第1話 新しいメイドと三つの鍵
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あらすじ
貴族フェルン家に仕える住み込みメイド、セラ・ミルト。飛び抜けて器用ではないけれど面倒見が良く、頼まれごとには何でも即答してしまう性分。主人一家に振り回され、時にはドジも重ねながら、新人指導や屋敷の困りごとを人と人の繋がりでほどいていく。小妖精の噂も囁かれるこの屋敷で、セラは今日も手一杯の一日を駆け回る、心温まる日常物語。
本文
フェルン館の朝は、鐘より少し早く始まる。
厨房では竈の火が赤く息を吹き返し、裏庭では井戸の滑車が軋み、東向きの窓に嵌められた淡青色の魔硝子が朝日を受けて、長い廊下を水の底のように染めていた。
セラ・ミルトは、その廊下を籠を抱えて早足で曲がった。
「ノーラ、古い布巾ってまだ――わっ」
角の向こうに人がいた。
ぶつかる寸前で籠を胸へ引き寄せ、干したばかりの布巾が一枚、二人の間をひらりと落ちる。
「す、すみません!」
先に謝ったのは、見慣れない少女だった。
年の頃は十五、六。真新しい紺のメイド服は肩にまだ馴染んでおらず、白いキャップも心なしか借り物めいて見える。薄茶色の髪をきっちり編み込んでいるのに、その手は行き場をなくして前掛けの端を握っていた。
「あたしこそ、ごめんね。いつもここで曲がるのに失敗するの」
セラは落ちた布巾を拾い、籠へ戻した。
「いつも、ですか」
「たまに。……少し多めの、たまに」
少女の口元がわずかに緩む。
その向こうから、硬い靴音が近づいてきた。
「朝から新人を轢きかける指導役がどこにいるんだい」
侍女長のマルタだった。きっちり結い上げた髪も、皺ひとつない濃灰色のドレスも、朝の忙しさ程度では崩れそうにない。
セラは籠を抱え直した。
「指導役?」
「今からあんただよ」
マルタは隣の少女へ目を向けた。
「エルシー。こちらがセラ・ミルト。役職はないが、館のことは一通り知ってる。分からないことがあれば、まずこの子に聞きな」
「はい。エルシーと申します。よろしくお願いします、セラ先輩」
「先輩」
セラは一度、自分の胸元を見た。七年も着ているメイド服は見慣れているのに、その呼び名だけがずいぶん立派に聞こえた。
「そんなに固くならなくて大丈夫だと思う。あたしも最初は、塩壺と砂糖壺を間違えたから」
「慰めるなら、もう少しましな話を選びな」
「今は間違えません」
「当たり前だよ」
マルタはため息をついたが、エルシーは今度こそ小さく笑った。
「午前中は館内を案内して、昼から洗濯場へ入れておくれ。セラ、自分の仕事もあるのを忘れるんじゃないよ」
「はい。大丈夫です」
「予定を確認したのかい」
「……これからします」
「先にしな」
言われて、セラはエプロンのポケットから折り畳んだ仕事表を出した。開きかけたところで、厨房の方からノーラの声が飛んでくる。
「セラー! その布巾、使うなら三枚ちょうだい!」
「はい、今持っていく!」
仕事表は半分開いたまま、またポケットへ戻った。
マルタの眉が上がる。
セラは見なかったことにして、エルシーへ笑いかけた。
「じゃあ、厨房から行こうか。竈番のオルガさんは忙しいと声が大きくなるけど、怒ってるわけじゃないからね」
厨房、食料庫、使用人食堂、洗濯場。
セラは歩きながら、戸棚の位置だけでなく、そこで働く人のことも教えた。
「洗濯場のノーラは、分からないことを聞くとちょっと笑うけど、ちゃんと最後まで教えてくれるよ」
「聞いてるんだけど」
「聞こえるように言ったの」
