添乗員(一)
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
オムニバス 自由に書いています
本文
添乗員(一)
佐藤 純 が消えたのは、横断歩道の上だった。
青信号を渡り始めた瞬間、足元がするりと抜け落ちた。正確には地面は何も変わっていなかった。変わったのは純の方だった。
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異世界は、ひどく親切な場所だった。
空には月が二つあった。大きい方と小さい方、それぞれが違うリズムで満ちたり欠けたりした。二つが同時に満ちる夜は、地上が昼間のように明るくなった。純はその夜が好きだった。影が二方向に伸びて、自分が二人いるような気がした。
言葉はすぐに覚えた。正確には、覚えさせてもらった。
純に最初に声をかけてきたのは、子どもだった。十歳くらいに見えたが、目だけが妙に落ち着いていた。その目で純をじっと見てから、「来ると思ってた」と言った。言葉は通じなかったはずなのに、なぜか意味が分かった。
「言葉を贈る」と子どもは言った。
手を握られた。温かいというより、光に触れているような感触だった。
次の瞬間、その世界の言葉が純の中にあった。
「次は目を贈る」断る間もなかった。
それから純の目は変わった。天気の流れが見えるようになった。三日後の嵐が、昨日の夕焼けのように鮮明に分かった。どこへ行けば今もっとも美しい景色があるか、地図より先に体が知っていた。
「なぜこんなものを」と純は聞いた。
「あなたが使う場所は、ここじゃない」と子ども。
それ以上は教えてくれなかった。かわりに純はその世界を十五年かけて歩いた。
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異世界の十五年は、密度が違った。
砂漠を渡り、珊瑚でできた山脈を越え、水が上へ流れる滝を眺め、一万年に一度だけ咲くという花の群生地に偶然居合わせた。案内してくれる者が現れては消え、また現れた。子どもから授かった「目」は純をいつも、もっとも美しい方向へと向かわせた。
十五年で、純は景色の読み方を覚えた。
光の角度と雲の形と風の向きが、完璧に噛み合う瞬間。それがいつ、どこで来るかが、息をするように分かるようになっていた。
ある日、見覚えのある草原が広がっていた。
足元が、またするりと動いた。
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純が元の横断歩道に戻ったとき、信号はまだ青だった。隣を歩いていたサラリーマンは何も気づいていなかった。時刻は出発から十秒後を指していた。
純はしばらく歩道の端に立って手の甲を眺めた。十五年分の痕は、どこにもなかった。
その夜、純は当時つきあっていた女性に電話をかけた。
「ちょっと変な話をしていいか」
「変な話、大歓迎」と彼女。
これが、のちの妻の最初の返答だった。
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今、純と妻は小さな旅行会社を営んでいる。
事務所は雑居ビルの二階。看板は妻が手書きした。募集定員は一組六名まで。年間の催行数は多くない。それでも予約は一年先まで埋まっている。
理由は単純だった。
この会社のツアーに参加した者は、例外なく「生涯最高の旅だった」と言う。
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能登半島のツアーは、夫婦二組と友人同士の女性二名、合わせて六名だった。
純は事前に天気を把握していた。
午前中は曇り、昼に風が変わる。午後二時ちょうど、断崖の上に立つ灯台の真横から光が差し込み、海面が一面に鈍く光る。その光景は五分間続く。
純はそこへ全員を連れて行った。
「あの雲、さっきまであんなに厚かったのに」と参加者の一人が言った。
「この辺はよく変わるんですよ」と純は答えた。
嘘ではなかった。ただ純には、「よく変わる」タイミングが分かるというだけの話だった。
五分間、誰も言葉を発しなかった。海が燃えるように光り、灯台の白が際立ち、遠くに見える漁船の影が絵のようにくっきりした。
帰りのバスで、参加者たちは静かに興奮していた。
