月影残心 ―朧刃を継ぐ者―
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あらすじ
篠森真雪、十四歳。兄・蒼真が魔の襲撃で消息を絶った夜、彼が受け取ったのは、一振りの朧刃だった。 守られる側だった少年は、刀を抜くと決めた。兄の代わりではなく、自分自身として。 旅の先で待っていたのは、人ではないものを斬る痛み、死んだはずの兄との残酷な再会、そして許嫁である風香が、祈りを武器へと変えられていく絶望――。喪うたびに、真雪は問い続ける。願うことに、意味はあるのかと。 境界の果てで待つ魔王は言う。「願わなければ、傷つくこともない」と。 それでも真雪は、答えを選ぶ。記憶を失った許嫁の隣で、何度でも「初めまして」を重ねる道を。 これは、斬ることでは終わらせられない別れと、忘れられてもなお寄り添う愛を描く、和風ダークファンタジー全20話。
本文
第1話「月下、家は終わる」
鐘が鳴っている。
夜空が、赤い。
竹林の向こうで、何かが吠えている。
これは、まだ何も知らない一人の少年が、たった一夜で、家族と日常のすべてを失うことになる――その顛末である。
◇
月は、いつも同じ高さから同じ光で地上を照らしているだけなのに、なぜか人はその夜だけを特別に思い出す。後になって、真雪は何度もそう思うことになる。あの夜の月が、それまでの月と何か違っていたわけではない。ただ、あの夜を境に、月だけが変わらずそこにあり続けたということが、耐えがたく思えたのだ。
けれどそれはまだ、先の話である。
その日の朝、篠森家には、竹林を抜けてくる風の匂いがあった。
篠森家は、山間の小さな里の外れ、竹林に囲まれた古い屋敷に住んでいた。父はすでに亡く、母もまた遠い記憶の中にしかいない。それでも家の中に湿った悲しみだけが漂っていたわけではない。むしろ逆だった。誰も欠けたことを声高に語らない代わりに、誰もがその不在を当たり前のものとして、日々の中に静かに畳み込んでいた。悲しみは、隠されているのではなく、暮らしの奥に馴染んでしまっていた。
真雪は縁側で、兄の背中を眺めていた。
蒼真は庭に立ち、朝の稽古をしている。素振りの音は一定の間隔で空気を裂き、竹林のざわめきと重なって、まるでもう一つの呼吸のように聞こえた。蒼真の体は大きくはないが、無駄がない。刃を振るたび、朝陽が刀身の上を滑り、一瞬だけ白く光る。真雪はその光る瞬間が好きだった。何百回見ても飽きなかった。
「見てないで、真雪もやるか」
息一つ乱さず、蒼真が振り向かずに言う。真雪は慌てて首を振った。
「今日はいい。見てるだけでいい」
「そうか」
それだけだった。蒼真は追及しない。真雪もまた、本当は稽古をつけてほしいと思っていることを、口にはしなかった。二人の間には、そうした言葉にされない空白がいくつもあった。空白は不満ではなく、むしろ二人にとっては当たり前の距離だった。兄はいつも少し先にいて、真雪はいつもその後ろにいる。そういう位置関係が、二人の間には自然に出来上がっていた。
真雪は十四になる。蒼真は十九。五つの差は、子供にとっては途方もなく遠い。真雪が言葉を覚える前から、蒼真はすでに刀を持っていた。真雪にとって兄という存在は、いつも刀の向こうにあるものだった。
朝餉の支度をしていたのは澪だった。
澪は真雪の一つ下、十三になる妹で、この春から御巫としての修行を始めている。台所に立つ澪の姿は、まだどこかぎこちない。巫女装束の袖を襷でまとめ、竈の前にしゃがみ込んで火を見つめる横顔には、幼さと、それを隠そうとする真剣さが同居していた。
