。実習開始から、二分と経っていなかった。

教室が、静まり返った。

「……エルナさん」とドレーゼル教諭が、眼鏡の奥の目をゆっくりと見開きながら言った。「詠唱を、しませんでしたね」

「はい。詠唱は、術式の構造が頭の中に入っていない場合の補助手段だと思ったので、省きました。間違いでしたか」

教諭は、しばらく何も言わなかった。赤ペンのキャップをつけたり外したりしながら、私の掌の光球を、食い入るように観察していた。やがて、「間違いではない」と彼は言った。声が、ほんのわずかに、震えていた。

「正確に言うと、無詠唱展開は、本来、上級課程で学ぶことです。一般に、初等部の修了時に八割の生徒が習得に苦しむ、最初の大きな壁とされています。あなたは、その壁を、最初の実習で……」教諭は、赤ペンをポケットに戻した。「了解しました。エルナさんには、別途、進捗に合わせた個別課題を用意します。本日のところは、構造の安定保持をしばらく続けてみてください」

私は「はい」と答え、光球の安定保持を続けながら、周囲の様子を視野の端で観察した。カルロは、面白がるように笑いながら、それでも悔しさを隠せないように指を組み直していた。アーデルハイトは、私の方を一秒見てから視線を逸らし、板書に向かい直した。その横顔には、感情をうまく読み取れない複雑な色があった。

リーゼロッテだけが、こちらを真正面から見ていた。装具をつけた左足を椅子の横に流し、腕を組んで、じっと私の掌の光球を眺めていた。その目は、驚いてもいなかったし、嫉妬してもいなかった。ただ、観察していた。ちょうど私が、他の人間を見るときと、同じ目だった。

この子は、気をつけよう、と私は思った。

4.夜の図書室

就寝時間は、夜の九時と定められていた。

前世の感覚では、九時就寝というのは、会議の途中に眠るようなものだった。もっとも今の私の身体は、夕食の後しばらくすると、訓練で消耗した幼子の疲労が、容赦なく押し寄せてくる。それに抗えるほど、この身体の体力は、まだ育っていなかった。

その夜は、例外だった。

消灯の鐘から一時間後、私は寝台から抜け出し、廊下に出た。学校の図書室は東翼の一階にあり、夜間は施錠されていないと、夕方の自由時間に確認していた。規則が書かれた掲示板を読む限り、「夜間の無断外出禁止」とはあったが、「図書室の夜間利用禁止」とは書かれていなかった。グレーゾーンの活用は、コンプライアンスの基本である。

図書室の扉を開けると、中はすでに、一人分の光球に照らされていた。

リーゼロッテだった。窓際の低い書架の前に、装具をつけた足を伸ばして座り込み、分厚い本を膝の上に広げていた。彼女の掌には、白い光球が一つ、安定して浮かんでいる。実習で他の三人が苦労している間、一人だけ黙って型を構え続けていたリーゼロッテが、すでに無詠唱で光球を展開していたのかどうか、私には確認できなかった。だが今、この光球の安定ぶりを見れば、その答えはほぼ明らかだった。

リーゼロッテは、私が入ってきても、顔を上げなかった。「……閉めて」とだけ言った。声は低く、感情のないナレーターのような平坦さがあった。

私は扉を静かに閉め、彼女の反対側の書架に背を預けて座った。自分の掌に光球を一つ灯し、今日の授業で手に入れた中級課程の術式解析書を開いた。しばらく、二人の間に言葉はなかった。光球が二つ、薄い闇の中で静かに脈打つ音だけがあった。もっとも、光球が音を立てるわけではない。聞こえるのは、遠くの街から流れてくる夜の鐘の音と、石壁の向こうで吹く風の声だけだった。

「……午後の実習」とリーゼロッテが言った。本から目を上げず、ページをめくりながら。「あなたは、わざと途中でやめた」

私は、手の中の本を一瞬止めた。そして、次のページをめくった。「何のことでしょう」

「光球を、あのサイズで止めた。でも、あなたはもっと大きくできる。できるのに、止めた。先生を怖がらせたくなかったから。あるいは、カルロやアーデルハイトを威圧したくなかったから。どちらかです」

今度は、ページをめくらなかった。私は、この少女を少し見直した。観察眼が鋭い。当然の帰結として、同じ観察を、私も彼女に向けていた、ということを、彼女自身も計算していたらしい。

「両方です」と私は答えた。「最初の日に、上限を全部見せる必要はないと思っただけです。それは、あなたも同じでしょう」

沈黙が、少しだけ変質した。リーゼロッテは、初めて本から顔を上げ、私を見た。右の灰緑と、左の琥珀。その二色の瞳には、驚きでも警戒でもない、静かな「了解」のような色があった。

