最終話 真珠の月

小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品

📅 公開日: 2026/8/1 📚 シリーズ: マーメイド・ペトリコール 📝 4,481文字 ✅ 全年齢

あらすじ

【澪】 いつの間にか、夕暮れになっていた。瑠花の家を出た澪は、自宅までの道をとぼとぼと歩いていた。

本文

【澪】

 いつの間にか、夕暮れになっていた。

 瑠花の家を出た澪は、自宅までの道をとぼとぼと歩いていた。

 彼女は、結局核心については何も話してくれなかった。

 澪の服が乾くまで、次々といつものチョコレート菓子を出し続け、いつもの飄々とした調子で関係ない話をしていた。

『いじめないでよ、澪ちゃん』

 声が蘇り、胸がずきりと痛む。

 そう言った瑠花は、苦しそうだった。

 泣きそうでも、怒っているでもない。

 痛みをこらえているかのような、そんな……。

「はあ」

 足元で光るビジューに、ため息を漏らす。

 自分は瑠花を傷つけてしまったのだろうか。

 あんな顔、させたくはなかったのに。

 悶々と停滞する思考は、浴室でのことを想起させた。

 白い肌、手に感じた柔らかさ、自分とは違う、大人の――

 ぶんぶんと頭を振り、映像を追い払う。

 こんな時にまで『そんなこと』を考えてしまう自分に、また自己嫌悪。

 幾度目かのため息を吐き出した澪は、不意に手首が引っ張られるのを感じた。

「ちょっと、シカトとか何様?」

 ハッと顔を上げた。

 夕日の中、澪の手を掴んでいたのは凪だった。

「凪……さん」

「さっきから声かけてんだけど? 返事くらいしろし。ブス」

 きつくカールさせた髪に、趣味の悪い露出ファッション。

 相変わらずの不快さをまき散らしている彼女に、澪はただ舌打ちを投げる。

「ブスはそっちでしょ。ブース」

「死ねよ」

 凪の睨みは、今の澪には怖くもなんともなかった。

 目の前の敵より、瑠花のことを考えていたい。

 その程度のものでしかなかった。

「てか何? 休み中まで嫌がらせ?」

 雑に言葉を浴びせかける澪に、凪は歯切れ悪く言葉を紡ぎ始める。

「ちげーし。つか最近何もしてねーだろ」

 オーバーにかき上げられる髪。

「よくこの辺で見るって聞いたから来ただけだし」

「だから、何の用かって聞いてんの」

「だから! えっとあの……アレだよ!」

 澪に向かって悪口を投げつけてくる時とは、比べ物にならないほどの歯切れの悪さだ。

「意味不。用ないなら帰るから」

「ああ、ちょっと待てよ!」

 制止を無視して歩き出す。凪は追いかけてはこなかった。

【瑠花】

 澪が帰った部屋。瑠花はフローリングに寝そべって一人歌を歌っていた

 歌詞はない。いつか璃子と作った、拙いメロディーだ。

 煙草の先端がチリリと音を立て、思い切り吐き出した紫煙が宙に歪な曲線を描く。

『元気になったらいつものとこ来てくださいね。私待ってますから』

 玄関を出る間際、不安げな顔で言った澪の言葉が蘇る。

『あはは、ありがと』

 そう言った自分はどんな顔をしていただろうか。

 何も、考えたくなかった。

 部屋が薄闇に包まれ始めた頃、携帯電話が鳴った。

 いつもの名前が画面に表示されるのをぼんやりと見つめ、やりすごす。

 ブー、ブー、というバイブレーションが止み、静寂が降りた時。

 瑠花はようやく体を起こした。

 何をするわけでもない。あぐらをかき、ただ黙って座っているだけだ。

『あなた、名前は?』

 今でも鮮明に思い浮かぶ声。

 いつも汚れて擦り切れた制服を着ていた自分に、璃子は声をかけてくれた。

 水道が止まってろくに入浴も出来ず、脂の臭いをさせていた自分に、臭いなんて一言も言わずに一緒にいてくれた。

 父親に殴られた頬を手当して、ひどいと怒ってくれた。

『瑠花ちゃんは絶対歌上手いと思うんだよね。声がきれいだもん』

『私詩を書くのが得意だからさ、歌ってよ』

 その言葉で、歌を始めた。

