第2話 ペトリコール

小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品

📅 公開日: 2026/8/1 📚 シリーズ: マーメイド・ペトリコール 📝 2,900文字 ✅ 全年齢

あらすじ

その声に聴き入っていた澪は、ふいに止んだ歌に顔を上げる。「悲しい詩だね。もっと明るいの書けばいいのに」ぽつりと落ちた言葉。

本文

 その声に聴き入っていた澪は、ふいに止んだ歌に顔を上げる。

「悲しい詩だね。もっと明るいの書けばいいのに」

 ぽつりと落ちた言葉。

 波のひとひらでも見ているのだろうか。

 瑠花の目はぼんやりと前方を向いている。

「明るい詩は……私じゃないから……」

「ネクラだもんね」

「るっさいし……」

 チョコレートを、もうひとつ頬張った。

「これ、何の詩なの? 人魚姫みたいなんは分かるけど、ペトリコールって……?」

 瑠花の問いに、澪は少しの優越感を覚える。

「ぺトリコールは、雨の匂いのことでしょ」

 瑠花は「へぇ~」と声を漏らしただけだった。

「高校生の方が賢いね」

「大丈夫。今一つ賢くなったから。まだまだお嬢さんには追い越されないよ」

 澪の言葉は、のらりくらりと躱される。

 ウミネコの声が耳障りだ。

 空を見上げた瑠花は、目にかかる前髪をかき上げる。

「ぺトリコール……もしかして今あたしが感じてるこれのこと?」

「え?」

 つられて見上げた空。頬に、小さな水の粒が跳ねた。

 それを皮切りに、ざっと音を立てて夕立が降り注ぐ。

「ヤバッ! 傘持ってきてない!」

 梅雨明け宣言があったばかりだというのに、全く悪い冗談のような状況だ。

 澪は合皮のカバンを慌てて拾い上げた。

「ははっ、早くどうにかしないとみんなびしょ濡れだね」

「おねーさんもでしょ!」

 雨に濡れながら平気な顔で笑う瑠花の手を取り、澪は堤防から走り出した。

――――

 雨は一層強まり、商店街のアスファルトを黒く濡らした。

 シャッターの並ぶ通り。屋根の張り出した、金物屋の廃屋。

 軒先に滑り込んだ二人は、ポタポタと滴り落ちる水音の中で息を切らせていた。

「わー、土砂降りになりそうだ」

 朽ちかけた木のベンチに腰掛け、悠々と足を組む瑠花。

「最悪……」

 ベンチの傍らに立った澪は、ハンカチで体についた雫を拭う。

「土砂降りの日ってさ、テンション上がらない?」

「おねーさんだけだと思うよ……」

 どこまでも無責任な彼女に、憎まれ口を叩く気も起きない。

 ブラウスが肌に張り付く不快さを誤魔化そうと、チョコレートの箱を探した澪だが――

「あっ! チョコ! チョコ置いてきちゃった! もーホント最悪!」

 堤防で水浸しになっている赤い箱が思い浮かぶ。

「いいじゃん。また施してあげないこともないよ」

「言い方悪すぎるから!」

 そもそも、マイペースな瑠花を引っ張ることに気を取られていたのだ。

 瑠花が自発的に走ってくれさえすれば、忘れることもなかったのに。

 文句を言おうと向けた視線に、彼女の眼差しが絡まる。

「そんなとこいたら濡れるよ。こっちおいで」

 ベンチに腰かけたまま、隣をトントンと示す手。

 さっきまで自分が引いて走っていた、手。

 細い煙草を挟んでいた、長い指。

「ほら、おーいーで」

 雨の中で、声はやけに、輪郭を持って――

 隣に腰かけた澪に、瑠花はバッグから取り出したカーディガンをかける。ふわり、何か分からない花の香りがした。

「未成年者……略取……」

「あ、ごめん風邪引きたかったか」

「……るっさいから」

 やたら、体温が近い。

 煙草を一本取り出した瑠花は、ライターをカチリと鳴らす。

 湿気って重たい空気に、紫煙が香った。

「寒くない?」

 煙と共に落ちた言葉に、「別に」と返す。

「お腹空かない? 喉渇いてない? これ飲む?」

「子供じゃないんだから!」

 差し出された王老吉を押しのける。

「十七なんて子供みたいなもんでしょ」

「ち、違う……から……」