「リーゼロッテ・ハイン」と彼女は言った。「名前は、昨日カルロが言っていた。……それと、私は『リーゼ』でいい」

「エルナです。よろしく、リーゼ」

リーゼは、再び本に視線を落とした。それで会話が終わりかと思ったが、しばらくしてから彼女は続けた。「足のことを、聞かないのですか。みんな、聞くか、聞かずに哀れむかのどちらかです」

「あなたが話したいなら聞きます。話したくないなら聞きません。どちらでも、あなたの右足と左足が魔導を使う能力に影響するわけではないので、私の判断に変化はありません」

リーゼは、少しだけ、眉を動かした。それが彼女にとっての「笑い」に相当する表情なのかどうか、まだ判断がつかなかった。「……変な子」とだけ彼女は言った。そして、それきり黙って、本を読み続けた。

私も、本を読み続けた。二つの光球が、図書室の石壁に影を落としながら、夜の中で静かに揺れた。それは、奇妙に居心地のよい時間だった。前世では経験したことのない種類の、静かな共存。計算も、交渉も、演技もなく、ただ隣に誰かがいる、というだけの時間。私は、その感覚を、「ノイズ」と呼ぶことを、この夜だけは止めておくことにした。

廊下で、突然、足音がした。規則正しく、重心が安定した足音。私とリーゼは、ほぼ同時に光球を消した。

扉が開き、細い光が差し込んだ。手燭を持ったアーデルハイトが、立っていた。彼女は私たちを見て、一秒だけ固まった。それから、やはり廊下に立っているカルロの存在に気づき、小さく溜め息をついた。

「……足音がしたから、不審者かと思いました」とアーデルハイトは言った。「就寝時間を過ぎています」

「図書室の夜間利用は、規則に明記されていません」と私は答えた。「あなたもそれを確認したから、来たのでしょう」

アーデルハイトの口が、小さく開き、閉じた。カルロが廊下から頭を突っ込んで「俺も確認した。広い解釈だとは思うけど」と言いながら、遠慮なく中に踏み込んできた。「で、何読んでんの」

四人が、図書室に揃った。アーデルハイトは、最後まで迷ったように扉の前に立っていたが、やがて真っ直ぐ本棚に歩み寄り、一冊を抜き出した。彼女の背中には、敬虔さと知識欲が、まったく矛盾なく同居しているように見えた。

カルロは床に胡座をかき、理論書の代わりに地図帳を広げた。「どこで何が起きてるか知りたくてさ。授業で教えてくれないから」と彼は言った。前線の地名を目で追いながら、その顔には、先ほどの人懐っこさではなく、もっと別の、硬い表情が浮かんでいた。彼にも、誰かを失った場所があるのだろうと、私は思った。それ以上は、聞かなかった。

夜の図書室には、四つの光球が、控えめに灯った。リーゼが最初に読み終えた本を棚に戻し、次の一冊を選ぶ。アーデルハイトが、ページを繰りながら、口の中で何かを呟く。カルロが、地図の上に指を走らせる。私は、術式解析書の余白に、自分なりの「無詠唱展開の最適化メモ」を書き続けた。

誰かが何かを言うと、誰かが短く答えた。議論にも、命令にも、なんの儀礼的な挨拶にもならない、それは「会話」と呼ぶには簡素すぎる言葉のやり取りだった。だが、その簡素さが、奇妙に心地よかった。前世で、人を採用し、評価し、解雇することを繰り返した私が、ほとんど持ったことのない種類の時間。どこかで気が緩みそうになり、私はすぐにメモの手を再開させた。油断ではなく、ただの「余白の管理」だ、と自分に言い聞かせながら。

5.〈管理者〉の独白

誰にも見えぬ場所で、〈管理者〉は、黙って見下ろしていた。

図書室の石の床に、四つの光球の影が落ちていた。五歳と六歳と七歳と七歳。人類が戦争と呼ぶ消耗の中から、波に弾かれるように弾き出された四粒の石が、今夜はじめて同じ器の中に収まっている。これは、〈管理者〉の計算に含まれていた。どこからどこまで含まれていたのかは、〈管理者〉だけが知っている。

四人の中の一人が、メモの余白に数式めいたものを書き込んでいる。前世の経営用語と、この世の魔導記号と、何かしら独自の略語を組み合わせた、解読不能な書き言葉。それを見て、〈管理者〉は、長い年月の中でも稀な種類の感情を覚えた。

退屈ではなかった、ということだ。

《鎖が一本、締まったな》

誰にも届かない声で、〈管理者〉はそう言った。答える者は、誰もいなかった。図書室には、ページをめくる音と、微かな鉛筆の音と、遠い夜の鐘の音だけが、澄んで響いていた。

―― 第三章 了 ――

ジャンル・タグ

作品統計

👁️ 閲覧数: 5 👍 いいね: 0 📚 本棚登録: 0

作者について

おりょう

👥 フォロワー: 2人

作者ページを見る