天津風2
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
歳を取らない少女はいくつもの出会いと別れを経験してきた。 大切な人達との別れを経て変わっていった少女は、それでも大切な人達との約束を守り続ける。 これは百年以上を生きた少女、アマツの出会いと別れの物語。
本文
桜の栞
九月。
外縁独立機動部隊記念資料館。
閉館後の館内には静かな夕暮れが満ちていた。
西日が長い影を落とし、展示ケースのガラスを淡く染めている。
受付の机の上に、一冊の本が置かれていた。
『戦後史概論』
何度も読み返されたのだろう。
角の擦れた紙の本だった。
来館者の忘れ物らしい。
アマツはそっと本を手に取る。
ページを開いたその時。
ひらり、と何かが落ちた。
小さな栞だった。
押し花になった桜。
色は少し褪せている。
けれど丁寧に保存されていたことが分かる。
「……まぁ。」
アマツは栞を拾い上げた。
裏側には、小さな文字が書かれている。
---
先生へ
卒業したら、また会いに行きます。
約束ですよ。
──星野遥
---
アマツは静かに目を細めた。
懐かしい名前だった。
八十年前。
外縁独立機動部隊教育隊。
泣き虫で。
優しくて。
人の痛みに敏感だった少女。
戦史の成績は優秀だったが、射撃訓練になると途端に苦戦していた。
それでも決して諦めなかった。
転んでも立ち上がる。
泣きながら前を向く。
そんな子だった。
卒業の日。
満開の桜の下で。
少女は笑っていた。
「先生!」
「また会いに来ます!」
春風に髪を揺らしながら。
「約束ですよ!」
と。
アマツは思わず苦笑したのを覚えている。
その後も。
本当に何度も会いに来た。
結婚した時。
娘が生まれた時。
孫が生まれた時。
退職した時。
老人になってからも。
その度に笑顔で。
「先生、聞いてください。」
と近況を語っていた。
そして十年前。
星野遥は静かに旅立った。
九十八歳。
誰もが大往生だと言った。
アマツは栞を見つめる。
その時だった。
「失礼します!」
受付の扉が開く。
慌てた様子の女性が飛び込んできた。
三十代ほどだろうか。
息を切らしている。
「すみません!」
「本、忘れていませんでしたか?」
アマツは微笑んだ。
「ええ。」
「こちらですね。」
女性は胸を撫で下ろす。
「良かった……。」
本を受け取ろうとして、栞に気付いた。
「あ。」
「それ。」
少し恥ずかしそうに笑う。
「祖母の形見なんです。」
アマツの視線が穏やかに動く。
「形見ですか。」
「はい。」
女性は頷いた。
「星野遥っていうんですけど。」
その名前に、アマツは何も言わない。
ただ静かに耳を傾ける。
「昔、この基地で勉強していたそうです。」
「子供の頃から聞かされてたんですよ。」
女性は懐かしそうに笑った。
「先生がいてね。」
「すごく優しい人だった。」
「朝ご飯をちゃんと食べなさいって言うの。」
「無理しちゃ駄目ですよって言うの。」
「だからおばあちゃんは長生きできたんだよって。」
少し照れくさそうに肩をすくめる。
「変な話ですよね。」
「先生なんて、とっくに亡くなってるはずなのに。」
「それでも祖母。」
窓の外を見るように言った。
「最後まで、先生に会いに行きたいって言ってました。」
アマツは栞を本へ戻す。
そっと。
大切なものを扱うように。
「そうですか。」
静かな声だった。
「きっと。」
少しだけ微笑む。
「素敵な先生だったのでしょうね。」
女性は嬉しそうに笑った。
「ええ。」
「私も会ってみたかったです。」
「その先生に。」
アマツは少しだけ目を細める。
夕陽が碧い瞳に映る。
「会えているかもしれませんよ。」
「え?」
女性は首を傾げる。
アマツは小さく首を振った。
「いいえ。」
「独り言です。」
女性は不思議そうな顔をしながらも、
「ありがとうございました!」
と元気よく頭を下げて帰っていった。
再び静かな資料館。
アマツは窓を開ける。
涼しい風が入り込む。
秋の匂いがした。
本棚の奥からアルバムを取り出す。
ゆっくりとページをめくる。
そこにいた。
若き日の星野遥。
卒業式の日。
満開の桜。
泣きながら笑っている。
その隣には、少し困ったような顔のアマツ。
思わず微笑みが零れた。
「約束。」
小さく呟く。
「ちゃんと守ってくれたのですね。」
会いに来ると約束した少女。
本当に何十年も会いに来た少女。
そして。
今度は、その孫娘がここへ来た。
