1-13 未来視の魔女
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あらすじ
魔王亡き世界で、再び魔の時代が動き出す。 魔王ゼルヴァディスが討たれてから、六百二十八年。 平和を取り戻したアストラリア大陸では、三つの主要勢力が微妙な均衡を保ちながら共存していた。 しかし、今なお人の立ち入れない旧魔王領では、魔物たちが静かに活動範囲を広げ始めていた。 各地では怪しい薬が出回り、魔王を崇める新興宗教も勢力を増していく。 そんな異変をまだ知らず、自由交易都市に暮らす青年レオン・ヴェスタは、見知らぬ世界を求めて旅立つ。 やがて彼は、森の外へ憧れる若きエルフの癒し手フィリアと、その護衛リュシアに出会う。 三人の小さな旅立ちは、やがて国家、宗教、人間、魔物――大陸に生きる者すべてを巻き込む事変へ繋がっていく。 善と悪の境界が揺らぐ世界で、彼らは何を知り、何を選ぶのか。 これは、魔王亡き世界で再び動き始めた、魔の時代を巡る物語。
本文
新暦六二八年四月七日。
夜。
エルフの里は、静かな夜に包まれていた。
昼間のざわめきはすでに遠く、木々の間には精霊灯の淡い光が揺れている。
湖面には月が映り、風が吹くたび、銀色の波紋が静かに広がっていた。
その里の奥。
長老アルヴァン・エルフェリアの自宅では、暖かな灯りがともっていた。
アルヴァンは一人、椅子に腰かけて本を読んでいる。傍らの小卓には、湯気の立つ茶が置かれていた。
食後の読書と茶。それは、アルヴァンにとって長い年月の中でも変わらない、お気に入りの時間だった。
彼は千年近くを生きている。人間の王が何代も代わり、国の形が変わり、街道ができ、戦が起こり、また平和が戻る。
そんな歴史の流れを、彼は見てきた。
当然、読んできた本の数も並ではない。
歴史書。
詩集。
魔法理論書。
旅人の手記。
失われた国の記録。
人魔戦争の証言。
名もなき誰かが残した日記。
長く生きれば、読むべきものは尽きるかと思っていた時期もあった。だが、不思議なことに、そうはならなかった。
本は、読むたびに違う顔を見せる。
若い頃に読んだ物語は、歳を重ねてから読むと、まるで別の意味を持つことがある。
過去には気づかなかった一文に、何百年も後になって心を掴まれることもある。
今、アルヴァンが読んでいる本も、もう何度読んだか分からないものだった。古い旅人の紀行文である。
文章は決して洗練されていない。誤字も多い。地名も今とは変わっている。
だが、その不器用な記録の中には、若い旅人が初めて世界を見た時の驚きが詰まっていた。
アルヴァンは、こういう本が好きだった。完成された叙事詩よりも、時にこうした素朴な記録の方が、遠い時代の息遣いを感じさせてくれる。
彼は静かにページをめくり、茶を一口含んだ。
その時、控えめなノックが響いた。
「アルヴァン様」
侍女の声だった。
「どうぞ」
扉が開き、侍女が一礼する。
「来訪者です」
「こんな時間にかい?」
アルヴァンは少し目を瞬かせた。夜に客が来ること自体は、全くないわけではない。
だが、里は日が暮れると静かに過ごす者が多い。特別な用でもない限り、訪問は珍しかった。
「どなたかな?」
「メリア様です」
その名を聞いて、アルヴァンの表情が柔らかくなる。
「なるほど。通しておくれ」
「かしこまりました」
侍女が下がる。
アルヴァンはしおりを挟んで本を閉じた。それから、飲みかけの茶を手に取る。
本を棚へ戻し、ゆっくりと立ち上がる。
「さて、珍しいこともあるものだね」
そう呟きながら、アルヴァンは来賓室へ向かった。
来賓室に入ると、すでに客はソファーに座っていた。
メリア・ルーンリーフ。
里で占い師として知られる女性である。柔らかな笑みを浮かべ、いつものように飄々としている。
年齢を感じさせない不思議な雰囲気を持ち、誰に対しても気安く接する。アルヴァンに敬語を使わない、数少ない存在でもあった。
「遅い時間にすまないねぇ」
メリアはアルヴァンを見ると、にこりと笑った。アルヴァンも微笑み返す。
「いやいや、全く気にしなくて大丈夫だよ。暇をしていたところだからね」
「暇ねぇ。あんたが読む本に困ることなんてなさそうだけど」
「困ってはいないよ。ただ、誰かと話す時間も悪くない」
アルヴァンはそう言って、向かいのソファーに腰を下ろした。
「よっこらしょ」
その動きは、いかにも老人らしい。実際には、彼の体はまだ十分に健やかである。
だが、長く生きていると、こういう仕草が自然と馴染んでしまうのだろう。
