あさの散歩
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
大学2年生の橘ひなたは、ごく普通の女子大生。ある日、学校一のイケメンと噂される林武蓮と同じゼミになったことで、自然と彼を意識するようになる。 しかし蓮は恋愛に全く興味がなく、女の子から告白されても断り続けるクールな男。ひなたが話しかけても素っ気ない態度ばかり。 それでも一緒にいる時間が増えるうちに、ひなたは彼の不器用な優しさに少しずつ惹かれていく。 恋愛に無関心なイケメンが、初めて「恋の病」にかかるまでのドキドキラブコメ!
本文
目が覚めた時、部屋に朝の光が差し込んでいた。
ひなたはしばらく天井を見つめてから、ゆっくりと体を起こした。時計を見ると、七時少し前だった。
隣を見ると、林武の布団はすでに畳まれていた。もう起きているのか、それとも部屋に戻ったのか。ひなたは少しだけ寂しい気持ちになりながら、顔を洗いに洗面所へ向かった。
鏡に映った自分の顔が、なんだかいつもより穏やかに見えた。よく眠れたからかもしれない。それとも別の理由かもしれない。
部屋に戻ると、ドアがノックされた。
「……起きてるか」
林武の声だった。ひなたはドアを開けた。林武が廊下に立っていた。すでに着替えていて、コートを手に持っていた。
「おはよう、もう起きてたんだ」
「……早く目が覚めた。散歩でもどうかと思って」
「行く」
即答したら、林武が少し目を細めた。
「……着替えてこい」
「わかった、ちょっと待って」
ひなたは急いで着替えて、コートを羽織った。二人で旅館の玄関を出ると、朝の空気が頬に刺さった。冷たかったけれど、清々しかった。空は薄い青で、山の輪郭がくっきりと見えた。
「どっち行く?」
「……あっちに道があった」
林武が旅館の裏手の方を指した。昨夜は暗くて気づかなかったが、木々の間に細い道が続いているのが見えた。二人でそちらに向かって歩き始めた。
道は緩やかな上り坂になっていて、両側に木が並んでいた。まだ朝早いせいか、他に人はいなかった。足元の土が、霜でわずかに固くなっていた。
「眠れた?」とひなたが聞いた。
「……ああ。よく眠れた」
「私も。あんなによく眠れたの久しぶりかも」
「……山の空気のせいだろ」
「そうかな。なんか、安心したのかも」
林武がひなたを見た。ひなたは前を向いたまま続けた。
「誰かと一緒だと、安心して眠れるのかもしれない」
林武は何も言わなかった。でも、否定もしなかった。
しばらく黙って歩いた。足音と、木々がそっと揺れる音だけが聞こえていた。坂を上り切ると、少し開けた場所に出た。木々の間から、山の景色が広がっていた。遠くの山頂には雪が残っていて、朝日に照らされて白く光っていた。
「わあ」
ひなたは思わず声を上げた。昨夜、足湯から見た景色とは違う、朝の山の顔だった。空気が澄んでいて、どこまでも遠くが見えた。
「きれいだね」
「……ああ」
林武が隣に立って、同じ景色を見ていた。その横顔に、朝日が当たっていた。いつもの無表情だけど、どこか穏やかだった。昨夜よりも、さらに力が抜けている気がした。
「来てよかったね、本当に」
「……そうだな」
「また来たい」
「……次はさくらも来るんじゃないのか」
「来るかもしれないけど」ひなたは少し笑った。「でも、こういう朝の散歩は、人数多いと違う感じがするから」
林武がひなたを見た。
「……どう違う」
「なんか、こういう静かな感じが好きで。騒がしくなると、また別のものになるじゃん」
林武は少し考えてから、小さく頷いた。
「……わかる気がする」
二人でしばらく景色を眺めていた。風が吹くたびに、木の葉がさらさらと音を立てた。ひなたは深呼吸をした。山の空気が、肺の奥まで入ってくる気がした。
「林武くん、今どんな気持ち?」
「……どんな気持ち、とは」
「なんか、昨日より顔が違うから。楽になってる?」
林武は少し間を置いてから、答えた。
「……少し、楽になった気がする」
「よかった」
「……ここに来なかったら、春休みにそのまま実家に帰っていた」
「実家、行きたくなかったの?」
「……行きたくない、というわけではない。ただ、少し憂鬱だった」
ひなたは何も言わずに、続きを待った。
「……母さんのことは、嫌いじゃない。ただ、あの空気の中にいると、疲れる」
「うん」
「でも、ここに来て、少し気持ちの余裕ができた気がする。お前に話を聞いてもらったから、かもしれない」
林武がそう言った。ひなたは少し驚いた。林武がこんなに素直に、そういうことを言うのは珍しかった。
「話してくれてよかった。聞けてよかったし」
「……聞き上手だな、お前は」
「そうかな」
「……そうだ。余計なことを言わないから」
ひなたは少し笑った。余計なことを言わない、というのが林武なりの褒め言葉なのだと、今はわかった。
「林武くんも、話し上手だよ」
「……そうは思わない」
「不器用だけど、ちゃんと話してくれるから。それで十分だよ」
林武がひなたを見た。少しの間、何かを考えるような顔をした。それから、視線を景色に戻した。
「……ありがとう」
「どういたしまして」
また静かになった。でも、その静けさが心地よかった。二人で並んで、山の景色を眺めていた。どちらも、特に何かを話そうとしているわけではなかった。ただ、そこにいるだけでよかった。
しばらくして、林武が口を開いた。
「……腹が減った」
ひなたは思わず笑ってしまった。
「朝ごはん、七時半からだって。そろそろ戻ろうか」
「……ああ」
二人で来た道を戻り始めた。下り坂になると、少し歩くのが楽になった。木々の間から旅館の屋根が見えてきた。
歩きながら、ひなたはさっきの林武の言葉を思い返していた。お前に話を聞いてもらったから、かもしれない。その言葉が、じんわりと胸に残っていた。
役に立てたのかもしれない。少しでも、楽にしてあげられたのかもしれない。それだけで、誘ってよかったと思った。
「林武くん」
「……何だ」
「今日帰るの、なんか惜しいね」
林武が少し間を置いてから答えた。
「……そうだな」
その一言が、ひなたには十分すぎるくらいだった。
旅館の玄関が近づいてきた。朝日がだんだん高くなって、山全体が明るく照らされていた。
このまま、もう少しだけここにいたい。
ひなたはそう思いながら、旅館の扉を開けた。中から、朝ごはんの匂いが漂ってきた。