第7話 木陰と砂糖亭、遠い国の静かな朝
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
加害者と被害者を演じる悪役令嬢とヒロインの正体は、手切れ金を狙う対等な共犯者だった。バカ王子への静かな復讐と平穏を賭けたコンゲーム、開幕。
本文
数ヶ月は、思ったより短かった。
渡航証の取得、銀行からの送金確認、物件探し。断罪夜会の夜に交わした契約通り、婚約解消金十二万枚と被害者保護契約の支援金八万枚、合わせて二十万枚は、支払期限の三十日を待たずに指定口座へ振り込まれていた。そこから経費一万枚を差し引き、残った十九万枚を九万五千枚ずつ山分けする。魔導契約印による撤回不可能性が、二人の想像した通りに機能した結果だった。
アルディナ自由邦の南部、丘陵地帯の小さな町。サン・マルシェ。
大都市の喧騒から外れ、街道からもわずかに入り込んだ場所に、白い壁の古い建物があった。かつてはワイナリーの附属店舗だったという。厨房と客席を分かつ壁には大きな窓があり、裏手には日当たりの良い庭が広がっていた。
「ここなら、焼いているところが見える」
初めて中に入ったとき、マリアがそう呟いた。その一言で、決まったも同然だった。
「窓、大きくしてもらう?」エレノアが尋ねると、マリアは首を振った。
「ううん、このままでいい。お客さんから、あたしの手元が見えるくらいがちょうどいいの」
エレノアは裏庭に出て、土を踏み、根の張り方を確かめた。
「南寄りにレモングラス、その手前にカモミール。ローズマリーは、こちらの角」
「測るの、あたしも手伝う」マリアが指を広げて土に印をつけていく。「三十センチ、これくらい?」
「もう少し狭いわ。……ええ、それでいい」
鞄の中には、ローズマリーの鉢がひとつ。あの改修を生き延び、旧ハーブ園の跡地から持ち帰った株だった。マリアの鞄には、古い型抜きと、コンテスト名簿の写し。写しの方は既に役目を終え、今はただの記念品として持ち歩かれていた。
契約と物件取得を終えるまでに、五日。改修に十日。
気づけば、開店前夜を迎えていた。
裏庭は、ようやく形になっていた。
ローズマリーは株分けされ、三つになっている。その隣にカモミール、さらに奥にレモングラス。株間は三十センチ、二人で指を使って測った距離だった。
温室と呼ぶには小さすぎる、木の骨組みに透明な紙を張っただけの小屋が、庭の隅に建っていた。マリアが自分の手で杭を打ち、角を整えたものだ。金づちを振るう横で、エレノアが紙を押さえていた。「そこ、曲がってる」「うるさいな、直す直す」――そんなやり取りを何度も繰り返した末に、ようやく形になった小屋だった。中の棚には、磨き上げられた型抜きが飾られている。
「見張り番みたいで、いいね」
マリアがそう言って笑ったのを、エレノアは覚えている。
看板は、エレノアが自ら筆を執った。
『木陰と砂糖亭』
装飾は最小限に。ただ看板を支える柱の隅に、小さくレモングラスの葉が一本、彫り込まれている。マリアのリクエストだった。
「文字、思ったよりお上品」
「当たり前でしょう。誰が書いたと思っているの」
エレノアが筆を置きながら答えると、マリアは肩をすくめて笑った。
開店当日の朝は、静かに明けた。
エレノアは調理台でハーブティーの仕込みをしていた。カモミール、レモングラス、それにローズマリーの先端を少しだけ。湯の温度は七十五度、蒸らしは三分半。旧校舎で確認した数値のままだった。
マリアは厨房の中心で、型抜きを手にしていた。
レモンバタークッキーの生地。レモンの皮は多めに、砂糖は控えめに。廃温室で分け合った試作品から、幾度も改良を重ねてきた配合だった。
「火加減、どう?」
「上下均等。いい色になってる」
会話は少ない。だが手は止まらない。稽古で身につけた呼吸の合わせ方が、今は焼き菓子作りの現場でそのまま生きていた。
看板を裏返す。『本日営業』。
昼前、最初の客が来た。
近所に住む女性だという。年配で、実務的な目つきをしていた。
「営業始めたって聞いてね」
エレノアが一礼する。マリアが奥から現れ、伊達眼鏡のない素の顔で「いらっしゃいませ」と迎えた。
女性は、レモンバタークッキーとハーブティーを注文し、しばらく窓際の席で過ごしてから帰っていった。
「また来るよ」
その一言に、マリアは小さく息を呑んだ。皿を下げる手が一瞬止まり、それから肩からすっと力が抜ける。厨房に戻ってから、彼女は誰にともなく、型抜きの縁を指先でひとなでした。
開店から一週間。定期的に立ち寄る客が三人できていた。
二週間目には五人。旅商人が「ここのハーブティー、いい」と評判を口にし始め、「どこで修行した?」と聞かれたエレノアは「秘密です」とだけ返した。それで十分だった。
一ヶ月が経つ頃には、街道を行き交う者たちの間で、『木陰と砂糖亭』は知られた名前になっていた。
その夜、店を閉めたあとの座卓で。
エレノアがハーブティーを、マリアが焼きたてのスコーンを運んできた。レモンの皮を多めにした配合。裏庭のハーブは、まだ本格的な収穫には早いが、乾燥用の分だけなら来月には仕込めそうだった。
