第5話 紅茶を飲みながら、断罪の台本を仕上げる
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あらすじ
加害者と被害者を演じる悪役令嬢とヒロインの正体は、手切れ金を狙う対等な共犯者だった。バカ王子への静かな復讐と平穏を賭けたコンゲーム、開幕。
本文
旧校舎三階、旧算術教室。
黒板の隅には、まだ前年度の因数分解の消し残りがある。窓の外はもう暗く、月明かりだけが埃を被った教壇をぼんやり照らしていた。
「――カモミールとレモングラス、半々でよかった?」
マリアが茶葉の包みを机に置きながら言う。伊達眼鏡は外したままだった。ここでは二人とも、素の顔をしている。
「悪くない配分ね。レモングラスが強すぎると、渋みだけが残る」
エレノアが小さな鍋に湯を沸かし、茶漉しへ茶葉を移していく。手つきに迷いがない。もう何度目かの、慣れた作業だった。
湯を注ぐと、教室に爽やかな香りが広がる。二人分のカップ――片方は欠けた古いカップ、もう片方は借り物の上等な茶器――が、教卓の上に並んだ。
「殿下まで、あと十日」
マリアがつぶやく。
「十日。……長いようで、短いわね」
カップの中で紅茶の色が揺れる。しばらく、二人はそれを黙って見ていた。
「――さて」
エレノアが先にカップを置いた。
「劇団の初稽古と思って、始めましょう」
「まずは、通しで一度」
エレノアが台本の束を机に広げる。マリアはその向かいに立ち、深く息を吸った。次の瞬間、肩が落ち、目に涙の膜が張る。
「殿下……わたし、皆さんに迷惑をおかけするわけには……」
震える声。両手を胸の前で握り、視線を斜め下に落とす。
「――止め」
エレノアの声が、演技を切った。
「もっと右目から涙を。左目は乾いたままでいい」
「……両目からじゃ駄目なの?」
「駄目よ。両目から零れたら、ただ泣いているだけの女に見える。片目だけなら、涙を堪えて堪えきれなかった女に見える。殿下はそちらの方が好むわ」
マリアは片目だけ薄く潤ませる練習をした。まばたきを一つ、二つ。
「――そう。それでいい。それと、次の台詞の前に半拍溜めなさい。殿下の自尊心をくすぐる間を作るの」
「半拍って、具体的にどのくらい」
「殿下が『大丈夫か』と聞きたくなる寸前まで」
「感覚でしか説明できないやつじゃん、それ」
「感覚で摘み取るのが、あなたの仕事でしょう」
マリアは唸りながらも、間を置く練習を繰り返した。四度目にようやく、エレノアが小さく頷く。
「――それ。今の間、殿下は絶対に食いつくわ」
「よし」
マリアが小さくガッツポーズをする。その顔には、演技への手応えとは別の、職人的な満足が浮かんでいた。
「――次、演出役と実演役を交代しましょう」
エレノアが席を立ち、教室の中央に立った。
「わたくしが加害者役を演じてみせるわ。あなたは、演出をつけて」
配役そのものは変わらない。悪辣な婚約者はエレノア、健気な被害者はマリア。今日入れ替わるのは、台本の外から目を光らせる者の立場だけだった。
マリアは眼鏡をかけないまま、腕を組んで見物の体勢に入る。
エレノアが振り返る。表情が、いつもの令嬢の微笑から、もう一段冷たい何かへ変わった。
「あら、マリアさん。そんな怪我、自分でつけたのではなくて?」
声は低く、ゆっくりと、けれど鞭のような硬さを持っていた。
マリアは腕を組んだまま、唇の端だけを上げた。
「――いいね。もう一段、トーン上げた方が殿下は喜ぶよ」
「これ以上?」
「殿下って、悪役が分かりやすいほど自分がヒーローだって実感できる人でしょ。もっと、嘲るみたいに」
エレノアは少し考え、もう一度口を開いた。
「あら、マリアさん。そんな怪我、自分でつけたのではなくて? ――同情を引くための、安い演出」
最後の一言に、明確な嘲笑を乗せる。
マリアが手を叩いた。
「それ。それだ」
「……悪辣に振る舞うの、思ったより疲れるわね」
エレノアが肩を落とし、素の吐息をついた。
「向いてないわけじゃないと思うけど」
「褒めているの、それ」
「褒めてる。すごく」