「真雪兄さん、火加減見てて。あたし、水汲んでくる」
「ん」
真雪は竈の前に座り込み、澪の代わりに火吹き竹を握った。澪は井戸のほうへ駆けていく。裸足の足音が土間から庭へ抜けていくのを、真雪は目で追った。
澪が御巫の修行を始めたのは、亡くなった母の血を継いでいるからだと聞かされている。真雪自身はその力をまるで持っていない。祈ることも、視ることもできない。ただの、刀も碌に握れない次男坊だった。竈の火を見ながら、真雪はふと、自分だけがこの家で何者にもなれていないような気がした。兄は侍として立っている。妹は御巫として立とうとしている。自分はどちらでもない。
その思いは、いつも通り、声にはしなかった。
朝餉の席には、もう一人加わる者がいた。
風香である。
風香は隣の社の巫女で、真雪の許嫁だった。今日も朝早くから篠森家を訪れ、居間の隅で静かに手を合わせていた。祈りの相手は、この家で亡くなった父であるらしかった。風香は誰に頼まれたわけでもないのに、月に何度もこの家を訪れては、仏間の小さな位牌の前で目を閉じる。
「風香さん、また来てくれたんですか」
真雪が声をかけると、風香は目を開けて、ゆっくりと微笑んだ。
「うん。お義父様に、ご挨拶をと思って」
風香の声は低く、静かで、聞く者の耳の奥にまで届くような響きを持っていた。真雪はその声を聞くたび、なぜだか少しだけ落ち着かない気持ちになる。それが何の感情なのか、真雪自身にもまだよくわかっていなかった。
「蒼真さんは」
「庭。稽古、まだ終わらないんじゃないかな」
「そう」
風香はそう言って、また目を伏せた。祈る姿には迷いがなく、まるで長い年月をかけて研がれた所作のように美しかった。真雪はその横顔を見ながら、この人が、いずれ自分の妻になる人なのだということを、あらためて意識した。十四の真雪にとって、許嫁という言葉は、まだどこか遠い、大人たちが決めた約束事のように感じられた。実感は湧かない。それでも、風香の横顔を見ていると、胸の奥が、落ち着かなく騒いだ。この気持ちに、真雪はまだ、名前をつけられずにいた。
朝餉が済むと、蒼真は旅支度を始めた。
今日、蒼真は里を発つ。北の外れで魔の目撃が続いており、藩から侍が派遣されることになったのだ。任は短ければ十日、長引けば一月にも及ぶという。篠森家にとって、蒼真が里を離れるのは初めてのことではなかったが、今回は様子が違った。父が亡くなってから、蒼真は事実上、この家の柱であり続けている。その柱がしばらく留守にするというのは、家族全員にとって、ただの外出以上の意味を持っていた。
「留守の間、頼んだぞ」
蒼真は荷を背負いながら、真雪にそう言った。真雪は頷いた。
「わかってる。任せて」
「澪の面倒も」
「わかってるって」
軽く笑って答えたつもりだったが、声はほんの少し硬かった。
蒼真はそれに気づいたのかどうか、何も言わずに真雪の頭に手を置いた。ごく短く、乱暴に髪を撫でるようなその仕草は、蒼真が幼い頃からしてきたものだった。真雪はいつもその手を鬱陶しく思うふりをしながら、本当はその重みが好きだった。今日もまた、そのふりをした。
「うるさい、子供扱いするな」
「まだ子供だろ」
蒼真は笑った。珍しく、声を出して笑った。真雪はその笑顔を、後になって何度も思い出すことになる。
澪は玄関先で兄を見送った。
「兄さん、気をつけて」
「ああ」
澪の声には、僅かな不安が滲んでいた。御巫としての勘なのか、単なる妹としての心配なのか、澪自身にもわからなかっただろう。蒼真はそんな妹の頭には手を置かず、ただ小さく頷いてみせただけだった。澪にはそういう距離の置き方をする。真雪への態度とは、また違う種類の優しさだった。