 肺に満ちる瑠花の香りを、小さく吐き出す。

「来年、成人だよ。大人。意味分かる?」

「んー、分かんない。成人したらいきなりオトナになるってこと? 難しー」

 本心なのか、ふざけているのか――「最低」という文句は、雨音に消えた。

「何か言った?」

「なんでもないから」

 黒い髪がかき上げられる。

「ところで、さっきの詩はどういう詩なの? なんだっけ、ペトロヴィッチ……」

「ぺトリコール!」

 ふふっと笑いをこぼした瑠花を、睨む。

「冗談じゃん」

「やめてよ」

 カーディガンの上でもじもじと手をすり合わせながら、澪は言葉を続けた。

「……恋人がいなくなっちゃう詩、かな」

 絞り出すように、それだけ。

 「へえ」と声を上げた瑠花は、携帯灰皿に吸いかけの煙草を押し込む。

「どうしていなくなっちゃうの?」

「分かんない」

「実体験?」

「……じゃない」

「そうなんだ」

 それきり、瑠花は何も言わなかった。

 雨どいから滑り落ちる水の音、時折通り過ぎる車が水溜りを濁す音、沈黙を、雨が洗う。

「……何か言わないの?」

 静けさに耐え兼ねた澪が、声を落とす。

「何を?」

「人と付き合ったこともない癖に……とか」

 余計なことを言った。言ってから、後悔した。

「詩にほんとのことなんて、書く必要ある?」

 笑うと思ったのに、瑠花は笑わなかった。

「いいじゃん。恋人がいたことも、恋人がいなくなったこともない子がエレジー書いたって」

 その声に嘲りの温度はない。澪は握りしめた手を、少しゆるめた。

「そう……思うんだ」

「うん。手に持ったことがない宝石くらいキレイなもんってないよ」

 彼女の言葉は、時に難しい。

 煌びやかな宝石を思い浮かべた澪は、その輝きに瑠花の歌声を重ねる。

 透明で、澄んでいて、どこまでも届きそうなほどまっすぐで――

「おねーさんは? いたことあるの? 恋人」

 無意識の問いだった。

 ハッとして「あ、いや……そうじゃなくて」と取り繕う澪に、瑠花はいつものおどけた調子で言葉を返してくる。

「オトナにそれ聞く時はね、『いたことあるの?』じゃなくて、『いるんですか?』が正解ね」

 諭すようでいて、はぐらかすようでもある。

 彼女の言葉にムッとした澪は、もう一度、今度ははっきりと問いを投げた。

「いるの? いないの?」

 二本目の煙草に、火がつけられる。

「どう思う?」

「めんどくさ」

 完全に遊ばれている。

 余裕綽綽の瑠花にまたしても苛立った澪は、彼女の指に視線を落とす。

「……いるんじゃないの? その……いつも指輪、してるし……」

 左手。長い小指にはめられている、ビーズの指輪。

「もらったんじゃ、ないの……?」

 大きめの石が真ん中に据えられ、周りを囲むようにキラキラとしたビーズがあしらわれた、指輪。

 瑠花が着けるにしてはいささか子供っぽいデザインだ。

「もらったよ。いいでしょ。お気に入り」

 自慢げな彼女に、手をギュッと握りしめる。

「似合わないね……ビーズ」

 口をついた言葉は、自分でも驚くほど子供だった。

 違う。そういうことが言いたいわけではないのに。

「やっぱそう思う? あたしも思う」

 瑠花は特に気を悪くした様子もなく、飄々としていた。

「あたしに合わせるなら、もっとゴージャスでキレイめでエレガントな方が――」

「ねえ、おねーさん」

 言葉を、切る。

 「んー?」と首を傾げた瑠花を、澪はまっすぐ見つめた。

「どっち……なの?」

 相変わらず気だるげな目。

 今の自分は彼女の目にどう映っているのだろうか。

 考えるのが、少しだけ怖い。

「どうだと思う?」

 吐き出された紫煙。

 煙草と、花の香りが混ざって肺を侵す。

 私は、この人が、好きだ――

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作者について

彩華 じゅん

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