第2話 ペトリコール
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あらすじ
その声に聴き入っていた澪は、ふいに止んだ歌に顔を上げる。「悲しい詩だね。もっと明るいの書けばいいのに」ぽつりと落ちた言葉。
本文
その声に聴き入っていた澪は、ふいに止んだ歌に顔を上げる。
「悲しい詩だね。もっと明るいの書けばいいのに」
ぽつりと落ちた言葉。
波のひとひらでも見ているのだろうか。
瑠花の目はぼんやりと前方を向いている。
「明るい詩は……私じゃないから……」
「ネクラだもんね」
「るっさいし……」
チョコレートを、もうひとつ頬張った。
「これ、何の詩なの? 人魚姫みたいなんは分かるけど、ペトリコールって……?」
瑠花の問いに、澪は少しの優越感を覚える。
「ぺトリコールは、雨の匂いのことでしょ」
瑠花は「へぇ~」と声を漏らしただけだった。
「高校生の方が賢いね」
「大丈夫。今一つ賢くなったから。まだまだお嬢さんには追い越されないよ」
澪の言葉は、のらりくらりと躱される。
ウミネコの声が耳障りだ。
空を見上げた瑠花は、目にかかる前髪をかき上げる。
「ぺトリコール……もしかして今あたしが感じてるこれのこと?」
「え?」
つられて見上げた空。頬に、小さな水の粒が跳ねた。
それを皮切りに、ざっと音を立てて夕立が降り注ぐ。
「ヤバッ! 傘持ってきてない!」
梅雨明け宣言があったばかりだというのに、全く悪い冗談のような状況だ。
澪は合皮のカバンを慌てて拾い上げた。
「ははっ、早くどうにかしないとみんなびしょ濡れだね」
「おねーさんもでしょ!」
雨に濡れながら平気な顔で笑う瑠花の手を取り、澪は堤防から走り出した。
――――
雨は一層強まり、商店街のアスファルトを黒く濡らした。
シャッターの並ぶ通り。屋根の張り出した、金物屋の廃屋。
軒先に滑り込んだ二人は、ポタポタと滴り落ちる水音の中で息を切らせていた。
「わー、土砂降りになりそうだ」
朽ちかけた木のベンチに腰掛け、悠々と足を組む瑠花。
「最悪……」
ベンチの傍らに立った澪は、ハンカチで体についた雫を拭う。
「土砂降りの日ってさ、テンション上がらない?」
「おねーさんだけだと思うよ……」
どこまでも無責任な彼女に、憎まれ口を叩く気も起きない。
ブラウスが肌に張り付く不快さを誤魔化そうと、チョコレートの箱を探した澪だが――
「あっ! チョコ! チョコ置いてきちゃった! もーホント最悪!」
堤防で水浸しになっている赤い箱が思い浮かぶ。
「いいじゃん。また施してあげないこともないよ」
「言い方悪すぎるから!」
そもそも、マイペースな瑠花を引っ張ることに気を取られていたのだ。
瑠花が自発的に走ってくれさえすれば、忘れることもなかったのに。
文句を言おうと向けた視線に、彼女の眼差しが絡まる。
「そんなとこいたら濡れるよ。こっちおいで」
ベンチに腰かけたまま、隣をトントンと示す手。
さっきまで自分が引いて走っていた、手。
細い煙草を挟んでいた、長い指。
「ほら、おーいーで」
雨の中で、声はやけに、輪郭を持って――
隣に腰かけた澪に、瑠花はバッグから取り出したカーディガンをかける。ふわり、何か分からない花の香りがした。
「未成年者……略取……」
「あ、ごめん風邪引きたかったか」
「……るっさいから」
やたら、体温が近い。
煙草を一本取り出した瑠花は、ライターをカチリと鳴らす。
湿気って重たい空気に、紫煙が香った。
「寒くない?」
煙と共に落ちた言葉に、「別に」と返す。
「お腹空かない? 喉渇いてない? これ飲む?」
「子供じゃないんだから!」
差し出された王老吉を押しのける。