風香もまた、門のところまで蒼真を見送りに出た。
「道中、お気をつけて」
それだけの、簡潔な言葉だった。蒼真は小さく頷き、それ以上多くを語らずに、背を向けて歩き出した。戻ってきた風香の顔は、いつもより少しだけ白く見えた。
「行っちゃったね」
風香がぽつりと言った。真雪は、その隣に並んで頷いた。
「兄さん、大丈夫かな」
「大丈夫だよ。蒼真さんは、強いから」
風香の声には、これから家族になる者を見送る、素直な気遣いがあった。真雪はその横に立って、同じ方角――兄が去っていった道の先を見つめることしかできなかった。
その日は、それからも変わらない一日だった。
澪は畑の手伝いをし、真雪は薪を割った。風香は昼過ぎまで残って、澪に何か祈りの型を教えていた様子だった。夕方には、風香もまた社へと帰っていった。
「じゃあ、また明日」
「うん、また」
いつもと同じ挨拶。いつもと同じ別れ。特別なことは何もなかった。
夜。
真雪は自室で、行灯の灯りの下、蒼真が置いていった稽古用の木刀を眺めていた。子供の頃から何度も握ってきたはずのそれが、今夜はやけに重く感じられた。理由はわからない。ただ、胸の奥に、名前のつけられない不安が小さく灯っているのを感じていた。
澪が隣室で眠っているのが、薄い壁越しに気配としてわかった。規則正しい寝息。安心する音だった。
真雪は行灯を消し、布団に入った。
竹林を抜ける風の音が、いつもより少しだけ強く聞こえた気がした。
それが、始まりの合図だったのかもしれない。
異変は、丑三つ時に訪れた。
最初に気づいたのは、遠くから響く鐘の音だった。里の見張り台に据えられた警鐘――魔の襲来を告げる音だ。真雪は跳ね起きた。心臓が痛いほど鳴っていた。
「真雪兄さん!」
澪の声が隣室から響いた。真雪はほとんど考える間もなく襖を開け、澪の手を掴んだ。
「大丈夫だ。落ち着け」
自分に言い聞かせるような言葉だった。声は震えていなかったが、それは強がりに過ぎなかった。
屋敷の外は、すでに騒然としていた。里の者たちが叫び声を上げながら走り、遠くの空はどこか赤く滲んでいるように見えた。火の色だと、真雪はすぐに悟った。
庭に飛び出すと、闇の向こうから異形の気配が近づいてくるのがわかった。魔――人の理から外れた者たちが放つ、あの独特の臭気と圧力。真雪はこれまで、魔と直接対峙したことがなかった。話に聞いていた通り、それは人の形を保ちながら、決定的に人ではない何かだった。
その時、屋敷の門を蹴破るようにして、一人の男が飛び込んできた。
「蒼真様は?」
里の警護に当たっていた若い侍だった。真雪はその問いに答えられなかった。蒼真は今朝、里を発ったばかりだ。ここにはいない。
「兄は――今朝、任務で発ちました」
「なんてことだ」
男は舌打ちし、すぐに剣を構え直した。
「篠森様、お二人は屋敷の奥へ。ここは我らが」
しかし、その言葉が終わるより早く、闇の中から黒い影が躍り出た。
真雪はほとんど反射的に澪を突き飛ばし、自らも地面に転がった。爪のようなものが空を裂き、先ほどまで澪が立っていた場所を抉る。土が舞い、生々しい獣の臭いが鼻を突いた。
「澪、下がれ!」
「兄さん!」
澪の叫び声が耳に刺さる。真雪は震える手で、蒼真が置いていった木刀を握りしめていた。だがそれは稽古用のもの、刃はない。目の前の異形に対して、何の力も持たないことは明白だった。
若い侍が魔の前に立ちはだかり、斬りかかる。剣戟の音、獣の咆哮、悲鳴。真雪はただ澪を庇うことしかできず、無力感が体の芯を焼いた。
