第1話 瑠花という人
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
【澪】 青空ひとつない、曇天の日だった。人気のない堤防を、澪(みお)はまっすぐ歩いていた。
本文
【澪】
青空ひとつない、曇天の日だった。
人気のない堤防を、澪(みお)はまっすぐ歩いていた。
ローファーの底が、アスファルトをコツコツと鳴らす。
波の音と、ウミネコの鳴き声を孕んだ潮風が、ゆるく結んだお下げを煽る。
歩きながらリボンタイを直し、スカートのプリーツを整えた彼女は、肺に磯臭い空気をめいっぱい吸い込んで声を上げた。
「こんにちは」
その声に、何かをついばんでいたウミネコたちが一斉に飛び立つ。
「こんにちは。ボッチのお嬢さん」
ウミネコがいなくなった堤防。
海に足を投げ出すように腰かけていた女が、振り向きもせずに言葉を紡ぐ。
「澪だってば。その呼び方やめてくれる? なんかムカつく」
袋に入った食パンのくずを海に撒く女に、澪は悪態をつく。
「事実だからね。今日も帰宅部の活動お疲れ様」
「やな言い方……」
ふっと笑い声。
振り向いたその人は、黒い長髪を無造作にかき上げた。
「毎日飽きもせずよく来るね。そろそろ未成年者とのなんちゃらで捕まっちゃいそうで怖いんだけど? 通報されたらどうしてくれんの?」
口元で笑みを湛えつつ、どこかけだるげな目。
リネンの白いブラウス。
髪をかき上げた指に光る、指輪。
「通報とか……されるわけないでしょ。小さい子じゃないんだから」
あえてぶっきらぼうな調子で言った澪は、女の隣に無遠慮に腰を下ろす。そして――
「はい。ショバ代」
合皮のスクールバッグから取り出した缶ジュースを、女に差し出した。
「貢物(みつぎもの)とかいらないって。あたしの場所じゃないし」
煙草の煙がふうと吐き出される。
「ま、くれるってんならもらうけどねー」
煙草をくわえた女は、バッグから平たい箱を取り出した。
「こいつと引き換えで」
澪の目に飛び込んできたのは、真っ赤なパッケージに踊る『アーモンドチョコレート』の金文字だ。
「またチョコ? 好きだね」
「お嬢さんには甘いもんの方がいいかなって」
チョコレートの箱を、わざと乱暴につかみ取る。
「やめて。そのお嬢さんっていうの」
「お嬢さんでしょ」
笑みを崩さない彼女を睨みつけ、「オバサン」と悪態をつく。
「ん? 何か聞こえた?」
「だから、オバ――」
「超絶美しい瑠花(ルカ)おねーさま? ありがと」
「言ってないから!」
缶ジュースを女の――瑠花の頬に押し当てる。
「ひゃー」とやる気のない悲鳴を漏らした瑠花は、缶に印刷された表示を読み始めた。
「なにこれ。王(ワン)……老吉(ラオジー)? どこで買ったん?」
「スーパーで六十八円だった。味は知らない。美味しかったら私も買う」
ビニールの包装を破り、つるりとしたチョコレートを一粒口に入れる。
「毒味ってこと? やだー、オトナ相手にそんなことしていいの?」
「オトナなら余裕でしょ」
「まあねー」
ゆるく声を上げた瑠花は、プルタブを開けて缶に口を付ける。
こくり、こくり、白い喉がうねるのを、澪は周辺視野で覗(うかが)い見ていた。
チョコレートを、噛み、砕く――
「んー、悪くはないかな。二カ月にいっぺんくらい飲みたくなるかも」
ゆるい視線がぶつかって、澪は慌てて海を見やる。
「うわっ、ほんとに飲むんだ……」
「お嬢さんが買ってきたんだからね?」
風に、瑠花の髪がなびく。
ほんのりと湿ったシャンプーの香りが、澪の鼻先をかすめていった。
飲みかけの缶をアスファルトに置いた瑠花は、投げ出していた足を胸に抱えて問いを落とす。
「今日は? 書けたの?」
その声に、澪の胸はぐっと重くなった。
「書いてたけど……ノート、どっか行った」
脳裏を黄色いノートがよぎる。
落書きやコンパスの針痕でボロボロになった表紙。
氏名欄に書かれた下品な名前のもじり――
「また? もう何回目?」
瑠花の声で、現実が戻った。
「ダメだよ。そういうのはちゃんとぶん殴っとかないと」
「内申に響くから……」
極端な言葉に、小さくそれだけ返す。
「真面目かー」と言った瑠花は、缶を静かに傾けた。
「真面目にやんないと、ずっとこのままだし……」
ぴちゃん、中の液体が音を立てて、瑠花が視線を向けてくる。
「代わりのモンは? マジメでもお勉強出来なきゃ元も子もないでしょ」
「大丈夫。文房具にお年玉ブッパしたから。ペンもノートもお店出来そうなくらいある」
「強気かー」ウミネコの声に、笑い声が混ざった。
「たくましくていいけど、せっかくのお年玉そんなことに使っちゃっていいわけ? 華の女子高生が」
「別に……欲しいものも特にないし……」
「まー、いいけどさ」
俯いた澪を、瑠花は追及しなかった。
煙草を持つに、指輪がきらりと光る。
「覚えてるとこまでなら……スマホに打ってきたよ」
水色の光から目を逸らして、澪はスマートフォンを取り出した。
「さすがじゃん。どれどれ」
差し出された端末を受け取った瑠花は、表示された文字を鼻歌交じりに目で追う。
「……どう?」
ちらりと向けた視線。
傍らに置いた携帯灰皿に煙草を押し付け、瑠花は「悪くはないね」とだけ呟いた。
「王老吉と同じ感想じゃん……」
「じゃあタイトル『王老吉』にしよっか」
からかうように言う彼女を睨む。
「やめて。タイトルはつけないんだってば」
「出たこだわり。タイトルなかったら何の詩か分かんないじゃん」
少し、言葉に詰まる。
「分かんなくていいから……私に分かれば……」
「不親切ー」
瑠花の腕に、無言で肘鉄砲をくらわせた。
はは、と笑った瑠花のブラウスを風が通り抜け、白い鎖骨が覗く。
「それよりほら……歌ってよ」
跳ねた心臓を、見ないふり。
「はいはい」
数度鼻歌を繰り返した瑠花は、長い足を胡坐(あぐら)に組み替えて息を吸う。
『波がぬくもりをさらった
伸ばした手が行き場を失う
切れて溶けた 誓いの言葉
絆は砂にほどけていった』
灰色の空に似合わない、どこまでも透き通った歌声だった。
『影を追って飛び込んだ海
肺を満たすペトリコール
揺らぐ光はオーロラの鱗
透き通った尾ひれ 翻す』