第9話 人魚のうろこ

小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品

📅 公開日: 2026/8/1 📚 シリーズ: マーメイド・ペトリコール 📝 2,716文字 ✅ 全年齢

あらすじ

※津波の描写があります。心的外傷のある方は閲覧にご注意ください。【瑠花】 浮かない顔で黙り込んでしまった澪を見て、瑠花はやってしまったと少し後悔した。

本文

 ※津波の描写があります。心的外傷のある方は閲覧にご注意ください。

【瑠花】

 浮かない顔で黙り込んでしまった澪を見て、瑠花はやってしまったと少し後悔した。

 いくら年下とはいえ、自分がそこまで口を出す話ではなかった。

「あー……ごめんね」

 重たい体を起こす。

「横になったら楽になった。ちょっと汗流してくるね」

 ベッドから立ち上がって浴室へ向かう。

 これでは、まるで逃げているようだ。

 コックをひねった瑠花の体に、冷水が降り注いだ。

 流れる水に、髪が、火照った肌が、無慈悲に冷やされていく。

 日焼けした腕。ヒリヒリとした痛みは、シャワーでは消えてくれない。

 瑠花は、追い炊きをしていない浴槽に身を沈める。

 ずぶずぶと、体を沈め、水の中にふわりと髪が広がる。

 目を閉じて、呼吸をした。

 暗闇、水の中にくぐもって届く、自分の心拍。

 体を包む水に溶けだす、体温。

 まだ、生きている。

 水面に出していた顔を、沈める。

 ぷつぷつ、顔の産毛に絡まった泡が弾ける。

 プラスチックのような、安っぽい泡だ。

 息苦しさは、ない。

 ゆらゆらと、水面が天井を歪ませるのが見える。

 髪が揺れる感覚に、あの日の記憶がよぎる。

 学校だった。

 強い揺れがあって、皆何があったのか戸惑っていた。

 校内放送が屋上への避難を呼びかけるのが聞こえた。

 走って、階段を駆け上って、そうこうしているうちに、黒い水が来た。

 ガラスを突き破り、足元から這い上がり、机が、イスが、クラスメイトが浮き上がってどこかへ行った。

 流されそうになるのを、瑠花は窓枠に掴まって耐えていた。

『璃子、離しちゃダメだよ!』

 もう片方の手で掴んでいたのは、小さな手だった。

『瑠花……寒い……』

 弱弱しい声。

 水面から顔だけ出した小柄な璃子は、急速な水の流れに押し流されそうになりながら、必死に瑠花の手を掴んでいた。

 水を飲み込んでしまっていたのだろう。

 浮き沈みを繰り返す彼女は時折激しく咳き込んでいた。

『もうちょっとだから!!』

 一体、何がもうちょっとなのか。それを考える余裕もなかった。

『お願い! 頑張って!! 離さないで!!』

 叫ぶ自分の口の中にも、苦い泥の味がしていた。

 轟音、濁流、水に乗って流れてくる瓦礫が、標識が、容赦なく体を打つ。

 窓枠に掴まっている瑠花はまだよかった。

 瑠花の手の先で身を晒していた璃子は、襲い来る流れにただ嬲られていた。

 凍てつくような水の中、窓枠にしがみついた腕の感覚は、どんどん失われていく。

 そして、璃子を掴んでいた指先も、流れの中で頼りなく温度を失っていった。

『璃子! 璃子! ダメだよ! 掴んで! 掴んでて!』

 自分が何を言っているか、分からなかった。

『瑠花、ねえ、瑠花』

 手の先で、璃子が声を上げた。

『ねえ瑠花、私、私ね……』

 笑顔だった、気がする。その顔ももう思い出せない。

『      』

 口の動きが、そう言って、手が――

「瑠花さん! 瑠花さん!」

 ザバッと水音がして瑠花の体は急激に浮上した。

「大丈夫ですか!?」

 自分を抱き上げているのが澪だと気付くのに、少し時間が要った。

 浴槽から引きずり出された瑠花は、タイルの上に座り込んで息を切らす澪をぼんやりと見ていた。