約束は終わらない。
人から人へ。
季節から季節へ。
静かに受け継がれていく。
アマツはアルバムを閉じた。
そして新しいページを開く。
今日撮った写真を挟む。
星野遥の孫娘。
一枚。
また一枚。
写真は増えていく。
思い出も。
出会いも。
別れも。
その全てが。
今の自分を作っている。
窓の外では虫の音が響いていた。
夕暮れの空は茜色から群青へと変わり始めている。
アマツは机の上の本をそっと閉じた。
「おやすみなさい。」
誰もいない部屋。
返事はない。
それでも。
秋の風が吹き抜ける。
そして本のページを一枚だけめくった。
まるで遠い春の日の少女が、
「また来ますね。」
と笑ったように。
ーーー
雪の日の来館者
十二月。
沖縄本島北部。
珍しく冷え込んだ朝だった。
外縁独立機動部隊記念資料館。
開館前。
アマツは小さな暖房器具の前で、ゆっくりと本を読んでいた。
湯気の立つ珈琲。
窓の外。
灰色の空。
「……雪。」
ぽつりと呟く。
沖縄で雪を見ることは珍しい。
白いものが風に舞い、庭に薄く積もっていた。
その時。
玄関のベルが鳴った。
開館にはまだ早い。
「はい。」
扉を開ける。
そこには、一人の少年が立っていた。
高校生くらいだろうか。
制服姿。
頬を赤くしている。
「すみません。」
「まだ開館前ですよね。」
「ええ。」
「寒かったでしょう。」
「中へどうぞ。」
少年は恐縮しながら頭を下げた。
「ありがとうございます。」
暖房の前。
温かい紅茶。
少年は何度も頭を下げる。
「すみません。」
「迷惑でしたよね。」
「いいえ。」
「今日は寒いですから。」
「こういう日くらい、少しくらい融通を利かせても罰は当たりません。」
少年は笑った。
「先生みたいですね。」
「よく言われます。」
アマツも微笑む。
しばらくして。
少年は一枚の資料を取り出した。
「実は。」
「卒業研究で外縁独立機動部隊を調べていて。」
「その……。」
「川崎鈴華局長について。」
アマツの手が止まる。
ほんの一瞬。
それだけだった。
「国防の母ですね。」
「はい!」
少年の目が輝く。
「格好いいですよね!」
「十五歳で実戦配備!」
「数々の戦役で活躍!」
「技術開発局局長!」
「まさに英雄!」
少年は夢中で話す。
アマツは静かに聞いていた。
「それで。」
「先生はどう思います?」
「川崎鈴華って。」
暖房の音。
窓を打つ雪。
珈琲の香り。
アマツは少しだけ考えた。
「そうですね。」
「優しい子でした。」
「え?」
「それと。」
「少し無茶をする子でした。」
「はは。」
「そんな記録ないですよ。」
少年は笑った。
「そうでしょうね。」
アマツも笑った。
「記録には残らないこともありますから。」
昼近く。
すっかり打ち解けた少年は館内を見学していた。
ふと。
古い写真の前で立ち止まる。
「先生。」
「なんでしょう。」
「この人。」
少年が指差した。
若い頃のアマツ。
その隣には。
幼い川崎鈴華。
「姉妹ですか?」
アマツは写真を見る。
しばらく。
本当にしばらく見つめて。
そして。
「大切な家族です。」
と答えた。
「そうなんですね。」
少年は納得したように頷いた。
夕方。
雪は止んでいた。
「ありがとうございました!」
「研究、頑張ります。」
「ええ。」
「応援しています。」
少年は敬礼した。
ぎこちない敬礼。
アマツの目が少し細くなる。
「……。」
「どうしました?」
「いいえ。」
「上手になりましたね。」
「え?」
「敬礼です。」
少年は照れくさそうに笑った。
「動画で練習したんです。」
「そうでしたか。」
「努力家ですね。」
少年は嬉しそうだった。
やがて手を振りながら帰っていく。
静かな夕方。
アマツは自室へ戻る。
本棚。
写真。
古いアルバム。
その中の一枚。
まだ小さな鈴華。
不機嫌そうな顔。
隣で困った顔をしている若き日の自分。
『アマツ』
『そんな顔をしない』
『笑った方が可愛いから』
元気な声。
懐かしい笑顔。
アマツは写真を見つめる。
そして。
「……鈴華。」
小さく。
本当に小さく。
「今日は雪ですよ。」
それだけだった。
返事はない。
でも。
窓の外。
冬の夕陽は。
昔と変わらない優しい色をしていた。
そして翌朝。
いつものように。
アマツは二杯分の珈琲を淹れた。
「おはようございます。」
穏やかな声。
朝日。
湯気。
静かな部屋。
今日もまた。
新しい誰かとの出会いが待っている。
それを知っているかのように。
アマツは、優しく微笑んでいた。