洗い桶の向こうで、ノーラが濡れた腕を腰へ当てた。赤褐色の髪を布でまとめ、セラより二つ下とは思えないほど手際よくシーツを絞っている。
「新人さん、エルシーだっけ。セラが『大丈夫』って三回続けて言ったら、一回は疑った方がいいよ」
「そんな決まりないよ」
「今日からできたの」
「覚えておきます」
真面目な顔で答えられ、セラは口をつぐんだ。
洗濯場を出ると、エルシーが小声で尋ねた。
「仲がよろしいんですね」
「うん。ノーラは口が少しだけ悪いけど、頼りになるの」
「全部聞こえてるよ!」
背後から声が追いかけてきた。
続いて案内したのは、東階段、主人一家の居室へ続く中央廊下、家庭教師が使う学校室だった。
学校室の奥には、青く塗られた小さな戸棚がある。植物画や標本帳、鉱石見本などが収められており、子供が勝手に開けないよう鍵が掛けられていた。
「ここの掃除は午後。机の羽根ペンは右、白墨は左ね。お嬢様は窓側の椅子がお好きだけど、雨の日は隙間風が入るから――」
「セラ!」
扉から金色の髪が覗いた。
ミレイユだった。十歳の子爵令嬢は、抱えた本の陰からエルシーを見つけると、慌てて背筋を伸ばした。
「おはようございます、お嬢様」
「おはよう。そちらが新しい方?」
「はい。エルシーです」
「よろしくね、エルシー」
エルシーが深々と礼をする。その角度があまりに真っ直ぐなので、ミレイユもつられて少し深く頭を下げた。
それからミレイユは、セラの袖をそっと引いた。
「お願いがあるの。戸棚の中の押し花帳を出してほしいのだけれど」
「押し花帳ですね」
「先生がいらっしゃる前に、去年の月鈴草を見ておきたくて。少し急いでいるの」
「分かりました。すぐお持ちします」
ポケットの仕事表は見なかった。
学校室を離れ、中央階段を下りかけたところで、今度はエドガー子爵と出会った。領地の古い地図を脇に挟み、眼鏡を額まで押し上げている。
「ちょうどよかった、セラ。西の書斎にある測量台帳を取ってきてもらえないだろうか。灰色の革表紙で、棚の下段に入っているはずだ」
「はい、旦那様」
「執事と確認したいんだ。できれば彼が村へ出る前に」
「すぐにお持ちします」
エドガーはエルシーに気づき、目元を和らげた。
「今日からだったね。フェルン館へようこそ。分からないことは遠慮なく尋ねるといい。私もよく分からないまま植木を買って、庭師に叱られている」
「旦那様、それは新人を安心させる話でしょうか」
「少なくとも、失敗するのは新人だけではないと分かるだろう?」
「それは、そうだと思いますけど」
エドガーが去ったあと、エルシーは少し驚いた顔をしていた。
「旦那様は、いつもあのように?」
「うん。思いつくとすぐ動かれる方だから、庭師のバルトさんに用事があるときは、旦那様にも聞いておくと二度手間にならないよ」
その説明をしながら食堂前を通ると、開いた扉からリディア夫人に呼び止められた。
長卓の上には昼食用の食器が並び始めている。夫人は二枚の花皿を見比べていた。
「セラ、北のリネン室にある月蔓刺繍の卓布を出してもらえるかしら。お昼に司祭様がお寄りになるそうなの」
「月蔓刺繍のものですね」
「ええ。銀糸の縁取りがある方よ。食事の支度が整う前でいいわ」
「はい、すぐに」
返事をしてから、セラは指を三本立てた。
「押し花帳、測量台帳、卓布。学校室、西の書斎、北のリネン室」
「先輩、どれから向かわれますか」
「ええと、お嬢様がお急ぎで、旦那様は執事さんが出る前で、奥様は昼食の前だから……」
厨房の方で午前の小鐘が鳴った。
「まず鍵を取ろうか。歩きながら考えれば大丈夫」
セラは明るく言った。
