風、凪ぐ頃4
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
学科は満点、実技が苦手 そんな悩みが卒業試験で露呈、不合格になってしまった凪 補習過程に移行した彼に待っているのは…… アマツを母とする戦後170年の物語。
本文
第十五話 隣にいる人
七月。
午前。
教育隊。
講義棟。
「今日の午後は市街地行動演習を行う。」
教官が教壇に立つ。
大型モニターには基地周辺の市街地地図が映し出されていた。
「目的は戦闘ではない。」
「住民との接し方。」
「状況観察。」
「報告。」
「そして。」
「困っている人を見つけること。」
補習班は静かに端末へ内容を書き込む。
「四人一組で行動。」
「各班、午後一三〇〇時出発。」
◇
午後。
基地の正門を出る。
制服姿の四人は、一般隊員と同じように歩き始めた。
照り返しの強い道路。
商店。
小さな公園。
学校帰りの子どもたち。
戦後百七十年。
平和な街の日常が広がっていた。
「演習なのに。」
陽菜が笑う。
「なんだか散歩みたい。」
「油断するな。」
拓真が苦笑する。
「教官がどこで見てるか分からないぞ。」
「それもそうだ。」
四人は自然な足取りで街を歩いた。
◇
商店街。
八百屋の前で、一人の年配の男性が立ち止まっていた。
荷物が多い。
両手が塞がっている。
その時だった。
凪の足が止まる。
「どうした?」
陽菜が尋ねる。
「少し待ってください。」
凪は男性へ近付いた。
「失礼します。」
「お荷物、お持ちしましょうか。」
男性は少し驚いたように振り向く。
「いいのかい?」
「はい。」
「演習中ですが、お手伝いは可能です。」
男性は少し笑った。
「じゃあ頼もうかな。」
「ありがとうございます。」
凪は荷物を受け取る。
決して重くはない。
歩幅を合わせながら目的地まで歩く。
◇
数分後。
「ここで大丈夫だ。」
「ありがとうございました。」
男性は深く頭を下げる。
「助かったよ。」
「いえ。」
「お気を付けて。」
短いやり取りだった。
凪は敬礼をして班へ戻る。
陽菜が笑う。
「自然だったね。」
「そうでしょうか。」
「うん。」
「迷わなかった。」
凪は少し考える。
「困っているように見えました。」
「だからです。」
◇
その様子を少し離れた場所から見ていた人物がいた。
教育隊教官。
腕を組み、小さく頷く。
端末へ短く入力する。
---
観察記録
対象:補習課程 凪
住民支援行動。
指示なし。
自発的に実施。
判断良好。
---
送信。
それだけだった。
◇
演習終了。
基地へ戻る途中。
陽菜が歩きながら言う。
「ねぇ。」
「はい。」
「凪ってさ。」
「何でしょう。」
「困ってる人を見ると。」
「すぐ動くよね。」
凪は少し考える。
「そうでしょうか。」
「うん。」
「今日だけじゃない。」
「美琴が怪我した時も。」
「資料館でも。」
「いつも。」
凪は静かに前を向く。
「……。」
「どうしてだろう。」
その問いに、自分では答えが見つからなかった。
◇
夕方。
教育隊本部。
今日の演習結果がまとめられていた。
教官が報告書を閉じる。
「凪。」
「はい。」
「演習中の住民支援。」
「適切だった。」
「ありがとうございます。」
「だが。」
教官は少しだけ笑う。
「困っている人を放っておけない性格らしいな。」
凪は一瞬考えた。
「性格……でしょうか。」
「きっとそうだ。」
教官は立ち上がる。
「そのままでいい。」
「ただし。」
「今度は自分が困った時も、誰かを頼れ。」
「……はい。」
凪は静かに敬礼した。
◇
夜。
宿舎へ戻る道。
街灯が一つずつ灯り始める。
陽菜たちは少し前を歩いている。
「凪ー!」
「早くー!」
「今、行きます。」
凪は小さく歩幅を速めた。
昼間、荷物を持った時の年配の男性。
夕方、教官の言葉。
どちらも心に残っていた。