ーーー
なぜ外縁なのですか
春。
卒業式を終えたばかりの高校生たちが、外縁独立機動部隊記念資料館を訪れていた。
「すごい。」
「百五十年以上前の装備だ。」
「これ、本物なの?」
展示室のあちこちから賑やかな声が聞こえる。
アマツは少し離れた場所で展示品の位置を整えていた。
ふと視線を向ける。
その中で一人だけ。
制服姿の少女が難しい顔をしながら展示パネルを見つめていた。
「何か気になることでも?」
「ひゃっ!」
少女は肩を震わせて振り返った。
「す、すみません!」
「いえ。」
アマツは穏やかに微笑む。
「どうしましたか?」
少女は壁の文字を指差した。
『外縁独立機動部隊』
「これです。」
「外縁って変じゃないですか?」
「独立機動部隊っていうのも。」
「軍隊なんですよね?」
アマツは少し考えた。
そして静かに頷く。
「歩きながらお話しましょう。」
二人は展示室をゆっくり歩き始めた。
古い軍服。
勲章。
作戦記録。
色褪せた写真。
壁一面には、歴代隊員たちの姿が並んでいる。
笑顔。
泣き顔。
敬礼する姿。
どの写真にも、人の暮らしがあった。
「外縁独立機動部隊は。」
アマツが静かに話し始める。
「かつて国の端。」
「誰も守ろうとしなかった場所を守るために生まれました。」
少女は首を傾げた。
「敵を倒すためじゃないんですか?」
「もちろん戦いました。」
アマツは頷く。
「ですが。」
「本当に守りたかったのは、人々の暮らしです。」
二人は次の展示室へ入る。
そこには兵器よりも多くの生活用品が展示されていた。
食器。
日記。
手紙。
家族写真。
古びた珈琲カップ。
少女は不思議そうな顔をする。
「軍隊なのに。」
「こういう物ばかりなんですね。」
「変ですね。」
アマツは少しだけ笑った。
「変わった人たちでしたから。」
「生きて帰ることを大切にしていました。」
「仲間を大切にしていました。」
「家族を大切にしていました。」
そして。
「朝ご飯を食べることも。」
少女は思わず吹き出した。
「朝ご飯?」
「はい。」
アマツは真面目な顔で頷く。
「大事ですから。」
二人は小さく笑った。
やがて展示室の奥へ辿り着く。
そこには創設メンバーの写真が飾られていた。
中央には三枚の大きな肖像写真。
少女は説明文を読む。
「ムスビ。」
「タカミムスヒ。」
「ヤマト。」
少し首を傾げる。
「本名じゃないんですか?」
「ええ。」
アマツは頷いた。
「皆、コードネームです。」
「どういう意味なんです?」
その問いに。
アマツは少しだけ写真を見つめた。
遠い昔を見るように。
「ムスビは。」
穏やかに微笑む女性の写真へ視線を向ける。
「人と人を結ぶのが上手な人でした。」
「困っている人を放っておけない方でした。」
「だから皆、ムスビと呼びました。」
少女は写真を見つめる。
確かに優しそうな笑顔だった。
アマツは次の写真を見る。
まだ幼さの残る金髪の少女。
「タカミムスヒは未来を作った人です。」
「誰も思い付かなかった道を切り開いて。」
「多くの人に未来を残しました。」
その声はどこか誇らしかった。
そして最後の写真。
白髪赤眼の女性。
鋭い瞳を持ちながらも、どこか温かさを感じる表情。
「ヤマトは。」
アマツはほんの少しだけ笑う。
「誰よりも仲間を守ろうとした人です。」
「最後まで前に立つ方でした。」
少女は三枚の写真を見比べる。
しばらく黙っていたが。
やがてぽつりと言った。
「なんだか。」
「英雄って感じがしません。」
「そうですね。」
アマツは静かに頷く。
「ただ普通の人たちでした。」
「優しくて。」
「不器用で。」
「少し変わった人たちです。」
そして。
ほんの少しだけ表情を柔らかくした。
「だから私は。」
「今でも好きなんです。」
少女はその言葉に少し驚いたような顔をした。
だが何も聞かなかった。
窓から春風が吹き込む。
桜の花びらが一枚、ゆっくりと舞い落ちた。
やがて二人は歴代司令官の展示へ辿り着く。
少女は思わず声を漏らした。
「格好いい……。」
そこには白髪赤眼の女性の写真。
外縁独立機動部隊司令官。
大城雪夏。
コードネーム・ヤマト。
「素敵な方でした。」
アマツはそう呟いた。
「会ったことあるみたいな言い方ですね。」
少女が笑う。
アマツも微笑んだ。
「そうでしょうか。」
それ以上は語らない。
春の陽射しが写真を照らしていた。
帰り際。
少女は資料館の入口で振り返る。
「先生!」
「なんでしょう。」
「私。」