エルシーは何か言いかけたものの、「はい」と頷いて後を追った。
使用人通路の鍵板には、大小さまざまな鍵が掛けられている。
セラは自分の使い込んだ鍵束から真鍮の輪を外し、必要な三本を加えた。
どれも鉄製で、長さも重さもよく似ている。丸い頭には小さな刻印板が嵌め込まれていたが、長年指で擦られた文字は浅くなり、煤けた表面に紛れていた。
「これは学校室の戸棚。こっちが書斎で、これがリネン室」
セラは一本ずつ指した。
「……たぶん」
「たぶん、ですか」
「大丈夫。場所へ行けば分かるから」
エルシーが一瞬だけ黙った。
セラは鍵束を腰へ下げ、最初に学校室へ戻った。
ミレイユはまだ来ていなかった。青い戸棚の前へ膝をつき、三本のうち一本を鍵穴へ差し込む。
途中までは入った。
けれど、回らない。
「あれ?」
抜いて向きを変え、もう一度差し込む。やはり回らない。
「古い鍵穴だから、ときどき固くなるの。無理に回すと折れるから、先に別のを済ませようか」
セラは立ち上がった。
「でも、押し花帳は」
「すぐ戻るよ」
次に向かったのは北のリネン室だった。
廊下の途中で厨房から呼び止められ、空の香草籠を食料庫へ返すよう頼まれた。セラは「はい」と受け取り、エルシーへ館の古い石壁は冬でも魔石炉の熱を逃がしにくいのだと説明しながら、香草籠を窓辺へ置いた。
そして、そのまま忘れた。
北のリネン室で、銀糸の月蔓が刺繍された卓布の入った長櫃を見つける。二本目の鍵を差した。
入らない。
「ええと。これは、違うね」
「先ほどの鍵と交換されてみては」
「うん。でも先に旦那様の台帳を出そう。執事さんが出かけちゃうから」
学校室へ戻れば済むことだと分かっていた。
だが、廊下を引き返す時間が惜しく感じられた。先に一番期限の近いものを片づければ、残りは落ち着いてできるはずだった。
西の書斎まで来たところで、セラは少し息を切らしていた。
エルシーの頬も赤い。
「ごめんね、歩くのが速かった?」
「いえ、大丈夫です」
「本当に?」
「……少しだけ、速いです」
「そっか。ごめん。帰りはゆっくり歩こう」
セラは後れ毛を息で吹き上げ、書棚の下段にある台帳戸棚へしゃがみ込んだ。
残った三本目の鍵を差す。
かちり、と浅い音がした。
けれど、鍵は回らなかった。
セラの手が止まる。
廊下の向こうで、出立を知らせる馬の鈴が鳴った。執事が村へ向かう馬車の支度を始めた音だった。
「……三本とも、違う」
誰に聞かせるでもなく、セラが言った。
腰の鍵束を外す。最初の一本を学校室で、二本目をリネン室で、三本目をここで使った。
どれも合わなかった。
つまり三本とも、順番を取り違えている。
「先輩」
エルシーの声が慎重になる。
「鍵板へ戻って、別の鍵を取ってきましょうか」
「ううん。三本はこれで合ってるはずなの。あたしが掛ける順番を間違えただけで。最初から回れば――」
セラは鍵を掌に並べた。
どれがどれだったか。
刻印へ顔を近づける。掠れた線がある。『書』にも『衣』にも見えるし、単なる傷にも見えた。
頭の中で、三つの行き先が互いに場所を入れ替える。
「学校室がこれなら、あっちはリネンで、残りが書斎。違う、学校室で使ったのがリネンだから、リネン室で使ったのが……ええと、一、押し花、二、台帳、三、卓布。まず旦那様で、でもお嬢様の先生が――」
馬の鈴がもう一度鳴った。
「先輩、あの」
「大丈夫。すぐ分かるから」
答えは早かった。
自分でも、何が大丈夫なのかは分からなかった。
セラは三本を握り、立ち上がった。その拍子にエプロンのポケットから仕事表が落ちる。畳まれたままの紙が、石床を滑った。