「困っている人を放っておけない。」
その理由はまだ分からない。
けれど。
誰かの隣に立つことは、不思議と自然にできた。
夏の夜風が静かに吹く。
凪は三人の後ろ姿を見つめながら、少しだけ歩幅を広げた。
今度は、誰かに呼ばれる前に追いつくために。
ーーー
第十六話 飛び立つ背中
七月。
午前。
教育隊。
補習課程の座学が終わろうとしていた。
その時、基地内放送が静かに流れる。
『教育隊各課程へ連絡。』
『本日一四〇〇時より、飛行隊出動準備のため格納庫周辺への立ち入りを一部制限します。』
教室が少しざわつく。
「出動?」
陽菜が小さく呟く。
教官は教卓の前に立った。
「災害支援任務だ。」
「台風の接近に伴い、第七戦隊所属メガフロート基地が事前展開を開始する。」
「教育隊も見学を行う。」
「私語は慎め。」
「はい。」
◇
午後。
第一格納庫。
普段より多くの整備員が行き交っていた。
工具の音。
通信の声。
搬入されるコンテナ。
慌ただしい。
しかし、誰一人として慌ててはいない。
すべてが決められた手順で動いていた。
補習隊員たちは見学区域へ並ぶ。
その先には、《ハヤテ》が四機並んでいた。
白銀の装甲は整備を終え、陽射しを受けて静かに輝いている。
「実戦部隊の機体……。」
凪は思わず呟いた。
訓練機とは違う。
細かな傷。
塗装の擦れ。
交換された装甲板。
それは二十年間、人を守り続けてきた証だった。
◇
整備員の声が響く。
「燃料最終確認!」
『異常なし!』
「人工筋肉、出力正常!」
『正常!』
「通信系統!」
『リンク良好!』
報告が次々と重なっていく。
その一つ一つが短い。
迷いもない。
◇
格納庫奥。
搭乗員たちが歩いてくる。
飛行服姿。
誰も大きな声では話さない。
互いに目を合わせ、小さく頷くだけだった。
「凪。」
陽菜が小声で言う。
「あの人たち。」
「格好いいね。」
「はい。」
凪も静かに頷いた。
◇
搭乗開始。
リフトが上昇する。
整備員が敬礼する。
搭乗員も敬礼で返す。
誰も言葉を交わさない。
その姿が、凪には強く印象に残った。
教官が横で言う。
「信頼だ。」
「はい。」
「確認することは確認する。」
「だが。」
「最後は仲間を信じる。」
凪は《ハヤテ》を見上げる。
昨日、自分も乗った機体。
けれど今、目の前にある《ハヤテ》は少し違って見えた。
◇
低い駆動音が響く。
一機。
また一機。
光学センサーが青く灯る。
人工筋肉が静かに収縮する。
巨大な人型機動兵器がゆっくりと歩き始めた。
その歩幅には迷いがない。
「……。」
凪は見送る。
格納庫の出口。
夏の光の中へ、《ハヤテ》が一機ずつ歩いていく。
滑走路ではなく、海へ続く発進甲板。
背部スラスターが淡く青白く輝く。
『発進許可。』
通信が流れる。
四機はほぼ同時に膝を軽く曲げた。
次の瞬間。
轟音。
熱風。
砂埃が舞い上がる。
《ハヤテ》は空へ飛び立った。
白い雲へ向かって一直線に上昇していく。
やがて四つの光は小さくなり、青空へ溶け込んでいった。
◇
見学が終わる。
補習隊員たちは静かに歩き始める。
誰もすぐには話さなかった。
陽菜が空を見上げる。
「いつか。」
「私たちも。」
「うん。」
拓真が頷く。
美琴も静かに笑う。
凪は少し遅れて歩き出した。
飛び立つ《ハヤテ》を思い返す。
華やかではなかった。
派手でもなかった。
ただ、自分の任務へ向かう人たちの背中だった。
その姿が、何よりも美しく見えた。
◇
夕方。
資料館。
帰宅した凪は窓際に立ち、港の方角を眺めていた。
遠くの海には、第七戦隊のメガフロート基地がゆっくりと北へ向かっている姿が見える。
巨大な人工島は、夕日に照らされながら静かに進んでいた。
「母さん。」
「はい。」
「今日。」
「実戦部隊を見ました。」
アマツは隣へ立つ。
「どうでしたか。」
凪は少し考えた。
「強いとは思いませんでした。」