「写真を見返すたびに思い出すだろうな」と誰かが言った。
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福島のツアーは、夫婦と子ども三人、合わせて五名だった。三回目の参加で、子どもたちは出発前から目がきらきらしていた。
目的地は三春滝桜。
純には一年前から、まるで自然と対話するように、満開の瞬間が見えていた。天候や桜の咲くタイミングを、ただの予測ではなく、深い直感で掴んでいた。だからこの日に日程を組んだ。
朝五時前、一行は現地に着いた。普段は有料の駐車場も、この時間は無料だった。あたりはまだ暗く、足元を確かめながら純と家族は滝桜へ向かった。
夜が明けるにつれ、樹齢千年を超える桜が、静かにオレンジ色に染まっていった。
風に揺れるその姿は、息をのむほど幻想的だった。
家族五人全員が言葉を失った。
純でさえ、そうだった。
十五年で無数の景色を見てきた目が、この朝だけは素直に打たれていた。千年という時間が、一本の木の中に静かに積まれているのを、純は確かに感じた。
帰り道、一番上の子が純の隣を歩きながら言った。
「また来年も来られますか」
「来年も満開にします」と純は答えた。
子どもは「それって添乗員さんが決めることじゃないですよね」
純は笑った。「そうかもしれません」
アイスランドのツアーは、最初から騒がしかった。
参加者は 女性ばかりの友人六名。 飛行機の日程に合わせて、純は天気を読んだ。快晴。オーロラ観測には申し分ない条件で、午後十一時ごろに南の空から幕が開くように広がり始める。二時間は出続ける。
参加者の一人が「オーロラって本当に見えるんですか」と三回聞いてきた。
「見えますよ」と純は答えた。
「でも保証はできないですよね」
「できますよ」
一瞬、沈黙があった。
その夜、一行は荒野の真ん中に立った。放射冷却で気温は下がり、星が瞬いていた。純は南の空を見た。まだ何もなかった。あと十五分。
参加者たちは防寒具を重ね着して、それぞれ空を見上げていた。「寒い」「あ、流れ星」と小声で言い合っていた。
純は時計を見た。あと三分。
そして、来た。
最初は薄い緑の靄のようだった。それがゆっくりと形を持ち始め、幕のように広がり、揺れた。緑の中に紫が混じり、空全体が生き物のように動いた。
誰も声を出さなかった。
さっきまで「保証はできないですよね」と言っていた参加者が、純の袖をそっと引いた。振り向くと、目に涙が光っていた。言葉はなかった。
翌日、空港へ向かうバスの中で。
「昨日、保証できますって言ってましたよね」
「言いましたね」
「どうして分かったんですか」
「勘がいいんです」
バスの中に笑いが起きた。純も笑った。勘、というのはあながち嘘でもない。ただ、十五年分の勘というだけの話だった。
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事務所の奥に小さなキッチンがあって、妻はそこでよく コーヒー豆を挽く 。純が帰ってくると、何も言わなくても 猫の取っ手のマグカップが出てくる。
「今日も問い合わせ来てたよ」と妻。
「来年も空きがないって伝えたら、再来年でもいいって」
「ありがたいな」
「ほんとに」
妻はカップを両手で包んで「ねえ、異世界に十五年いて、よかったと思う?」
純は少し考えた。
「あの十五年がなければ、この仕事はできてなかった。仕事がなければ、お前に自慢できるものがなかった」
「自慢?」
「俺が連れて行くから、みんな喜ぶんだって話」
妻は笑った「順番が違う気がするけど」
コーヒーは熱くて、外は静かで、予約は来年まで埋まっている。
十秒で戻ってきたあの横断歩道から、ずいぶん遠いところへ来たものだと純は思った。遠いけれど、迷子ではなかった。隣に妻がいて、壁にお客様からの感謝の手紙が貼ってある。
人生は、案外、旅とよく似ている。
どこへ向かうかより、何を見たかで、その豊かさが決まる。
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第二話はこちらです
添乗員(二) | 小説投稿サイト「あいぺん」
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