エルシーが拾おうとするより先に、書斎の扉が開いた。
「台帳は見つかったかい?」
エドガーが顔を出した。
セラは鍵を背中へ隠さなかった。
「申し訳ありません、旦那様。まだです」
「場所が分からなかったかな」
「いいえ。あたしが三本の鍵を取り違えました。確認しないまま持ち出して、学校室とリネン室でも違う鍵を使っています」
言葉にすると、散らばっていた失敗が一列に並んだ。
胸の奥が重くなる。
「すみません。あたしの確認が足りませんでした。すぐに順番を調べて、台帳をお持ちします。執事さんには、少しだけ出立を待っていただけないか、あたしからお願いします」
「分かった。馬車は少しくらい待たせられる。走って階段から落ちないようにね」
「はい」
叱責されなかったことに安堵する暇もなかった。
セラは書斎を出ると、仕事表をエルシーから受け取った。
「エルシー、ごめんね。初日から連れ回して」
「わたしは大丈夫です」
「でも、これはあたしの間違いだから。あなたが鍵を渡し間違えたわけじゃないし、あなたのせいじゃない。そこは気にしなくていいからね」
エルシーの指が、仕事表の端からそっと離れた。
「はい」
セラはまず執事を止めようと階段へ向かった。
そこで、洗い上がった卓布の束を抱えたノーラと鉢合わせた。
「今度は何に追いかけられてるの?」
「鍵を三本とも取り違えた」
「全部?」
「全部」
「器用だね」
「今は褒めないで」
ノーラはセラの顔と、後ろのエルシーを見比べた。
「何が残ってる?」
「旦那様の台帳と、奥様の卓布と、お嬢様の押し花帳。執事さんがもう出るし、昼食の支度も始まってるし、家庭教師の先生もそろそろ来ると思う」
「それで一人で三方向へ走るつもり?」
「順番さえ分かれば――」
「分かってないんでしょうが」
返す言葉がなかった。
セラの手の中で、三本の鍵が触れ合って鳴る。
ノーラは片手を差し出した。
「貸して」
「でも、ノーラも洗濯が」
「今は干し待ち。五分なら動ける」
「五分じゃ足りないよ」
「じゃあ十分。ほら、言うことは?」
セラは鍵を握ったまま、唇を開いた。
頼めばいい。
頭では分かっている。それなのに、喉に小さな骨でも引っかかったようだった。
「……手伝ってもらえる?」
「最初からそう言えばいいの」
ノーラが鍵を受け取る。
そのとき、エルシーが三本を覗き込んだ。
「この鍵、色が残っています」
「色?」
エルシーは一本の丸い頭を指した。刻印板と鉄枠の隙間に、ごく小さな青い欠片が詰まっている。
「蝋だと思います。学校室の青い戸棚にも、鍵穴の下に同じ色が少し残っていました」
「本当?」
セラは目を凝らした。
別の鍵には暗い緑。もう一本には、赤茶色の蝋が薄くこびりついている。
「北の長櫃は緑色の糸で番号札が留められていました。西の書斎の戸棚は、鍵穴の横に赤い封蝋の跡がありました。ですから、青が学校室、緑がリネン室、赤が書斎ではないでしょうか」
「エルシー、よく見てたね」
「覚えることが多かったので、目印を探していました」
ノーラが緑の鍵をつまみ上げた。
「じゃ、私はリネン室。卓布を奥様へ届ける」
「お願い。月蔓刺繍で、銀糸の縁取りの方」
「了解」
「書斎はあたしが行く。台帳を旦那様へお渡ししてから、青い鍵で学校室へ――」
「それでは間に合わないかもしれません」
エルシーが言い、すぐに口を閉じた。先輩の言葉を遮ったことを気にしたらしい。
セラは急かさず、続きを待った。
「どうしたらいいと思う?」
「わたしが学校室まで青い鍵をお持ちします。お嬢様がいらしたら、事情をご説明して待っていただきます。戸棚は、セラ先輩が来てから開けます」
