月影残心 ―朧刃を継ぐ者―
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
篠森真雪、十四歳。兄・蒼真が魔の襲撃で消息を絶った夜、彼が受け取ったのは、一振りの朧刃だった。 守られる側だった少年は、刀を抜くと決めた。兄の代わりではなく、自分自身として。 旅の先で待っていたのは、人ではないものを斬る痛み、死んだはずの兄との残酷な再会、そして許嫁である風香が、祈りを武器へと変えられていく絶望――。喪うたびに、真雪は問い続ける。願うことに、意味はあるのかと。 境界の果てで待つ魔王は言う。「願わなければ、傷つくこともない」と。 それでも真雪は、答えを選ぶ。記憶を失った許嫁の隣で、何度でも「初めまして」を重ねる道を。 これは、斬ることでは終わらせられない別れと、忘れられてもなお寄り添う愛を描く、和風ダークファンタジー全20話。
本文
第2話「残された刀」
骨のない葬儀ほど、始末に困るものはない。
棺の中には、骨も、亡骸も、何一つなかった。
真雪はその日、初めてそのことを知った。
篠森家が焼け落ちてから七日が過ぎていた。里の者たちの手を借り、家族は一時的に、社の裏手にある離れに身を寄せていた。もとは物置として使われていた小さな建物だが、澪が丁寧に掃き清め、風香が古い経机を運び込んだことで、どうにか人が暮らせる形になっていた。
七日という時間は、悲しみを癒すには短すぎ、しかし現実を受け入れさせるには十分な長さだった。
藩からの使いが来たのは、五日目のことだった。北の山道で発見されたのは、蒼真のものと思われる打刀の欠片と、争いの跡だけだった。遺体は見つからなかった。それでも藩は、状況から見て生存の見込みは薄いと判断し、蒼真を死亡として扱うと決めた。
「死亡として扱う、か」
その報せを聞いたとき、真雪の口からこぼれたのは、そんな乾いた呟きだった。死んだと決まったわけではない。しかし生きていると決まったわけでもない。宙ぶらりんのまま、篠森蒼真という名前だけが、過去のものとして処理されようとしていた。
葬儀は、里の小さな寺で執り行われることになった。
棺の中には、遺体の代わりに、蒼真が幼い頃から使っていた木刀と、形見となった打刀の欠片が納められた。読経の声が響く本堂の中、真雪は喪服に身を包み、末席近くに座っていた。本来ならば喪主として最も前に座るべき立場だったが、そのことにすら実感が伴わなかった。
隣には澪がいた。白い喪装束に身を包んだ澪は、いつもより幼く見えた。俯いた顔には、涙の跡が幾筋も乾いていた。泣くだけ泣いた後の、静かな疲労が、その横顔に滲んでいた。
風香は、少し離れた場所に座っていた。真雪の許嫁という立場でありながら、まだ正式に篠森の家に入ったわけではない彼女は、身内の列には加われない。それが決まりだった。それでも、いずれ義兄となるはずだった蒼真の死を悼む気持ちに、変わりはなかった。真雪はちらりとその横顔を見た。風香は微動だにせず、経机の向こうの位牌を見つめていた。その目には涙の色はなく、ただ深い井戸のような静けさだけがあった。
読経が終わり、参列者たちが焼香を済ませていく。
真雪の番が来たとき、指先が震えた。香を摘み、額に押し頂き、香炉へ落とす。ただそれだけの所作が、ひどく重く感じられた。線香の煙が真っ直ぐに立ち上り、やがて緩やかに揺らいで、天井へと消えていく。真雪はその煙の行方を、いつまでも目で追っていた。
葬儀の後、寺の境内で、里の年寄りたちが口々に言葉をかけてきた。
「蒼真殿も、さぞ無念であられたろう」 「篠森家も、これで終いか」 「いや、まだ真雪殿がおられる」
その最後の言葉が、真雪の耳の奥に残った。
――まだ真雪がいる。
それはつまり、篠森という家は、自分がいる限りは終わらない、という意味だった。同時に、蒼真の代わりが務まらなければ、この家は本当に終わってしまう、という意味でもあった。