「ローズマリー、もう根付いたね」
「株分けのとき、少し傷めたけれど。よく持ち直したわ」
マリアが型抜きを眺め、それから口を開いた。
「エレノア。あたし、事業拡大したいんだけど」
「あら」
エレノアが片眉を上げる。
「言うと思ったわ。どの程度?」
「向こうの通りに、もう一軒。小さな焙煎所」
「採算は」
「取れる。あたしが計算した」
エレノアはスコーンを一口かじり、しばらく黙っていた。
「では、やりましょう。――ただし」
「ただし?」
「資金は分割になさい。一度に全額を動かすのは、いつでも動ける自由を手放すということよ」
マリアの目が、一瞬だけ止まった。
「……また、何かあるって思ってるの?」
「何もなければ、それでいいの」
エレノアはカップを両手で包み、窓の外を見た。
「今は静かでしょう。でも、静けさというものは、いつ壊されるか分からない。だから、いつでもどこへでも移動できる形にしておきなさい」
マリアは、少しの間その言葉を噛みしめてから、頷いた。
「分かった。やっておく」
その日はそれで会話が途切れ、二人はしばらく無言でハーブティーを飲んでいた。
開店から一ヶ月と少し経ったある夕方、店に新聞商が立ち寄った。
アルディナの新聞には、隣国ヴァルドレアの情報も断片的に載る。
「これ、本当か」
エレノアが目を落とした。
『王立ヴァルドレア学院、公爵補佐官団が一斉退職。財務逼迫の責任は――』
「何?」
マリアが厨房から顔を出す。
エレノアが記事を指でなぞる。
「補佐官が、一斉に辞めたそうよ。財務の問題らしいわね」
マリアが覗き込み、しばらく黙って文字を追った。
「……大変だね」
「誰かが、中身も読まずに大きな約束をしたせいでしょう」
その言葉に、二人はどちらからともなく肩をすくめた。それ以上、記事を読み返すことはなかった。
二ヶ月目にも、別の噂が届いた。
旅商人がふと漏らした話だった。
「王子が、名誉職を剥奪されたって。適性がないとかで」
マリアが手を止めずに言う。
「へえ」
「それだけ?」
「それだけ」
エレノアがそう答えたとき、口元にわずかな笑みが浮かんでいた。旧校舎で見せていた、貴族的な微笑ではない。素の、感情の伴わない、しかし確かな安堵の色をした笑みだった。二人にとって、その話はもう遠い国の天気予報と大差なかった。
開店から三ヶ月目のある夜。
営業を終え、店の灯りを絞ったあとの座卓に、二人は向かい合って座っていた。
エレノアが淹れ直したカモミールティーが、湯気を立てている。マリアが焼いたレモンバタークッキーが、小皿に四枚並んでいた。
「今日、また噂が入った」
マリアが言った。
「聞いたわ」
「継承権も危ういって」
「そうでしょうね。契約の中身も読まずに署名する人が、王位を継ぐのに向いているとは、誰も思わないでしょうし」
マリアが、小さく笑った。
「復讐じゃなくて」
「実務だった」
二人は同時にその言葉を口にし、しばらく黙って笑い合った。大きな声ではない、肩の動きだけで分かる、静かな笑いだった。
「――ねえ」
エレノアが、ふと切り出した。
「九万五千枚では、正直足りないと思っていたの。最初から」
マリアが顔を上げた。
「あ……」
「あなたの菓子の腕を見ていれば、この店はいずれ利益を生む。そうなれば、ハーブ園を広げることも、店をもう一軒持つことも」
「あたしも、実は」
「ええ、知ってますわ」
エレノアがカップを置いた。
「あなたの目を見ていれば分かります。田舎の小さな店だけで満足する人ではない」
マリアは、自分の左手首にちらりと目をやった。火傷の痕は、まだそこにある。もう隠す理由のない痕だった。
「ここが軌道に乗ったら、次は北の丘陵地帯。ラベンダーも植えましょう」
「一年後くらいに?」
「そのくらいで」
「決まりだ」
窓の外では、裏庭のローズマリーが夜風に揺れていた。あの日、跡地で見つけた一本から増やした株が、今は三つになり、来年にはさらに増えるだろう。
型抜きは温室の棚で、静かに次の季節を待っていた。
夜が更けていく。
蝋燭の炎だけが、テーブルの上で二人の顔を照らしていた。窓の外は完全な闇で、王家も学院も、アスターの姿もどこにもなかった。
「明日も、いい天気になるといいわね」
「うん」
マリアが頷く。
「ローズマリーも、レモングラスも、好きな天気でしょう」
「あたしも」
二人は、それぞれのカップを最後まで飲み干し、同じ動作で立ち上がった。
厨房の火を落とし、扉に鍵をかける。明日はスコーンの生地を仕込み、裏庭のハーブに水をやり、看板をまた表に返す。誰に急かされるでもなく、自分たちで決めた時間に、自分たちで決めた分量で。同じ手順で、同じ幸福を、また一から作っていく。
窓の外、東の空がわずかに白みはじめていた。
誰にも邪魔されない朝が、また、確実にやってくる。木陰と砂糖亭の看板の下、レモングラスの葉の彫り物に朝日が触れる頃には、二人はもう厨房に立っているだろう。
その確実さだけが、この数ヶ月で二人が手に入れた、何より重い幸福だった。
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