「真雪、こっちへ!」
屋敷の奥から、老いた家人の声がした。真雪は澪の手を引き、声のするほうへと走った。
その間にも、屋敷のあちこちで火の手が上がり始めていた。魔の吐く息が、あるいは倒れた燭台の火が、乾いた木材に燃え移っていく。真雪は生まれ育った家が、赤く染まっていく様を、ただ見ているしかなかった。
「兄さんは、兄さんはどこ」
澪が涙声で繰り返す。真雪にも答えられなかった。里を発ってすぐの蒼真が、この惨状を知る術はない。今夜、この家を守るべき者は、ここにはいなかった。
その事実が、真雪の胸に鋭く突き刺さった。
守られる側であること。
これまで真雪は、それを当たり前のように受け入れてきた。兄が守り、自分は守られる。それが篠森家における自分の役割だと、疑ったこともなかった。だが今、燃え上がる家の中で、真雪はその当たり前がどれほど脆いものであったかを、初めて思い知らされていた。
屋敷の裏手、竹林へと続く小道まで、老家人に導かれるようにして真雪と澪は逃げた。振り返れば、生家は炎に包まれ、夜空を焦がすほどの光を放っていた。あれほど静かだった庭も、蒼真が素振りをしていた縁側も、風香が祈りを捧げていた仏間も、すべてが炎の中に飲まれていく。
「兄さん……」
澪が崩れるように座り込んだ。真雪はその肩を抱いたが、自分自身も、立っているのがやっとだった。
やがて、討伐の報せを受けた藩の兵たちが到着した頃には、篠森家はほとんど焼け落ちていた。焦げた柱と、崩れた屋根。かつて家族が笑い合っていた場所は、ただの黒い残骸に変わり果てていた。
里の者たちが、屋敷の焼け跡から遺品を運び出す作業を始めた。真雪は放心したまま、その様子を眺めていた。何かを考える気力すら残っていなかった。
そんな中、一人の年老いた家人が、真雪の前に膝をついた。
「若様。これを」
差し出されたのは、一振りの刀だった。鞘は煤で黒く汚れていたが、それでも尋常でない気配を纏っていた。
「これは……」
「先代様が、蒼真様に、いずれはと仰っていた刀にございます。月詠流に伝わる一振り、朧刃と」
真雪は震える手でそれを受け取った。重い。木刀とは比べ物にならない、確かな重みだった。
「兄さんの、刀……」
「蒼真様のご無事が確認できるまでは、若様がお預かりください」
その言葉に、真雪はようやく気づいた。蒼真の姿が、どこにもないことに。
「兄さんは……」
「討伐に出た兵たちが、蒼真様のお姿を、どこにも見ておりません」
その報告が、家人の口から告げられた瞬間、真雪の中で何かが冷たく凍りついた。
「そんな……今朝、発ったばかりで……北の任地に、着いてすらいないはずだ」
「それが……途中の山道で、争った形跡があったと」
真雪は言葉を失った。澪もまた、真雪の腕の中で、声もなく震えていた。
何も、確かなことはわからない。ただ、家は燃え、父はすでになく、そして今、兄の行方も知れない。夜が明けても、その事実は変わらないだろう。
真雪は朧刃を胸に抱いたまま、焼け跡に立ち尽くした。夜風が竹林を揺らし、乾いた葉音が悲しいほど静かに響いていた。空を見上げると、雲一つない夜に、月だけが変わらず輝いていた。
あの月は、今夜のことなど何も知らないだろう。家が燃えたことも、兄が消えたことも、澪が声もなく泣いていることも。ただ、いつも通りの高さから、いつも通りの光を注いでいるだけだ。
その変わらなさが、真雪には何よりも残酷に思えた。
守られていた日々は、もう戻らない。
真雪は朧刃の柄を、痛いほど強く握りしめた。
月だけが、そこに残っていた。