「ですが。」
「安心しました。」
アマツは穏やかに頷く。
「それが。」
「支援部隊の一番大切な姿なのかもしれませんね。」
窓の外では、夕焼けに染まる海を一隻の輸送艦がゆっくりと進んでいた。
その向こうには、もう《ハヤテ》の姿は見えなかった。
けれど凪は、その飛び立つ背中を、きっと長く忘れないだろう。
ーーー
第十七話 初任務
七月。
午前六時。
教育隊。
まだ朝靄が残る基地に、一台の輸送車が静かに停車した。
教官が補習班を見渡す。
「本日。」
「補習課程より一名、実任務へ同行する。」
隊員たちの表情が引き締まる。
「同行者。」
教官は端末を確認する。
「凪。」
「はい。」
一歩前へ出る。
「災害支援任務。」
「実戦ではない。」
「《ハヤテ》後席で通信支援を学ぶ。」
「了解しました。」
◇
第一格納庫。
白銀の《ハヤテ》が整備を終えて待機していた。
その前には、一人の女性隊員が立っている。
濃紺の飛行服。
肩には一等隊長の階級章。
「教育隊から来た子?」
「はい。」
凪は敬礼する。
「補習課程所属、凪です。」
女性は敬礼を返した。
「第七戦隊。」
「支援飛行隊所属。」
「朝比奈 葵。」
「今日は私が前席。」
「あなたは後席。」
「よろしく。」
「よろしくお願いします。」
◇
搭乗。
胸部ハッチが開く。
前席へ朝比奈。
後席へ凪。
固定具が閉じる。
青い光がコクピットを流れる。
《複座認証》
《神経接続開始》
静かな電子音。
凪は深く息を吸う。
昨日までの訓練とは違う。
今日は実任務だった。
《多目的支援機 ハヤテ》
《システムオールグリーン》
《起動》
機体が静かに立ち上がる。
◇
格納庫。
「前方クリア。」
整備員が手を上げる。
朝比奈が頷く。
「了解。」
《ハヤテ》が歩き始める。
凪は後席モニターを確認する。
通信状態。
気象情報。
周辺航空機。
すべて正常。
「緊張してる?」
通信越しに朝比奈が笑う。
「少し。」
「みんな最初はそう。」
「肩の力を抜いて。」
「はい。」
◇
発進甲板。
「推進器展開。」
背部ユニットがゆっくり展開する。
人工筋肉が姿勢を安定させる。
「発進。」
朝比奈が静かに呟く。
轟音。
《ハヤテ》は青空へ舞い上がった。
凪の視界が一気に開ける。
眼下には沖縄本島北部。
深い緑。
青い海。
朝日に照らされた町並み。
「……。」
思わず息を呑む。
「きれいでしょう。」
「はい。」
「私も初めて飛んだ日は。」
「景色ばかり見てた。」
朝比奈は少し笑った。
◇
飛行開始から二十分。
目的地は山間部。
昨夜の豪雨で土砂崩れが発生した地域だった。
消防。
警察。
自治体。
様々な通信が流れ込む。
凪は情報を整理する。
「消防隊。」
「北側ルート閉鎖。」
「救急隊。」
「南側から進入。」
「了解。」
朝比奈が機体を旋回させる。
「情報ありがとう。」
「役に立ちました。」
凪は少し驚く。
訓練ではない。
今の一言で飛行経路が変わった。
◇
物資を届ける。
状況を確認する。
住民へ手を振る子どもたち。
《ハヤテ》は静かに飛び立つ。
武器は使わない。
誰とも戦わない。
それでも。
この機体は人を守っていた。
◇
帰投。
基地が見えてくる。
「お疲れさま。」
朝比奈が言う。
「どうだった?」
凪は少し考えた。
「難しかったです。」
「ですが。」
「もっと勉強したいと思いました。」
朝比奈は満足そうに頷く。
「いい答え。」
「焦らなくていい。」
「二十年飛んでても。」
「毎回勉強だから。」
◇
夕方。
教育隊。
教官が報告書を受け取る。
「実任務同行。」
「異常なし。」
「通信支援。」
「評価、良好。」
教官は凪を見る。
「初任務、お疲れ。」
「ありがとうございます。」
「どうだった。」
凪は空を見上げた。
夕焼けの中を、一機の《ハヤテ》が静かに格納庫へ戻ってくる。
「昨日は。」
「飛び立つ背中を見ました。」