ダメ出しの応酬は、それからも続いた。エレノアが台詞の抑揚を直せば、マリアが間合いを直す。互角のまま、噛み合うたびに台詞の精度が一段ずつ上がっていく。
「――そこ、殿下が『僕が守るから』って言う直前。マリア、もう半歩、殿下から遠ざかって」
「なんで」
「距離を詰められたくなさそうに見せかけて、実際には殿下の庇護欲を煽っている。逃げる小動物ほど、追いたくなるものよ」
「うわ、性格悪い演出」
「褒め言葉として受け取っておくわ」
やり取りのテンポが速くなるにつれ、二人の口調も次第に崩れていった。
「――ねえ、それであたし、次どこに立てばいいの」
マリアが言った瞬間、エレノアが即座に返す。
「そこの窓際。逆光になる位置。輪郭だけ光って、表情が――」
言いかけて、エレノアの動きが止まった。
マリアも、同じタイミングで固まっていた。
教室に、しん、と静寂が落ちる。
「――今、あたし、『あたし』って言った」
マリアが呟く。
「わたくしも、敬語を挟むのを忘れていたわ」
二人は、しばらく無言で見つめ合った。
やがて、どちらからともなく、小さく噴き出した。
「稽古のしすぎで、素が抜けなくなってる」
「本番でこれをやったら、殿下は普通に困惑するでしょうね」
「一瞬でバレる」
「――仕切り直しましょう」
エレノアが咳払いをし、貴族的な微笑を顔に戻す。マリアも眼鏡をかけ直し、健気な表情を作り直した。
数秒後、二人はまた台本の中へ戻っていった。
ひと通りの稽古が落ち着くと、エレノアは懐から羊皮紙を二枚取り出し、教卓に広げた。
「――ここからは、台詞ではなく、文言の話よ」
マリアがカップを置き、身を寄せる。
「婚約解消金、十二万枚。被害者保護契約の支援金、八万枚。合計二十万――経費一万を引いて、十九万」
「そこは、もう何度も確認したやつ」
「確認は、多いほどいいの」
エレノアは羊皮紙の隅を指でなぞった。
「支払期限は、契約印が押されてから三十日以内。違約金条項は、期日を過ぎた場合、未払い分に対して本来支払額の二割が上乗せされる。……そして、一度契約印が押されれば、殿下側が撤回や再交渉を求めることは一切できない」
マリアの目つきが、すっと鋭くなった。素の顔だった。
「支払方法は?」
「銀行送金よ。国境を越えても、記録は残る」
「それ、殿下側の会計、まともに読んだら真っ青になる条件だよ」
「読まなければ、真っ青になる暇もないわ」
「そこが怖いんだよなあ、これ」
マリアは苦笑しながら、羊皮紙の端を軽く叩いた。
「――逃げた後も、こっちは受け取れる、ってことよね」
「そういう作りにしておいたわ」
マリアは小さく息を吐き、椅子の背にもたれた。
「……怖い人」
「褒め言葉として受け取っておくわ」
「――問題は、殿下に読ませずに署名させる方法」
エレノアが言うと、マリアは腕を組んで考え込んだ。
「殿下の性格、分かってるでしょ。人前で恥かくの、一番嫌う」
「ええ。だから、まず、夜会の観衆の前で迫るわ」
「大勢の前で、逃げ場をなくす、と」
「そう。次に、殿下自身に、婚約破棄とマリアの保護を宣言させる。殿下は、いつも自分がヒーローでいたいだけの人だから」
マリアが頷く。
「あたしが泣いて、殿下が『僕が守る』って言い出すよう誘導する」
「その通り。そこまでは、これまでの稽古の延長よ」
「で、最後」
マリアが少し身を乗り出した。
「殿下が、契約書、読もうとしたら?」
エレノアの口角が、片方だけ上がった。貴族的な微笑とは違う、もっと危うい笑みだった。
「――『まあ、お読みになれませんの?』」
一言。それだけで、教室の空気が止まった。
マリアはその台詞をゆっくりと反芻するように黙った。
「……それ、殿下、絶対キレるか、絶対見栄張るかのどっちかだよ」
「見栄を張るほうに、賭けているの」
「殿下の見栄、そんなに信用できる?」
「信用しているわけではないわ。殿下という人間の、一貫性を信用しているの」
マリアは、しばらくその台詞を、口の中で繰り返すように呟いた。
「――まあ、お読みになれませんの、って。……いい。あたし、それ聞いたら、絶対笑いそうになる」