 放課後に二人で歌う時間が幸せだった。

 璃子が一軍の女子たちに目を着けられ、嫌がらせをされるようになった時、自分のせいだと泣いた瑠花に『そんなことない』と笑ってくれた。

『私は瑠花が好きだから一緒にいるんだよ』

 言葉とは裏腹に、彼女の手首に増えていく傷が痛かった。

 どうにかできないか、傷の手当の仕方を本で必死に覚えた。

『ありがとう、瑠花』

 彼女がそう言って笑うたびに、安心できた。

 彼女が手作りの指輪をくれた時、嬉しかった。

 何もない自分に初めて証が出来たようで。

 二人の指に光るキラキラの指輪はきれいで、いつまでも眺めていたいくらいだった。

 ずっと一緒にいられると信じていた。

 あの日が来るまでは――

「璃子……」

 暗闇に、ぽつりと声が落ちる。

「璃子……璃子……」

 何も、残らなかった。

 二人でよく行った公園も、時折夕飯をご馳走になった彼女のあたたかい家も、詩を書き綴っていたノートも、写真すらも。

 瑠花は、冷房で冷え切った体をゆっくりと起こす。

 彼女が確かにいたと証明してくれるものは、波が全部持って行ってしまった。

 残ったのは、指輪がひとつだけ。

「十年、待ったよ」

 窓の外は、すっかり夜になっていた。

 短くなった煙草を傍らの空き缶に押し付け、玄関のサンダルに足を滑り込ませる。

 荷物は、持たない。

 コンビニ、ドラッグストア、スーパー。

 行くあてがあるわけではない。ただ、足を動かしていた。

 空には月が浮かんでいて、昼間の熱の余韻を夜風が運んでくる。

 向こうから漂ってくる潮の香りを吸い込み、適当な鼻歌を歌う。

 すれ違う通行人が、自分を不審な目で見ているのがなんだかおかしくて、少し笑った。

 ドラッグストアの有線でよく聞く曲を歌い終えた後、ふと思い浮かんだフレーズが口をつく。

『波がぬくもりをさらった

 伸ばした手が行き場を失う』

 これは、澪が書いた歌だ。

 中身のない、薄っぺらいエレジー。

 初めて読んだ時、ふざけた詩だと思った。

 何も失っていないくせに、分かった風なことをそれらしく書いて。

 好きになんてなれるはずもなかった。

 なのに、歌ってしまった。

 まるで手向けの花でも流すかのように、丁寧に、大嫌いな海に流した。

 街灯に照らされた海面、さざ波の音が瑠花の意識を引き戻す。

 いつの間にか彼女は堤防に来ていた。

 街灯の輪から外れた海はどこまでも暗く、夜空の月が一層明るく見える。

「あはっ、いい夜だ」

 月に向かって手を伸ばし、一歩、踏み出していた。踏み出した、だけだ。

 浮遊感。

 ひやり、冷たい感触。

 粘膜に走る刺激、肺を満たす黒い水。

 見上げた水面、月明かりの真珠層をまとった泡が、いくつも、いくつも――

「     」

 声を出したつもりだった。しかし、彼女の声はとうに水に埋もれてしまった。

『溺れたら死んじゃうんですよ!?』

 これは、誰の言葉だっただろう。

『こんにちは、おねーさん』

『タイトルはつけないんだってば』

『子供じゃないんだから!』

『似合わないね……ビーズ』

 三つ編みの、お下げの少女が、澪が、次々と記憶に蘇る。

 どうして、こんなに思い出すんだろう。

『泣いてないですから』

『マイナカードとかある?』

『おねーさん』

『瑠花さん』

 目の端に、熱い感触が走る。

 ああ、自分は泣いているのだと気付いた。

 だけど、それももうどうでもいい。

 遠くなっていく水面に手を伸ばしたまま、瑠花は目を閉じ――

『瑠花』

 ふわり、何かが上を横切る。

 闇の中でオパールの輝きを放つウロコ、透明な尾ひれ、その姿はまさに

「璃子……」

 声には、多分ならなかった。

 重く沈んだ体が、抱きしめられた。

 あの日の声が、消えかけていた笑顔が、鮮明に、目の前に浮かんでいる。

『会いに来たよ』

 瑠花の口が笑顔を作る。

「璃子……私も……大好きだよ。ずっと」

【澪】

 夏休みも明けた、数か月後。