「今日は。」
少しだけ笑う。
「その背中の中から、景色を見ることができました。」
教官も空を見上げる。
「その景色を忘れるな。」
「はい。」
夏の夕空を、一筋の飛行機雲がゆっくりと西へ伸びていた。
凪はその白い軌跡を静かに見送りながら、また一つ、新しい世界へ足を踏み入れたことを感じていた。
ーーー
第十八話 背中を支える人
七月。
夕方。
資料館。
閉館を知らせる放送が静かに流れる。
最後の来館者を見送り、凪は入口の鍵を閉めた。
館内には穏やかな静けさが戻る。
展示室には、歴代の外縁独立機動部隊の写真が並んでいた。
災害派遣。
離島支援。
国際救援。
戦闘よりも、人々を助ける記録の方が多い。
凪は一枚の写真の前で立ち止まった。
若い隊員たちが《ハヤテ》の前で笑っている。
その中には、まだ三十代だった神谷ひかりの姿もあった。
「気になりますか。」
後ろからアマツの声がした。
「はい。」
凪は写真から目を離さない。
「皆さん、とても穏やかな表情をしています。」
アマツは隣に立つ。
「その写真は。」
「大きな災害支援任務が終わった日のものです。」
「誰も戦っていません。」
「ですが。」
「多くの人を救いました。」
凪は静かに頷いた。
「初任務で感じました。」
「戦わなくても。」
「人は守れるのですね。」
アマツは微笑んだ。
「はい。」
「外縁独立機動部隊は、そのために存在しています。」
◇
二人は展示室をゆっくり歩く。
壁には古い写真が続いていた。
初代。
災害復旧。
学校訪問。
離島への物資輸送。
「母さん。」
「はい。」
「皆さんは。」
「どうして危険な任務へ向かえるのでしょう。」
アマツは少し考えた。
「昔。」
「私も同じ質問をしました。」
凪はアマツを見る。
「その時。」
「ある人が教えてくれました。」
「何と。」
アマツは写真へ視線を向ける。
「前へ出る人だけが、人を守るわけではありません。」
「その人が帰って来られるように支える人も。」
「同じくらい大切なのだと。」
静かな声だった。
凪はその言葉を胸の中で繰り返す。
「支える……。」
◇
資料館の奥。
一台の古い通信端末が展示されている。
戦時中に使用されたものだった。
アマツはガラスケースを優しく拭く。
「私は昔。」
「戦うことはできませんでした。」
「ですが。」
「通信を繋ぎました。」
「情報を残しました。」
「帰る場所を守りました。」
「それだけでも。」
「誰かの役に立てました。」
凪はケースの中の通信端末を見る。
長い年月を経て、塗装は少し色褪せている。
それでも大切に保存されていた。
「物には。」
「役目があります。」
アマツは続けた。
「人にも。」
「役目があります。」
「皆が同じことをする必要はありません。」
「それぞれが、自分にできることを精一杯すればいいのです。」
◇
夜。
閉館作業を終え、二人は中庭へ出た。
夏の風が木々を揺らす。
空には満天の星が広がっていた。
凪は静かに空を見上げる。
「母さん。」
「はい。」
「私は。」
「まだ前に立てる人ではありません。」
アマツは首を横に振った。
「焦る必要はありません。」
「凪さんは。」
「今、誰かの隣に立てるようになりました。」
「それだけで十分です。」
「前に立つ人は。」
「必ず隣で支えてくれる人を必要とします。」
凪は初任務で乗った《ハヤテ》を思い出す。
前席の朝比奈。
後席の自分。
あの機体は、一人では飛べなかった。
「……そうですね。」
小さく頷く。
アマツも夜空を見上げる。
「私が尊敬した人たちも。」
「決して一人ではありませんでした。」
「支え合っていたからこそ。」
「未来へ進めたのです。」
凪はその言葉を静かに受け止める。
遠くで基地の消灯ラッパが鳴った。
一日が終わる。
今日もまた、一つ学んだ。
人を守るということは。
誰かの前に立つことだけではない。