「まだ……いたんだ……」

「病人置いて帰れるわけないでしょ!!」

 いつも不機嫌そうな顔が、これまた泣きそうなほど不機嫌だ。

 ははっ、何のなのか、乾いた笑いが漏れる。

「大丈夫。いつものことだから」

「バカ! 溺れたら死んじゃうんですよ!? 看護師の癖にそんなことも知らないですか!?」

 言葉は、返せなかった。

 冷え切った体、髪から滴る水に一滴だけ、体温が宿って、落ちた。

「どう? 落ち着いた?」

 氷の入った麦茶のグラスが、カラリと音を立てる。

 濡れた髪をタオルで拭いた瑠花は、テーブル越しに向かい合った澪におずおずと声をかけた。

「んなわけないでしょ」

 濡れてしまった服の代わりに貸した部屋着は、澪には少し大きい。

 膝を抱えて不貞腐れている彼女に、瑠花は冷凍庫から取り出したチョコアイスを手渡す。

「ほら、食べな。暑いから」

 乱暴にもぎ取られるアイス。

 包装を雑に剥ぎ取った澪は、チョコレートでコーティングされた表面に食いついた。

「……美味しい?」

「ムカつくくらい」

「よかった」

 彼女が『ムカついて』いるのが自分に対してだというのは分かっている。

 だけど、瑠花は何も言わなかった。

 ラグの上に胡坐をかき、アイスを頬張る。

 エアコンの稼働音だけが支配する空間で、二人はただ黙ってアイスを平らげた。

 最後に残った木の棒を瑠花が歯で弄んでいた時、口を開いたのは澪だった。

「ねえ、何でいつも海にいるの?」

 いつか聞かれるだろうとは思っていた。

 だけど、瑠花はすらすらとは答えられなかった。

 澪は言葉を続ける。

「正直言うとね、私、別に海が見たくてあそこに言ってたんじゃ――」

「理由はあるよ」

 苦し紛れに遮った。

 説明できる算段が付いたわけではない。澪にこれ以上言わせたくなかったのだ。

「あ、のね……人魚。人魚に……会いたくて……」

 ひどいセリフだとは分かっている。

 瑠花は頭の中で必死に言葉を探す。

「ずっと……待ってて……」

「なにそれ。ふざけるのもいい加減にしてくれる?」

 澪の視線から逃れるように下を向く。

「嘘じゃないよ」

 金魚鉢の光が照り返す床に、かつての幻影が思い浮かんだ。

『お父ちゃんが言ってたんだけどさ、海で亡くなった人は人魚になって帰って来るんだって』

 人気のない屋上。

 弁当の蓋に乗せたおかずを瑠花に差し出した璃子は、唐突にそんな話をしだした。

 自分の脂の臭いとは違う、清潔な石鹸の香りが胸を満たしていた。

『うちの父ちゃん、漁師でしょ? 事故で船から落ちて溺れちゃう人ってやっぱりいるんだって。海で死んじゃった人は魂も海に残ったままで、それが人魚になるって言ってた』

 細い傷跡が残る手首はやけに鮮明に思い出せるのに、得意げに話す顔は、もうおぼろげだ。

『それってなんかロマンチックだよね』

「全然……ロマンチックな話じゃないよ」

 小さく震える手で、煙草に火をつける。

「その指輪、もしかして関係ある?」

 心臓に穴が開けられたような心持ちだった。

 水の中で、プチリと何かが弾ける感触。指先同士が離れていく感触――

『もし私が海に落ちて死んじゃったら、瑠花に会いに戻って来るからね。これ、目印につけてて。お揃いなんだよ? いひひ』

 差し出された、ビーズの指輪。キラキラと濁流に飲まれていった、ビーズの粒。

 背中に、汗が滲む。

「あまりいじめないでよ、澪ちゃん」

 煙と共に吐き出した言葉は、あまりに情けなかった。

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作者について

彩華 じゅん

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