アルヴァンは茶を小卓に置き、メリアを見た。
「それで、何か用事かい? それとも、お茶を楽しみに来たのかな? どちらにせよ歓迎だよ」
「ふふふ。そんなに長居をするつもりじゃないけどね。珍しく、真面目な話をしに来たんだよ」
「ほう」
アルヴァンの目がわずかに細くなる。
「真面目な話かい」
「そうそう」
メリアは笑っていた。だが、その目の奥にいつもの軽さはなかった。
「それでね。フィリアちゃんのことなんだけど」
アルヴァンは静かに茶を置いた。
「フィリアがどうかしたのかな」
「あなた、やっぱりこれからもフィリアちゃんを旅立たせないつもり?」
部屋の空気が、ほんの少しだけ変わった。
アルヴァンはすぐには答えなかった。窓の外へ視線を向ける。
夜の庭では、精霊灯が小さく揺れている。
「フィリアか……」
彼はゆっくりと息を吐いた。
「うーむ。まあ、あの娘には申し訳ないが、今のところは考えていないよ」
「そう」
「それがどうしたんだい?」
メリアは少しだけ体を沈めるようにして、ソファーに座り直した。
「実はね。久しぶりに、フィリアちゃんの未来が見えたのさ」
アルヴァンの表情が変わった。穏やかな微笑みはそのまま。
だが、目だけが鋭くなる。
「フィリアの未来が、か」
「一週間くらい前だったかな」
「確か、フィリアの未来だけは、いつも全く見えないと言っていたね」
「そう」
メリアは頷く。
「私の未来視の魔法が見通せなかった子は、フィリアちゃんとアレイス・ヴァンガードくんくらいなのだけどね。そのフィリアちゃんの未来が、見えたのよ」
メリアの占いは、占いではない。少なくとも、アルヴァンはそれを知っている。
彼女が扱うのは、極めて精度の高い未来視の魔法だった。
未来を完全に固定されたものとして見るわけではない。
だが、選択の先にある流れや、強い運命の節目を、彼女は高い精度で読み取ることができる。
それを知る者は、今ではアルヴァンだけだ。
もし、彼女がそのような魔法を使えると知られれば、どうなるか。
権力者は彼女を欲しがる。
商人は利用しようとする。
戦を企む者は未来を知る道具として狙う。
信仰を操る者は神託として囲い込もうとするだろう。
だから、彼女は占い師でいる。気まぐれに未来めいた言葉を告げる、不思議な老婆。
その程度に見られている方が、ずっと安全だった。
「どんな未来だったんだい?」
アルヴァンは静かに尋ねる。
「まさか、フィリアが旅立つ未来かい?」
「そうだよ」
メリアはあっさりと答えた。
「フィリアちゃんが、ある男の子と出会う。その子もよく見えなかったけど、おそらく人間の男の子ね。そして、その子と一緒に旅に出る未来よ」
「人間の男の子と……」
アルヴァンは目を伏せる。
フィリアが外の世界に憧れていることは知っている。何度も聞いてきた。
外に行きたい。
旅をしたい。
いろいろな景色を見たい。
里の外の人々に会いたい。
そのたび、アルヴァンは柔らかく言葉を濁してきた。
いつかね。
もう少し時が来たらね。
外の世界は危ないからね。
優しい言葉で包んだ拒絶だった。
メリアは続ける。
「ちなみに、この未来は分岐しているの」
「分岐?」
「旅立ちを阻止した時と、しなかった時にね」
アルヴァンは黙ってメリアを見た。
「旅立ちを阻止した時の未来は、真っ暗に塗りつぶされたように何も見えなかったわ」
その言葉に、アルヴァンの表情がわずかに硬くなる。
「逆に、旅立たせた時は……」
「旅立たせた時は?」
「誰かが死ぬわ」
「それも、あなたか、エレノアか、ルカの誰かよ」
「……」
「誰になるかは、この一週間、毎日視てみた。でも変わるの。あなたの日もあれば、エレノアの日もある。ルカの日もある。はっきり固定されない」
「なるほど」
アルヴァンは静かに頷いた。
「揺らいでいる、ということだね」
「そういうことだと思う」
メリアは珍しく、笑っていなかった。
「それから、阻止した際の、真っ暗に塗りつぶされた未来。これは確か、前にもあったね」
「あったね」
「アレイスくん一行を手助けしなかった場合の未来だね」
「ええ」
アレイス・ヴァンガード。
数百年前の人魔戦争において、人類側の希望となった英雄。勇者と呼ばれることもある男。
彼の一行がかつてエルフの里へ辿り着いた時、手を貸すべきか否かで里は揺れた。
外の戦に関われば、里にも災いが及ぶ。そう考える者も多かった。
その時、メリアが見た未来があった。手を貸さなかった場合の未来は、真っ暗に塗りつぶされていた。
「確か、君の推測では、真っ暗に塗りつぶされた未来は君の死だったね」