「十七なんて子供みたいなもんでしょ」
「ち、違う……から……」
肺に満ちる瑠花の香りを、小さく吐き出す。
「来年、成人だよ。大人。意味分かる?」
「んー、分かんない。成人したらいきなりオトナになるってこと? 難しー」
本心なのか、ふざけているのか――「最低」という文句は、雨音に消えた。
「何か言った?」
「なんでもないから」
黒い髪がかき上げられる。
「ところで、さっきの詩はどういう詩なの? なんだっけ、ペトロヴィッチ……」
「ぺトリコール!」
ふふっと笑いをこぼした瑠花を、睨む。
「冗談じゃん」
「やめてよ」
カーディガンの上でもじもじと手をすり合わせながら、澪は言葉を続けた。
「……恋人がいなくなっちゃう詩、かな」
絞り出すように、それだけ。
「へえ」と声を上げた瑠花は、携帯灰皿に吸いかけの煙草を押し込む。
「どうしていなくなっちゃうの?」
「分かんない」
「実体験?」
「……じゃない」
「そうなんだ」
それきり、瑠花は何も言わなかった。
雨どいから滑り落ちる水の音、時折通り過ぎる車が水溜りを濁す音、沈黙を、雨が洗う。
「……何か言わないの?」
静けさに耐え兼ねた澪が、声を落とす。
「何を?」
「人と付き合ったこともない癖に……とか」
余計なことを言った。言ってから、後悔した。
「詩にほんとのことなんて、書く必要ある?」
笑うと思ったのに、瑠花は笑わなかった。
「いいじゃん。恋人がいたことも、恋人がいなくなったこともない子がエレジー書いたって」
その声に嘲りの温度はない。澪は握りしめた手を、少しゆるめた。
「そう……思うんだ」
「うん。手に持ったことがない宝石くらいキレイなもんってないよ」
彼女の言葉は、時に難しい。
煌びやかな宝石を思い浮かべた澪は、その輝きに瑠花の歌声を重ねる。
透明で、澄んでいて、どこまでも届きそうなほどまっすぐで――
「おねーさんは? いたことあるの? 恋人」
無意識の問いだった。
ハッとして「あ、いや……そうじゃなくて」と取り繕う澪に、瑠花はいつものおどけた調子で言葉を返してくる。
「オトナにそれ聞く時はね、『いたことあるの?』じゃなくて、『いるんですか?』が正解ね」
諭すようでいて、はぐらかすようでもある。
彼女の言葉にムッとした澪は、もう一度、今度ははっきりと問いを投げた。
「いるの? いないの?」
二本目の煙草に、火がつけられる。
「どう思う?」
「めんどくさ」
完全に遊ばれている。
余裕綽綽の瑠花にまたしても苛立った澪は、彼女の指に視線を落とす。
「……いるんじゃないの? その……いつも指輪、してるし……」
左手。長い小指にはめられている、ビーズの指輪。
「もらったんじゃ、ないの……?」
大きめの石が真ん中に据えられ、周りを囲むようにキラキラとしたビーズがあしらわれた、指輪。
瑠花が着けるにしてはいささか子供っぽいデザインだ。
「もらったよ。いいでしょ。お気に入り」
自慢げな彼女に、手をギュッと握りしめる。
「似合わないね……ビーズ」
口をついた言葉は、自分でも驚くほど子供だった。
違う。そういうことが言いたいわけではないのに。
「やっぱそう思う? あたしも思う」
瑠花は特に気を悪くした様子もなく、飄々としていた。
「あたしに合わせるなら、もっとゴージャスでキレイめでエレガントな方が――」
「ねえ、おねーさん」
言葉を、切る。
「んー?」と首を傾げた瑠花を、澪はまっすぐ見つめた。
「どっち……なの?」
相変わらず気だるげな目。
今の自分は彼女の目にどう映っているのだろうか。
考えるのが、少しだけ怖い。
「どうだと思う?」
吐き出された紫煙。
煙草と、花の香りが混ざって肺を侵す。
私は、この人が、好きだ――