 澪は、堤防に腰かけてぼんやりと海を眺めていた。

 瑠花のアパートに行ったあの日から、彼女は毎日のようにここに通った。

 しかし、瑠花が姿を現すことはなかった。

 一週間、一カ月。

 学校が終わるたびに、休みの日に、二人分の飲み物を持って堤防を訪れた。

 しかし、なくなるのは一本だけ。

「今日もいるし。そんな海見て何してんの?」

 耳障りな声が落ちる。

「別に。関係ないでしょ。来んなし」

 隣に腰かけたのは、凪だ。

「それ余ってんならちょうだいよ」

 飲み物のペットボトルに手を伸ばしてくる彼女を、澪は冷たく睨む。

「バーカ、あげるわけないでしょ」

「ケチ」

「ショバ代払えっつの」

 悪態に、どちらのか分からない舌打ちが重なる。

「んで何? 今日もノート見せろって?」

「わりぃかよ」

「悪い。最悪」

 幾度となく繰り返される問答に、澪はため息をつく。

 あれから、瑠花のアパートに行った。職場だと言っていた病院にも行った。

 さすがに中に入ることまではしなかったが、どこにも瑠花の痕跡はなかった。

 ここに来れば会えるというのが当然で、連絡先すら澪には残らなかった。

 唯一の接点である堤防で、澪は彼女が来るのをずっと待っていた。

「アンタが書いたさ……詩? よく分かんないけど、もっかい見たいの。なんかいいなって思って」

「人のノートボロッボロにしながらいいなとか考えてたわけ? キモ」

「キモいかも。よく分かんない」

 また、ため息。

 この先、同じようなやり取りを、凪が飽きるまで繰り返すのだろうか。

 なんだか、だるい。

「まあいいけど、今度壊したらぶっ殺すからね?」

 バッグから取り出したノートを差し出す。

「あれ、こんなんだっけ?」

「手当てしてもらったの。あたしの好きな人に」

 潮騒とウミネコの声、少し冷たくなった潮風が二人の間を通り抜ける。

 ノートを読みふける凪の横で、瑠花の声が脳裏をよぎった。

『悲しい詩だね。もっと明るいの書けばいいのに』

 ぼんやりとした表情。あの時、彼女は何を考えていたのだろう。

『手に持ったことがない宝石くらいキレイなもんってないよ』

 雨の中で紫煙をくゆらせる姿が、カーディガンから立ち上る花の香りが、隣に感じた体温が――

『これ、いらないならもらうよ。今日のショバ代』

 澪が海に捨てようとしたノートを、身を挺して取り戻してくれた姿が――

 じわり、鼻の奥が痛む。

「ふーん。読んだわ。あんがと」

 急に思考に割り込んできた声に、顔を上げた。

「よく分かんないけど、アンタがネクラってのは分かったわ」

 突き返されたノートを乱暴に受け取る。

「読ませろとか言っといてそれとか……最低かよ」

「でも、やっぱあたし嫌いじゃないかも」

 ぐっと言葉に詰まった。凪は彼女の様子などお構いなしに続ける。

「んで? 今書いてんのは何なん? 見せろし」

 手に持っていたノートが強引に取り上げられ、澪が「ちょっと!」と抗議するより先に凪は文面を目で追い始めた。

「ホント最っ低!」

 飲みかけのペットボトルを地面に叩きつける。

 いっそのこと頭からかけてやろうかと思ったが、彼女の手にあるノートが人質のように澪を縛っていた。

「これ、何の詩なの? 暗すぎじゃね?」

「いいじゃん別に」

「てかさ、他のはみんなタイトルあんのに何でこれだけないわけ?」

『タイトルなかったら何の詩か分かんないじゃん』

 また、声が蘇る。

「るっさいから! 今書くとこだったんだよバーカ」

 雑にノートを取り上げ、ペンを握り直す。

 手元を覗き込んだ凪に「見んなし!」と吐き捨てた澪は、空白だった最初の行に文字を書き加えた。

 『マーメイド・ペトリコール』

(了)

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作者について

彩華 じゅん

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