第18話 院生先生
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あらすじ
昼は魔術師ギルドの魔導基盤保守班で働き,夜は王立魔導大学院の夜間課程に通う若手保守技師レクト・ノーウェル. 彼はギルドの廃棄倉庫で,旧式の喋る魔導書アルカを拾う. アルカは古文書や事故記録の照合に異常な強さを持つが,現場感がない. レクトには現場で拾う違和感があるが,過去記録への到達手段が足りない. 二人は互いの欠けを補い,生活記録,現場記録,雑談,失敗記録を積み上げながら,魔法世界の未解明問題に名前をつけていく.
本文
「おい,院生先生」
保守班の作業場でそう呼ばれた瞬間,俺は手元の感知符を落としかけた.
声の主はベイルだ.悪意は半分,面白がりが半分.周囲の同僚も笑っている.
「先生はやめてくれ」
「じゃあ研究先生」
「悪化してる」
《識別名としては院生先生のほうが短いです》
「アルカも乗るな」
ここ数日,俺が不具合前後の違和感を集めているせいで,保守班では妙な空気が生まれていた.協力してくれる者もいる.面倒がる者もいる.からかう者もいる.
「で,先生.俺の昨日の保冷箱,研究になるのか?」
ベイルが記録板を差し出した.
「研究になるかは分からない.でも記録にはなる」
「便利な言い方だな」
「便利すぎる言葉は記録を止めるらしい」
「何だそれ」
「教授の受け売り」
笑いが起きた.俺も笑ったが,少しだけ胸に刺さった.院生先生.冗談だと分かっているのに,自分だけ浮いている感じがする.現場に研究を持ち込むと,どうしても距離ができる.
昼,ガロン班長に呼ばれた.
「へこんでるな」
「顔に出てますか」
「出てる.現場向きじゃない顔だ」
ひどい.
ガロンは俺の集めた違和感記録を見た.
「数は増えた」
「はい」
「質はばらばらだ」
「はい」
「それでいい.最初から揃うわけがない」
俺は顔を上げた.
「止めないんですか」
「止めたい理由は山ほどある.仕事は増えるし,お前は寝ないし,変な本は喋る」
《私は変な本ではありません》
「黙ってろ,変な本」
《承知しました》
返事の後,アルカはしばらく何も言わなかった.魔道具の沈黙に表情はない.それでも,俺には少し考えているように見えた.強いふりをしないという約束は,俺だけのものではなくなった.
「典拠がない時は,ないと言えばいい」
《有用性が下がります》
「嘘の有用性よりましだ」
《記録します》
その短い声を聞いて,俺は自分にも同じ札を貼った.分からないと書く.強いふりをしない.公開演習でも,たぶんそこから逃げられない.
ガロンは続けた.
「だが,北棟の件も東三区の件も,記録がなければ流れていた.流していいものばかりじゃない」
それは,ガロンなりの許可だった.
「ただし,仕事を疎かにするな.研究で現場を見下すな.現場の愚痴を勝手に立派な言葉に変えるな」
「はい」
「それと寝ろ」
「はい」
《三つ目が最重要です》
「お前は黙っている約束だろ」
《重要度が高いため例外と判断しました》
ガロンはこめかみを押さえた.
夕方,大学院へ向かう前に,俺は作業場の掲示板に小さな紙を貼った.
不具合前後の「変だったこと」を集めています.
責任追及ではありません.
書ける範囲で,時刻,場所,何が変だったかだけ.
匿名可.
その下に,箱を置いた.
箱は,余っていた部品箱を洗ったものだ.側面には古い符番が残っていて,底の角は少し欠けている.立派な研究道具には見えない.むしろ,修理待ちの小物を放り込む箱にしか見えない.
それでよかった.
あまり立派にすると,入れる側が身構える.責任追及ではないと書いても,きれいな箱はそれだけで公式の匂いがする.汚れた部品箱なら,少し変なことを書いた紙も入りやすいかもしれない.
《外観の粗さを意図的に保持する,という運用ですか》
「そういうことにしておく」
ベイルが見て言った.
「院生先生の投書箱か」
「違和感箱」
「ださい」
「うるさい」
《名称案.未整理現場記録収集箱》
「もっとださい」
最終的に,箱にはロッサ方式を借りて「いつもと違う箱」と書いた.ベイルは笑ったが,帰り際に一枚入れていった.
夜間講義でその話をすると,ミナが言った.
「いい名前だと思う」
ユリウスは言った.
「学術的ではない」
「現場用だ」
「なら良い」
珍しくあっさり認めた.
セリス教授は俺の箱の写しを見て,少しだけ目を細めた.
「名前は場に合わせるものです.研究室の名前と現場の名前は違ってよい」
「はい」
「ただし,対応表を作りなさい」
宿題が増えた.いつものことだ.
帰り道,俺は少しだけ足取りが軽かった.からかわれるのは痛い.けれど,箱には記録が入った.現場が完全に拒んでいるわけではない.
《レクト》
「何だ」
《院生先生という呼称は,不快ですか》
「少し」
《では,記録上は使用を控えます》
「助かる」
しばらく歩いてから,アルカが小さく言った.
《ただし,識別性は高いです》
「まだ言うか」
王都の灯火が一つずつ点る.その下で,保守班の「いつもと違う箱」には,たぶん明日も何かが入る.
翌朝,本当に一枚入っていた.
北門近く,朝だけ霜が片寄る.
署名はない.場所も少し曖昧だ.以前なら,これだけではどうにもならないと脇へ置いたかもしれない.だが今は,北門,朝,霜という三つの言葉だけで,警鐘符の遅れやダンの胸の重さが頭をよぎる.
《即時確認しますか》
「勤務予定を見てからだ」
《以前より慎重です》
「班長に仕事に集中しろって言われる前に学びたい」
俺は紙を折らずに記録板へ挟んだ.箱に入れた誰かは,笑われるかもしれないと思いながら書いたはずだ.なら,読む側も雑に扱ってはいけない.
その一行は,第19話の朝へそのままつながる小さな導線になった.
夜間講義へ向かう途中,俺はその紙のことを考えていた.署名がない記録は扱いにくい.確認できないし,詳しい状況も聞けない.だが,匿名だからこそ入ったのかもしれない.
《匿名記録の信頼性は低くなります》
「低くなるけど,ゼロじゃない」
《はい.確認可能性が下がり,収集可能性が上がります》
「面倒な釣り合いだな」
大学院でユリウスに話すと,彼は即座に言った.
「匿名欄と署名欄を分けろ.匿名は弱い記録として扱う」
ミナは付け加えた.
「でも,匿名でしか出せない記録もある」
二人の意見は違うようで,同じ方向を向いていた.分けて残す.強くも弱くも,勝手に変えない.俺は箱の札に,匿名可,ただし確認前は弱い記録,と書き足すことにした.
講義の帰り,俺はその札の文面を何度も読み返した.弱い記録,という言葉は少し冷たい.だが,強い記録のふりをするよりは誠実だ.匿名の一行は,弱い.でも,弱いから捨てるのではなく,弱いまま次の確認へ回す.
《弱いまま保持する,という運用ですね》
「そうだな」
《アルカの典拠不明回答にも適用できます》
「できる.だから,お前も強いふりをするな」
《承知しました》