真雪はその夜、離れの片隅で、蒼真の使っていた稽古着を広げていた。焼け跡から辛うじて運び出された、数少ない品の一つだった。袖を通してみる。丈も肩幅も、まだ真雪には大きすぎた。それでも真雪は、その稽古着を脱がなかった。
翌朝から、真雪は変わった。
まず、朝の稽古を始めた。蒼真がそうしていたように、日の出とともに庭――といっても離れのささやかな空き地だが――に立ち、木刀を振った。型はまだおぼつかず、動きはぎこちなかったが、真雪は毎日それを続けた。
言葉遣いも変えた。以前より低く、短く。里の者たちへの挨拶も、蒼真がそうしていたように、簡潔で無駄のないものにした。
「兄さんみたいな喋り方、しなくていいのに」
澪がそう言ったのは、葬儀から十日ほどが過ぎた頃だった。井戸端で洗濯をしていた澪が、通りかかった真雪の背中に向けて放った言葉だった。
真雪は足を止めた。
「別に、真似てるわけじゃない」
「してるよ。歩き方まで似てきてる」
澪の声には、責めるような響きはなかった。ただ、少し困ったような、寂しいような色があった。真雪はそれ以上何も言い返せず、そのまま立ち去ろうとした。
「真雪兄さん」
呼び止められて、振り返る。澪は洗濯物を絞る手を止め、まっすぐにこちらを見ていた。
「あたし、侍にはならない」
唐突な宣言だった。真雪は眉を寄せた。
「誰もお前に、侍になれなんて言ってない」
「わかってる。でも、言っておきたかった」
澪は洗濯物を盥に戻し、立ち上がった。前掛けで手を拭いながら、澪は続けた。
「兄さんが……蒼真兄さんが、いなくなって。真雪兄さんが、代わりに刀を持とうとしてる。それは、真雪兄さんが決めたことだから、あたしは何も言わない。でも、あたしまで同じようにする必要はないと思う」
「そんなこと」
「あたしは、御巫になる。それは前から決めてたことだし、蒼真兄さんがいなくなったから急に決めたことじゃない。だから――真雪兄さんも、蒼真兄さんの代わりになろうとしなくていいんじゃないかな」
澪の言葉は、静かだったが、鋭く真雪の胸を突いた。
代わりになろうとしなくていい。
それは、優しさから出た言葉だった。しかし真雪には、その優しさを素直に受け取ることができなかった。代わりにならなければ、この家は本当に終わってしまう。真雪はそう思い込んでいた。いや、思い込むことでしか、目の前の喪失に耐えられなかったのかもしれない。
「……お前は、それでいいかもしれない。でも、俺は」
言葉に詰まった。俺は何なのか。俺は何になろうとしているのか。真雪自身にも、それがうまく言葉にならなかった。
「俺は、何かにならなきゃいけない」
結局、そう絞り出すのが精一杯だった。澪は何か言いかけて、やめた。その代わりに、小さく息を吐いて、盥を持ち上げた。
「わかった。でも、無理はしないで」
それだけ言うと、澪は井戸端を離れていった。真雪はその後ろ姿を、しばらく見送っていた。
夕刻、風香が離れを訪ねてきた。
このところ、風香は以前にも増して頻繁にこの家を訪れるようになっていた。誰に頼まれたわけでもなく、掃除を手伝ったり、澪に祈りの作法を教えたりしている。真雪はその理由を、深く考えないようにしていた。考えれば、風香の中にある喪失の重さに、触れてしまう気がしたからだ。
「真雪くん、少しいい?」
珍しく、風香のほうから声をかけてきた。真雪は縁側に腰を下ろしていた手を止め、頷いた。
風香は懐から、小さな守り袋を取り出した。手のひらに収まるほどの、古びた布の袋だった。
「これ、うちの社に伝わる祈りが込められたもの。蒼真さんに、渡そうと思ってたの」
「お守り、なんですか」
「うん。うちの社では、昔から伝えられてる言い伝えがあって……境界の奥深くに、魔王って呼ばれるものが眠ってるんだって。これは、その魔に呑まれないようにって、祈りを込めたもの」
真雪はその守り袋を見つめた。渡そうと思っていた、という過去形の言葉が、静かに胸に沈んだ。
「……兄さんに」