少し照れながら言う。
「防衛大学校を目指してみようかな。」
「まだ分からないですけど。」
「でも。」
「誰かを守れる人になりたいです。」
アマツは目を細めた。
遠い昔。
同じようなことを言った人たちを思い出す。
「それは。」
静かな声。
「とても素敵なことですね。」
少女は嬉しそうに笑った。
「ありがとうございました!」
そして春風の中を駆けていく。
夕暮れ。
静かになった展示室。
アマツは創設メンバーの写真の前に立っていた。
ムスビ。
タカミムスヒ。
ヤマト。
三人は百年以上前と変わらない笑顔でそこにいる。
「また一人。」
アマツは小さく呟く。
「素敵な子が来てくれました。」
夕陽が写真を優しく照らしていた。
人は去っていく。
時代も変わっていく。
それでも。
誰かを想う気持ちは受け継がれていく。
百五十年前から変わらないように。
春風と共に。
静かに。
次の世代へと。
ーーー
いつもの席
四月。
沖縄本島北部。
春の陽射しが、外縁独立機動部隊記念資料館の窓から優しく差し込んでいた。
館内の一角。
窓際の席。
そこに、一冊の本が置かれている。
『近代戦史入門』
そして。
隣には、湯気の立つ珈琲。
「……。」
アマツは時計を見る。
十時。
開館から三十分。
「少し遅いですね。」
そう呟いて、本を閉じる。
毎年。
桜の咲く頃になると。
その席には、一人の老人が座っていた。
元外縁独立機動部隊隊員。
木村三曹。
若い頃は無鉄砲で。
戦史の授業中に居眠りをして。
よく同期に怒られていた。
退役後は花屋を営み。
妻と出会い。
子供が生まれ。
孫が生まれ。
そして。
毎年春になると、
「先生、今年も来ました。」
と笑っていた。
九十歳を過ぎても。
杖をつくようになっても。
百歳になっても。
変わらなかった。
「今年も桜が綺麗ですね。」
そう言って。
窓際の席で珈琲を飲む。
それが春だった。
しかし。
今年。
十時を過ぎても。
十一時になっても。
その席は空いたままだった。
「……。」
アマツは静かに立ち上がる。
そして。
一つだけ用意していた珈琲を口にした。
少しぬるくなっていた。
午後。
資料館に一人の女性が訪れた。
六十代ほど。
優しそうな顔。
手には花束。
「失礼します。」
「はい。」
女性は丁寧に頭を下げる。
「父が、お世話になっておりました。」
アマツは少し目を細めた。
「木村三曹のお嬢さんですね。」
女性は驚いた。
「覚えていてくださったんですか?」
「もちろんです。」
「お父様によく似ていらっしゃいます。」
女性は嬉しそうに笑った。
そして。
少し寂しそうに。
「父。」
「先月。」
「百三歳で。」
「大往生でした。」
春風が吹く。
窓の外。
桜の花びらが舞っていた。
「そうですか。」
アマツは穏やかに微笑んだ。
「立派な人生でしたね。」
「ええ。」
女性は頷いた。
「亡くなる前まで。」
『今年も先生のところへ行かないとな。』
って。
そればかり言ってたんです。」
アマツは小さく微笑む。
「嬉しいですね。」
「それで。」
女性は花束を差し出した。
「これ。」
「父からです。」
「今年も。」
『桜を先生に。』
って。」
アマツは花束を受け取る。
「ありがとうございます。」
「きっと喜びます。」
「え?」
「いいえ。」
「独り言です。」
女性は首を傾げた。
しばらく資料館を見学し。
帰り際。
振り返る。
「先生。」
「なんでしょう。」
「父。」
「幸せだったと思います。」
「そうですね。」
「私もそう思います。」
女性は笑顔で帰っていった。
夕方。
閉館後。
アマツは窓際の席に小さな花瓶を置いた。
木村三曹が育てた桜。
柔らかな薄桃色。
そして。
珈琲を一杯。
「今年も。」
「綺麗ですね。」
静かな部屋。
返事はない。
それでも。
春風が、カーテンを優しく揺らした。
アマツは花を見つめる。
そして。
本棚から一冊のアルバムを取り出した。
若い頃の木村三曹。
卒業式。
結婚式。
花屋の前。
孫と一緒。
百歳の誕生日。
そして。
去年。
窓際の席。
珈琲を片手に笑う姿。
「相変わらずですね。」
アマツは小さく笑った。
ページを閉じる。
窓の外。
夕焼け。
舞い散る桜。
「また来年。」
「お待ちしています。」
穏やかな声。
そして。
翌朝。
アマツはいつものように開館の準備をする。
窓際の席。
一冊の本。
そして。
今年も、新しい春が始まる。
まるで。
出会いも別れも。
春の花のように。
静かに巡っていくかのように。