「本番で笑ったら、台無しよ」
「分かってる。でも、絶対おかしい。あの人が『読めない』側になるの、想像すると――」
言いながら、マリアはもう笑いをこらえていた。エレノアも、口元を押さえながら、目だけで笑っていた。
「それ、一言一句、本番でもそのまま使うわよ」
「うん。異議なし」
「勝手に『愚かな殿下』とか足さないでね」
「足す価値もないわ」
「――証拠のことも、詰めましょう」
笑いが収まったところで、エレノアが話を戻した。
マリアが鞄から、古い型抜きと、丸めたコンテスト名簿の写しを取り出す。
「型抜きと、コンテスト名簿の写し。それから、転倒演技の目撃証言」
「三つとも、風紀記録に残す」
「残すって、具体的にどうやって」
「風紀委員に、それぞれ別の日、別のきっかけで『拾得物です』『気になったので』と提出する。まとめて出せば、作為が透けるもの」
マリアは頷いた。
「時間差、大事ってことね」
「そう。夜会の日には、既にすべて記録として残っている状態にしておく。契約書を回収するとき、こちらの言い分に、裏付けがあるように見せる」
マリアは、型抜きをそっと握り直した。指の先が、火傷の痕をなぞる。
「――この型抜き、証拠品にするのは、ちょっと寂しいけど」
「持ち帰った後で、ちゃんと返してもらいましょう。証拠として使い終わったら」
「本当に?」
「あなたが、いつかまた同じ型で焼くために」
マリアは、少しの間、型抜きを見つめていた。それから、ふっと表情を緩め、鞄の底へ丁寧にしまい直した。
段取りを詰め終えた頃、窓の外はすでに夜が深くなっていた。
紅茶のカップは、二杯目もほとんど冷めていた。
「――少し、休む?」
エレノアが言うと、マリアはカップを両手で包み、頷いた。
「うん。頭使いすぎた」
しばらく、二人とも黒板を眺めながら、無言で紅茶を飲んだ。冷めても、香りだけは残っていた。
「――スコーンの配合、もう決めた?」
マリアが、ふと口を開いた。
「まだよ。あなたの領分でしょう、それ」
「レモンの皮、多めに入れたいんだよね。皮ごと擦り下ろして、生地に練り込む。香りが飛びにくいから」
「それは、看板メニューに?」
「うん。看板メニュー。エレノアのハーブティーと、あたしのスコーン」
エレノアは、少し目を細めた。
「裏庭には、カモミールとレモングラスを植えるわ。日当たりのいい南側に、レモングラス。その手前、少し湿った場所に、カモミール」
「株間、どのくらい?」
「三十センチ。詰めすぎると、風通しが悪くなる」
「――本当に、ハーブ栽培の話になると生き生きするよね、あんた」
「否定はしないわ」
マリアはカップを傾け、最後の一口を飲んだ。
「木陰と砂糖亭、って、名前、まだ迷ってる?」
「もう決めているわ。それ以外の名前は、聞かない」
「聞くつもりもないよ、もう。気に入ってるから」
窓の外の暗闇に、二人の表情がうっすらと映っていた。カフェの名前を口にするだけで、教室の温度が少しだけ和らいだ気がした。
翌日の昼、マリアは中庭を突っ切る渡り廊下で呼び止められた。
「マリア嬢」
声だけで誰か分かる。振り返ると、アスターが日差しの中に立って、いつもの晴れやかな笑みを浮かべていた。
「殿下……何か、御用でしょうか」
表の声。語尾を伸ばし、視線をわずかに伏せる。もう息をするように出てくる仕草だった。
「いや、大したことじゃないんだ。ただ、君のことが少し気になって、先生方に話をしておいたんだ。伝えておこうと思ってね」
「……話を、というのは」
半年前の厨房出禁のことを、また持ち出されるのだろうか。マリアは身構えたが、続く言葉は別の話だった。
「この間、階段のところで君が転びかけていたのを見てから、気になっていたんだ。君は特待生として、人一倍頑張っているだろう。だから、少しでも無理をさせないでほしいと、先生方に伝えておいた」
マリアは、一拍、間を空けた。表情には出さなかったが、頭の中は素早く動いていた。――何を、勝手に。厨房のときとは、また別の話。今度は、誰にも頼まれていないのに。