「うん。旅立つ前に渡すつもりだったんだけど、間に合わなくて」
風香の声には、悔いの色が滲んでいた。それでも彼女は、それ以上その話を深めようとはしなかった。かわりに、守り袋を真雪の手に載せた。
「真雪くんが、持っていて」
「え」
「蒼真さんに渡すはずだったものだけど……今は、真雪くんに」
真雪は戸惑った。
「俺は、蒼真兄さんじゃない」
思わず、そんな言葉が口をついて出た。風香の申し出を、まるで拒むような響きだった。しかし風香は、そのことに気を悪くする様子もなく、ただ静かに首を振った。
「知ってる。真雪くんは、真雪くんだよ」
その一言が、思いがけないほど深く、真雪の胸に落ちた。
「これは、蒼真さんの代わりに持っていてほしいわけじゃないの。真雪くんが、これから歩いていく道の中で、必要になる時が来ると思う。そのときのためのもの」
真雪は守り袋を、両手で包むように握った。布はかさついていて、中には小さな石のようなものが入っている感触があった。
「風香さんは……これから、どうするんですか」
問いかけながら、真雪はその質問が、自分でも意図しない重さを持ってしまったことに気づいた。風香はしばらく黙っていた。
竹林の向こうで、鳥が一声鳴いた。
「わからない。でも、祈ることだけは、やめないと思う」
それだけ答えて、風香は微笑んだ。悲しみを押し殺した笑みではなく、どこか覚悟を決めたような、静かな笑みだった。
その夜、真雪は一人、離れの奥の間で、あの日受け取った刀――朧刃を見つめていた。
鞘に納まったままのそれは、鈍い黒光りを放っていた。焼け跡の熱を浴びたはずなのに、刃自体には焦げ跡一つない。まるで、あの夜の炎さえも受け付けなかったかのようだった。
真雪はその刀を、これまで一度も抜いたことがなかった。抜くことが怖かった、というのが正直なところだった。抜いてしまえば、後戻りできない気がしていた。侍になる、という決意を、その瞬間に確定させてしまう気がしていた。
だが今夜、真雪の中で何かが変わっていた。
澪の言葉。継ぐことと真似ることは違う、という指摘。風香の言葉。真雪くんは、真雪くんだ、という肯定。その二つの言葉が、真雪の中でぶつかり合い、そしてゆっくりと、一つの形を作り始めていた。
――兄の真似をするのではない。兄の代わりになるのでもない。
ならば、自分は何のために、この刀を持つのか。
真雪は柄に手をかけた。指先が冷たい金属の感触を捉える。ゆっくりと、鞘から刃を引き抜いていく。
その瞬間、行灯の灯りが刃の上を滑り、部屋の中に淡い光の筋を走らせた。刃紋は、月の光を溶かし込んだような、朧げな模様を描いていた。朧刃という名の由来を、真雪はその時、初めて実感として理解した。
刃を抜き切ると、部屋の空気が、わずかに変わった気がした。重さは想像していたよりも軽く、しかしその軽さの奥に、途方もない何かが眠っているような気配があった。
真雪はその刃を、行灯の光にかざした。
自分の顔が、鈍く歪んで映り込んでいる。兄の顔ではない。父の顔でもない。ただ、真雪自身の、まだ何者でもない顔だった。
「俺は」
誰に言うでもなく、真雪はそう呟いた。
「兄さんの代わりにはならない。兄さんの真似もしない」
言葉にしてみると、それは驚くほど単純な結論だった。しかし、その単純さに辿り着くまでに、七日と、いくつもの沈黙と、いくつもの選ばれなかった言葉が必要だった。
「俺は、俺として――侍になる」
刃を鞘に納める。かちり、という小さな音が、静かな部屋に響いた。その音は、真雪にとって、何かの始まりを告げる音のように聞こえた。
窓の外には、あの夜と同じ月が浮かんでいた。変わらない月。だが、それを見上げる真雪の目は、七日前とは違うものになっていた。
守るべきものを、守れなかった夜があった。
その先で、真雪は、守る者になろうとしていた。
誰かの真似としてではなく。
自分自身の意志として。
朧刃は、その決意を受け止めるように、静かに鞘の中で光を潜めていた。