思念航路――副操縦士(四)
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
長編 連作
本文
第4話 最初の飛行
検査センターを出た純は、そのまま流されるように空港へ連れて行かれた。
「ちょっと待ってください。まだ今日ですよ?さっき検査したばかりで」
「善は急げだ」
「急ぎすぎでしょう」
男は答えず、涼しい顔で歩き続けている。純は結果用紙を握りしめたまま、必死にその背中を追いかけた。空港に近づくにつれ、離着陸する機体の音――正確には、音のない機体の気配――が増えていく。
到着したのは、民間機の格納庫が並ぶ一角だった。案内された機体は、外観だけを見れば純にとって見慣れた中型旅客機とほとんど変わらない。だが、機体下部を見ると、エンジンナセルがあるべき場所に、それらしきものが見当たらなかった。
「これに、乗るんですか」
「そうだ」
「エンジン、ないですよね」
「ないな」
「本当にないですよね」
「三回聞いても答えは同じだ」
純は乾いた笑いを漏らすしかなかった。タラップを上がり、コックピットに足を踏み入れる。計器盤の配置は驚くほど純の知る機体に近い。速度計、高度計、姿勢指示器――形式こそ違うが、読み取れないほどではなかった。
「あの、操縦桿は、どう使うんですか」
「補助だ。機体の姿勢を微調整するのには使う。だが、飛ばす力そのものは、それとは別だ」
「別って」
「おまえの意思そのものだ。強く思えば、機体はそれに応える」
純はしばらく固まっていた。実感が湧かない。ついさっきまで、自分は特級だの規格外だのと言われて浮かれかけていた。だが、実際にこの手で、何十トンもの機体を空に持ち上げるとなると、話はまるで違う。
「あの、教官とか、いないんですか」
「俺がいる」
「あなた、教官なんですか」
「そうだ」
「さっきまで一言も言ってなかったですよね」
「聞かれなかったからな」
純は今度こそ、額に手を当ててため息をついた。
---
管制からの許可が下りると、機体はゆっくりと滑走路へ移動を始めた。牽引車もエンジンも使わず、ただ機体自体が、静かに、しかし確実に前進していく。
「今、誰が動かしてるんですか」
「俺だ。まだおまえには早い」
「そこは早めに教えてくださいよ」
「教える前に、まず見て覚えろ」
滑走路の端で機体が停止する。管制からの離陸許可がヘッドセット越しに響いた。男が純の方を見る。
「さて。ここからはおまえの番だ」
「え」
「『飛べ』と思え。それだけだ」
「それだけって言われても、検査室と勝手が違うでしょう。今度は本物の飛行機ですよ」
「本物だから、練習する意味がある」
反論の余地がなかった。純は大きく息を吸い込み、意識を機体全体へと広げるように集中させた。
――飛べ。
何も起きない。当然だ、と純は思う。機体はぴくりとも動かなかった。
「もっと強く」
「強く念じてるつもりなんですけど」
「つもりじゃ、機体は浮かない」
純はもう一度、意識を静かに研ぎ澄ます。今度は、離陸の瞬間の感覚を思い出そうとした。エンジンの推力、機体が滑走路を蹴る振動、速度計の針が上がっていく緊張感――その記憶のすべてを、意識の中で束ねていく。
――飛べ!
機体が、わずかに震えた。
「来た」男が短く呟く。「もっとだ」
純は意識を、さらに一点に絞り込む。頭の奥が熱くなるような感覚とともに、機体がゆっくりと滑走路を走り出した。速度が上がっていく。窓の外の景色が、後方へ流れ始める。
「機首、上げるイメージだ。上がれ、と思え」
「上がれ」
呟いた瞬間、機体がふわりと浮いた。
タイヤが滑走路を離れる感触が、確かに伝わってくる。純は思わず目を見開いた。窓の外に、みるみる地上が遠ざかっていく。
「……飛んだ」
「当たり前だろう」
隣で男が笑う。純はしばらく、言葉を失ったまま、その光景に見入っていた。エンジンもなく、燃料もなく、ただ自分の意思だけで、何十トンもの金属の塊が空を進んでいる。
現実感が追いつかないまま、純の口元が自然とほころんでいく。
「面白い」
思わず漏れた呟きに、男が片方の眉を上げた。
「今、何て言った」
「いえ……この世界、面白いなと思って」
「そうか」
男はそれ以上追及せず、窓の外に視線を戻した。純はもう一度、意識を静かに機体へと向ける。まだ実感は湧かない。だが、確かに自分は今、空を飛んでいた。
高度が上がるにつれ、雲の切れ間から、見知らぬ都市の全景が見えてくる。道路を走る車、線路を走る列車、港を出ていく船――そのすべてが、人間の「こうしたい」という意思だけで動いている世界。
純は、その光景を目に焼き付けながら、ふと思う。
――自分の世界にも、こういう力があったら、どうなっていたのだろう。
その疑問の答えを、純はまだ知らない。だがこの日を境に、純の中で何かが確実に変わり始めていた。
「よし。今日はここまでだ」
男の声で、純は我に返る。
「え、もう終わりですか」
「初日にしちゃ上出来だ。これ以上は、身体が持たない」
「なんか、もっと飛べる気がするんですけど」
「その『気がする』が一番危ない。慢心した特級ほど、早死にする」
穏やかな声色とは裏腹に、その言葉には、これまでにない重みがあった。純は思わず口をつぐむ。
機体はゆっくりと高度を落とし、来た道を戻り始めた。純はまだ、意識のどこかで、機体との繋がりから完全には離れきれずにいた。
窓の外に広がる、知らない世界の空。
その空の下に、これからどんな日々が待っているのか、純にはまだ、まったく見当がつかなかった。
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