アルヴァンが言う。
「そうよ」
メリアは頷いた。
「未来を視る私自身が、その先に存在しない。だから何も見えない。そう考えるのが一番自然だった」
「だが、君が死ぬということは」
「そう」
メリアの声が低くなる。
「こんな里の奥でひっそり暮らしている私が死ぬということは、里そのものが危ない。ひいては、世界の存亡に関わる危機かもしれない」
アルヴァンは目を閉じた。
数百年前。
あの時、里はアレイスたちを手助けした。結果として、人類は魔王を討ち、世界は滅びを免れた。
もし手を貸していなければ、どうなっていたか。
その答えは誰にも分からない。だが、メリアの未来視は、少なくとも破滅に近い未来を示していた。
そして今。
フィリアを旅立たせない未来が、同じように黒く塗りつぶされている。
「つまり」
アルヴァンは静かに言った。
「フィリアを旅立たせない場合の未来は、目を伏せたくなるほどのものということだね」
メリアは頷いた。
「そういうことになるわ」
沈黙が落ちた。アルヴァンは長く考え込んだ。
部屋の外では、夜の森が静かに息づいている。精霊灯の光が窓の向こうで揺れ、遠くから水の音が聞こえる。
この里は、長い年月守られてきた。
外の戦から。
人間の欲から。
魔王の残滓から。
その中心にいたのが、アルヴァンだった。彼は何度も外の世界を見てきた。
人間たちの短い命が生む焦りも、欲も、愚かさも、勇気も、優しさも知っている。
だからこそ、フィリアを外に出すのが怖かった。あの娘は優しすぎる。
疑うことを知らない。世界の悪意を知らない。傷つけば、きっと深く痛む。
それでも。
鳥籠の中で守ることだけが愛ではない。
「……分かった」
やがて、アルヴァンは口を開いた。
「本当は、ずっと罪悪感もあったんだ」
メリアは黙って聞いている。
「あんなに外に出たがっている年頃の娘を、この鳥籠に押し込めていることをね」
アルヴァンは寂しげに微笑んだ。
「もちろん、守りたかった。外の世界の危うさを、私は知っているから。だが、それを理由に、あの娘の望みをずっと先送りにしてきたのも事実だ」
「アルヴァン」
「でも、ついにその時が来たんだね」
メリアは小さく頷く。
「そうみたいね」
アルヴァンはふと顔を上げた。
「ところで、そのフィリアの旅立ちのきっかけになる男の子は、もう里に来ているのかい?」
「そうね」
メリアは少しだけ口元を緩めた。
「今日か明日には来る頃だわ」
「そうか」
アルヴァンは目を細める。
「なら、明日にでもフィリアと話してみようかねぇ」
「ええ。そうした方がいいと思うわ」
「その男の子とも、会う必要があるかな」
「たぶんね」
「人間の男の子か……」
アルヴァンは遠い目をした。昔、同じようにこの里へやって来た人間の若者たちがいた。
アレイスたちだ。
彼らもまた、最初から英雄だったわけではない。迷い、傷つき、時には無謀で、それでも前へ進んだ。
フィリアが出会うという人間の少年も、そうなのだろうか。
世界の流れを変えるほどの何かを持っているのか。それとも、ただフィリアの隣に立つことで、未来を少しずつ変えていく存在なのか。
今はまだ分からない。だが、未来が揺らいでいるなら、選ぶ余地はある。
アルヴァンは静かに微笑んだ。その微笑みは、フィリアの輝かしい未来を思う清々しいものだった。
あの娘が外の世界を見て、笑い、驚き、傷つき、学び、誰かと共に歩く。
そんな未来があるのなら。見送ることもまた、祖父としての役目なのかもしれない。
しかし同時に、メリアの言葉は胸に深く残っていた。
旅立たせた時、誰かが死ぬ。
アルヴァンか。
エレノアか。
ルカか。
それはまだ定まっていない。ならば、定まる前に備えなければならない。
「メリア」
「なに?」
「君が見た死の影。これからも追ってくれるかい?」
「もちろん。そのために来たんだからね」
「助かるよ」
「ただし、無茶はしないでおくれよ」
メリアは少し目を細める。
「自分が死ぬかもしれないと聞いて、平然と笑うのは、あんたの悪い癖だよ」
アルヴァンは苦笑した。
「長く生きると、ついね」
「長く生きたなら、なおさら生き汚くなりなさい」
「善処しよう」
「その返事、信用ならないねぇ」
二人は小さく笑った。だが、その笑みの奥には、確かな緊張があった。
夜のエルフの里は、今も穏やかだった。
けれど、その静けさの裏で、未来はすでに音もなく揺れ始めていた。
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