その背中を、静かに支え続けることもまた、人を守るということなのだ。
夜風が二人の間を穏やかに吹き抜けていった。
ーーー
第十九話 先輩
七月。
朝。
教育隊。
青空の下、整列した隊員たちの前へ教官が立つ。
「本日より。」
「夏期入隊課程が始まる。」
正門の方を見る。
新しい制服に身を包んだ新入隊員たちが緊張した表情で並んでいた。
人数は二十名ほど。
まだ制服も身体に馴染んでいない。
「補習課程の隊員も。」
「必要に応じて訓練支援を行う。」
「分からないことは教えてやれ。」
「以上。」
「敬礼!」
◇
午前。
装備倉庫。
凪は訓練用装備を運んでいた。
そこへ、一人の新入隊員が駆け寄ってくる。
「あ、あの!」
凪は足を止めた。
「何でしょう。」
少年は少し緊張した様子で敬礼する。
「すみません!」
「通信端末の受領場所が分からなくて……。」
凪は倉庫の奥を指差した。
「受付は向こうです。」
「書類を提出すると受け取れます。」
「ありがとうございます!」
少年は安心したように頭を下げる。
「助かりました!」
そのまま走り出そうとして、ふと振り返る。
「ありがとうございました!」
「先輩!」
凪は目を瞬かせた。
「……。」
少年は気付かず走り去っていく。
◇
昼休み。
食堂。
陽菜が笑いながら席へ座る。
「聞いたよ。」
「何でしょう。」
「先輩。」
凪は少し首を傾げた。
「私のことでしょうか。」
「そう。」
「新入隊員が凪のこと、『優しい先輩だった』って話してた。」
美琴も笑う。
「補習生なのにね。」
拓真が肩をすくめる。
「補習かどうかなんて、新人には関係ないさ。」
「今ここに長くいる人は、みんな先輩だ。」
凪は湯気の立つ味噌汁を見つめる。
「先輩……。」
まだ実感は湧かなかった。
◇
午後。
基礎訓練場。
新入隊員たちが整列している。
教官が声を張る。
「装備の装着!」
慣れない手付きでベルトを締める新人たち。
一人だけ、通信ユニットの向きを逆に取り付けている隊員がいた。
凪は静かに近付く。
「失礼します。」
「はい!」
「こちらが前です。」
「あっ!」
新人は慌てて付け直す。
「ありがとうございます!」
「気にしないでください。」
「最初は皆さん間違えます。」
新人は安心したように笑った。
「先輩もですか?」
凪は少し考える。
「……はい。」
「私も、たくさん教わりました。」
それは嘘ではなかった。
教わった相手は、仲間であり、教官であり、アマツだった。
◇
夕方。
訓練終了。
新入隊員たちが宿舎へ戻っていく。
その中の一人が小さく話している。
「金髪の先輩。」
「すごく丁寧だったな。」
「女の人かと思った。」
「違う違う、男らしいぞ。」
「えっ、本当に?」
笑い声が風に乗って聞こえてきた。
凪は少し離れた場所から、その様子を見ていた。
◇
夜。
資料館。
「ただいま帰りました。」
「おかえりなさい。」
アマツが珈琲を淹れていた。
「今日は何かありましたか。」
凪は少し考えて答える。
「先輩と呼ばれました。」
アマツは穏やかに微笑む。
「そうですか。」
「嬉しかったですか。」
「……分かりません。」
正直な返事だった。
「ですが。」
「少し不思議でした。」
アマツはカップを差し出す。
「きっと。」
「凪さんは、自分が思っている以上に前へ進んでいるのでしょう。」
凪は湯気の向こうの珈琲を見る。
数か月前。
ここへ来たばかりの自分は、何をするにも教わる側だった。
今は、誰かに教えることがある。
その変化は小さい。
けれど確かに積み重なっていた。
窓の外では、夏の夜空に星が静かに瞬いている。
凪は珈琲を一口飲み、穏やかに息をついた。
その香りは、今日も変わらず優しかった。
作品統計
📚 本を探すなら「よみどき」(あいぺんが運営する本の発見サイト)
130万冊を超えるコミック・小説・書籍の順位と値段を毎日みて、いま読むものを決められます。