「殿下。お心遣いはありがたいのですが……そういったことは、必要ありません。自分のことは、自分で決めますので」
「そう言うと思った」
アスターは、まるでその返事すら想定内だというように、優しく笑った。
「君は頑張りすぎるところがあるからね。無理しなくていい。それに、先生方に頼み事をするのは、君にとって言いづらいこともあるだろう。そういうことは、僕が代わりに言うから」
「……頼んだ覚えは、ありませんが」
「うん、知ってる。だからこそ、僕がやらないとと思ったんだ」
かみ合っていない。マリアは、それを表情に出さないよう努めながら、次の言葉を選んでいた。
「あら、殿下。こんなところで、何をなさっていますの?」
背後から涼やかな声がした。振り返らずとも分かる。エレノアだった。渡り廊下の向こうから、いつもの貴族的な微笑を浮かべて歩いてくる。
「エレノア。ちょうどよかった。今、マリア嬢のことで、先生方に少し配慮をお願いしていたところなんだ」
「配慮を、と言いますと?」
「無理をさせないように、というだけのことだよ。二人とも、これからのことで思うところはあるだろうけど、心配しなくていい。夜会では、僕がきちんと収める。二人にとって、一番いい形にするつもりだから」
エレノアの視線が、一瞬だけマリアと交わった。ほんの数分の一秒、けれどそれで十分だった。
「それは、頼もしいことですわね、殿下」
エレノアの声には、いつもの温度のない滑らかさしかなかった。
アスターは満足げに頷き、日差しの中で軽く手を振った。
「じゃあ、また。二人とも、無理はしないように」
彼が渡り廊下の向こうへ歩き去るのを、二人はしばらく無言で見送った。足音が完全に聞こえなくなってから、マリアが先に息を吐いた。
「――何、今の」
「聞いた通りよ。頼んでもいないことを、勝手に」
「昨日の夜、話したばっかりじゃん。あの人の分析」
「ええ。今も、何一つ変わっていない」
エレノアは、渡り廊下の先を見つめたまま、静かに続けた。
「本人は、自分が正しいと信じて疑わない。他人の意思より、自分の善意の方を優先する。……昨夜、わたくしたちが決めた誘導は、通るわ」
マリアは、まだ息を整えながら、小さく頷いた。
「――怖いくらい、ぶれないね、あの人」
「そこだけは、信用しているの」
二人は顔を見合わせ、どちらからともなく、乾いた笑いをこぼした。
それから幾晩か、同じ教室で稽古は繰り返された。
三日目には台詞の間合いが完全に噛み合い、五日目には契約書の文言を諳んじられるようになり、七日目には風紀記録への証拠提出の日取りと手順がすべて確定した。九日目の夜、契約書は署名欄を除く必要事項がすべて埋まっていた。
「――今日で、通しを何回やった?」
九日目の夜、マリアが紅茶のカップを置きながら聞いた。
「これで、八回目」
エレノアが答える。羊皮紙を丁寧に畳みながら。
「明日が決行ね」
「ええ、今夜が決行前夜」
マリアが小さく息を吐いた。それは緊張ではなく、長い助走の終わりを告げる息だった。
最後の通し稽古は、初めから終わりまで、一度も止まらなかった。
被害者の震え、加害者の冷たさ、半拍の溜め、挑発の一言。証拠の提示、署名までの三段の誘導。すべてが、途切れることなく流れていく。
「殿下、そんな……わたし、皆さんに迷惑をおかけするわけには……」
「あら、マリアさん。そんな怪我、自分でつけたのではなくて?」
「まあ、お読みになれませんの?」
最後の台詞を言い終えたとき、教室にはしばらく物音がなかった。
マリアが先に息を吐いた。
「――勝てる」
「ええ」
エレノアも頷いた。
「これなら、勝てるわ」
二人は台本を閉じ、冷めた紅茶を一息に飲み干した。カモミールの香りは薄くなっていたが、それでも喉を通る感触には満足があった。
「――あとは」
エレノアがカップを置きながら言った。
「殿下の虚栄心を信じるだけ」
マリアが笑った。今度は素の、飾らない笑い方だった。
「明後日には、あたしたちスコーンの話してる」
「ええ、きっと」
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