「一人で道は分かる?」
「東階段を上がって、魔硝子の廊下を右です」
「うん、合ってる。お願いしてもいい?」
「はい」
ノーラが緑、エルシーが青、セラが赤。
三人は階段前で分かれた。
「ノーラ、奥様に遅れたのはあたしの取り違えだって伝えて」
「分かった」
「エルシー、走らなくていいからね。階段は二段目の端が少し欠けてるから」
「はい、セラ先輩もお気をつけて」
「セラが一番危ないんだから!」
ノーラの声を背中に受けながら、セラは西の書斎へ戻った。
赤い蝋の残る鍵は、台帳戸棚の錠へ滑らかに入った。
かちり。
今度は確かな音がして、扉が開く。
下段から灰色の革表紙を抜き出すと、細かな埃が舞った。セラは袖で払おうとして、やめた。袖で払えばマルタに叱られる。持っていた布切れで表紙を拭い、エドガーへ差し出した。
「お待たせしました。測量台帳です」
「ありがとう。間に合ったよ」
執事はすでに外套を着ていたが、怒った様子はなく、台帳を受け取って必要な頁を開いた。
エドガーは刻印の薄い鍵を見た。
「ずいぶん擦れているね」
「はい。でも、あたしが確かめなかったのが一番の原因です」
「両方、直した方がよさそうだ」
「後で侍女長へ報告します」
セラは一礼し、書斎を出た。
学校室へ急ぎながらも、階段の欠けた二段目だけは足を緩めた。
青い戸棚の前では、エルシーとミレイユが並んで待っていた。ミレイユの家庭教師も窓辺で教材を広げている。
「お待たせして申し訳ありません、お嬢様。あたしが鍵を取り違えました」
「三本とも、と聞いたわ」
「はい。三本ともです」
ミレイユは目を丸くしたあと、笑うのを堪えるように唇を結んだ。
「一本も当たらなかったの?」
「見事に」
「それなら、次は全部当たるわね。もう間違った方が分かっているもの」
「そうだといいんですけど」
エルシーから青い鍵を受け取り、錠へ差す。
鍵は軽く回った。
戸棚から押し花帳を取り出すと、ミレイユは大切そうに胸へ抱えた。褪せた青紫の花弁が、紙の間から少しだけ覗いている。
「ありがとう、セラ。エルシーも、待っていてくれてありがとう」
「いいえ。お役に立てたなら嬉しいです」
エルシーの礼は、朝よりほんの少しだけ柔らかかった。
学校室を出るころには、ノーラも食堂から戻ってきた。
「卓布、間に合ったよ。奥様が『普通の卓布でも司祭様は怒らないけれど、月蔓の方が春らしいから嬉しいわ』だって」
「よかった」
「あと、香草籠が窓辺に置き去りだった」
「あっ」
「ついでに戻しておいた」
「ありがとう、ノーラ」
「貸し一つね」
「今日のおやつ、胡桃入りだったと思う」
「半分でいいよ」
「一つじゃなくて半分?」
「おやつの話」
ようやく、セラの肩から力が抜けた。
エルシーが小さく笑った。
鍵三本は、もう取り違えないよう、ひとまず色布を結んで見分けることにした。青は学校室、緑はリネン室、赤は書斎。セラが裁縫道具から端切れを出し、エルシーが細く切り、ノーラが「結び目が甘い」と横から締め直した。
三人で鍵板の前へ立つ。
朝には同じ顔に見えた三本が、今はそれぞれ違う色を揺らしていた。
昼食後、セラとエルシーは侍女長室へ呼ばれた。
マルタは机の上に三本の鍵を並べていた。
「まず、刻印がここまで薄れていたことは、こちらの管理不足でもある。今週中に打ち直しを頼むよ。色布はそれまでの仮札として使おう」
「はい」
「エルシー。色の跡に気づいたそうだね」
「たまたま目に入りました」
「たまたまでも、見たものを口にできたのはいいことだ。これからも気づいたことがあれば言いな」
「はい」
マルタの目がセラへ移った。
セラは背筋を伸ばした。
「さて。あんたは三つの頼まれごとを、時間も順番も確かめずに引き受けた」
「はい」
「鍵の刻印が薄いと気づきながら、『場所へ行けば分かる』で済ませた」
「はい」
「一本目が合わなかった時点で確かめず、二本目、三本目と館中を歩き回った」
「……はい」
机の上で、鍵が冷たく光っている。
「忙しい時ほど、最初の確認を惜しむんじゃないよ。その一息を惜しんで、十倍走る羽目になる」
「申し訳ありませんでした」
セラは深く頭を下げた。
「エルシーにも、皆さんにも迷惑をかけました。あたしの確認不足です」
「分かっているなら、次から気をつけな」
頭を上げると、マルタはまだ厳しい顔をしていた。
ただ、その声は少し低くなった。
「それから、新人のせいにしなかったこと。混乱していても、この子を一人で走らせず、道と注意点を確かめたこと。失敗した後の始末から逃げなかったことは、悪くなかったよ」
セラはすぐには返事ができなかった。
「……ありがとうございます」
「褒められたと思って安心するんじゃない。今日の案内はまだ終わってないよ」
「はい」
「エルシーを洗濯場へ連れておいき。今度は走らずに」
「はい」
侍女長室を出ると、エルシーが隣で小さく息を吐いた。
「緊張した?」
「少しだけ」
「あたしは今でも緊張するよ」
「七年いらっしゃるのに?」
「七年いるから、叱られる前に何を言われるか分かるようになったの。分かるだけで、叱られなくなるわけじゃないけど」
エルシーは笑い、それから色布のついた鍵束を見た。
「セラ先輩」
「なに?」
「今日は、ありがとうございました」
「あたし、館中を連れ回しただけだよ」
「名前をたくさん教えていただきました。どなたに何を聞けばいいかも。それに、わたしが悪いのではないと、すぐに言ってくださいました」
セラは後れ毛を吹き上げた。
「新人の頃って、自分が何かしたんじゃないかって心配になるから。あたしもそうだったし」
「では、明日も教えていただけますか」
「もちろん。何でも聞いて」
返事は、やはり予定を確かめるより早かった。
洗濯場ではノーラが、二人分の前掛けと山のようなシーツを用意して待っていた。
「遅い。新人さん、午後は畳み方からね。セラはそっちの山」
「これ全部?」
「胡桃のおやつ半分で手伝ってあげる」
「さっき貸し一つって言ったのに」
「だから半分で済むの」
エルシーが袖をまくる。
セラも白いシーツの端を持った。
「最初は角を合わせれば大丈夫。ずれても広げ直せるからね」
「はい」
「じゃあ、一緒にやろうか」
三人で布を張ると、洗いたての匂いがふわりと広がった。
窓の外では、昼を告げる鐘が鳴っている。三本の鍵は新しい色布を揺らし、今度こそ正しい場所へ戻された。
シーツを畳み終え、次の一枚へ手を伸ばしたところで、洗濯場の扉からミレイユが顔を覗かせた。
「セラ。明日、少し相談があるの」
「はい、大丈夫です」
マルタの言葉も、仕事表も、その瞬間だけは頭から抜けていた。
ミレイユはエルシーとノーラを見てから、声を潜める。
「内緒の相談よ」
「分かりました。誰にも言いません」
セラが即答すると、ノーラが隣で「ああ、また」とでも言いたげに片眉を上げた。
けれど何も言わず、シーツの向こう側を持ち直す。
エルシーも見よう見まねで、ずれた角を合わせた。
フェルン館の午後は、朝よりほんの少しだけ人数を増やして、いつも通り忙しく進んでいった。
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